彦根城見物その1

新大阪から彦根へはJRの新快速で1時間15分ほど。ちょっと時間があるのでウィキペディアをプリントして持ってきている。拾い読みしてみると略略以下のようである。

関ヶ原の戦いの後、近江の国に封ぜられた徳川四天王の一人井伊直正は琵琶湖岸近くに築城を計画していたが、関ヶ原の戦傷が癒えず翌々年に死去した。井伊家の申し出を受けて家康は築城を指示、慶長9年(1604)、琵琶湖に面した彦根山に築城が始まった。
大坂をにらむ彦根城の築城は12大名が手伝いを命じられるいわゆる天下普請であった。慶長11年(1606)、天守完成と同じ頃に直正の嫡男直継が入城、夏の陣で豊臣が滅亡後は彦根藩のみの手により御殿が建造され、元和8年(1622)に彦根城が完成した。なお、彦根城を築くにあたり大津城、佐和山城などを破却し、その櫓などを彦根城に廃物利用したとされる。

西国大名の抑えとして徳川幕府の重要な軍事拠点だった彦根城だが、徳川の世が落ち着いてくると、主な機能は年貢米の保管となり天守や櫓は倉庫等として使う以外には使い道はなかった。
戦いが無くなり太平の世が続くと豪勢な城郭は無用の長物と化したと言うことのようだ。

なお、安政の大獄の井伊直弼は35歳まで、この城下で過ごしていた。己の屋敷を埋木舎と呼んでいたそうなので、自分は花を咲かせることのない埋木と自覚していたようだ。
14男、しかも父が隠居後に生まれた庶子とあっては無理からぬことと思われる。
が、庶子の14男が藩主となり、さらに江戸幕府の大老となった。人の一生には何があるか分からない。

明治になって、廃城令により多くの城が廃却され、彦根城も解体が進んでいたが明治天皇の北陸巡幸に同行した大隈重信が天皇に保存を願い出て了承され、解体が中止された。
昭和20年8月15日、米軍は彦根の爆撃を予定していたが、敗戦の詔勅が出されたことにより焼失を免れた。



彦根城MAP、「公式」国宝彦根城…URL( https://hikonecastle.com)より、カラフルで丁寧に描かれていて分かり易い。彦根城への入口は手前側に表門と大手門、本丸の裏手に黒門の3つあるらしい。

彦根城は標高約136mの彦根山の山頂に築かれたとされるが、山麓の海抜が86mほどなので彦根山の高さは約50mくらいのようだ。

(彦根市のホームページによれば、直継は築城開始後すぐに佐和山城から鐘の丸に移り、2年後(1606)に天守が完成すると、天守の前に御広間が建立され直継は再びここに移って御殿とした。
ほぼ10年経った大坂の陣後は正孝によって築城工事が再開され、城郭改造や麓に新御殿として表御殿が建立された。表御殿は彦根藩の政庁であるとともに藩主の居館でもあった。1622年には城郭の構成がほぼ整い、完成した。
明治なって御殿はすべて取り壊された。跡地に彦根城博物館が建っている)



JR彦根駅から大通りを15分ほど歩くと、突き当りの護国神社のそばに「彦根城周辺案内図」の看板が立っている。ここから左手に少し進むと彦根城のお堀が見えてくるようだ。
中堀に咲くソメイヨシノは満開を迎えている。

右手はいろは松、中堀沿いの松並木で47本あったことから、いろは47文字にちなみ「いろは松」と呼ばれるようになったらしい。二代藩主直孝の頃に植えられたそうで、現在は34本残っているとのこと。正面遠くに見えるのは二の丸佐和口多聞櫓。
いろは松の並木道を進んでいくと、彦根城の見どころが詳しく描かれた案内パネルがある。この道を進んで行くと表門から彦根城天守に向かえるようだ。

中堀に架かる橋から右手を見ると多聞櫓らしきものが見えるが、彦根城MAPによると開国記念館となっている。
左が二の丸佐和多聞櫓の石垣、右手が開国記念館の石垣、そばに立っているパネルによれば、ここにはかって高麗門があり、その内側を鈎の手に曲げて櫓門が築かれており城門の形式は枡形の重厚な構えになっていたそうだ。
(佐和山城から移築された二の丸佐和口多聞櫓は明和4年(1767)に火災で焼失し、現在の建物は明和8年に再建されたもの。明治になって、櫓門は失われたが、本来はその右に伸びる多聞櫓(現開国記念館)と一体のものである)
二の丸佐和口多聞櫓の説明パネル

表門橋の近くの事務所でチケットを買って登城道に向かう。階段は踏み面や高さが不規則でバラバラ、体力の無い老人にはきつい。天守まで140段ほどあるらしいが、もともと戦国時代の造りなので敵兵が攻めてきたときに一気に駆け上がれないように造られている。ちょっと休んだりしながら登っていると孫に手を添えて貰いながら登っているおばあちゃんもいてほほえましい。
廊下橋(落とし橋)…天秤櫓と鐘の丸の間に架かっており、表門の参道と大手門からの参道の坂道を登り切ると、ここでぶつかることになる。当時は敵兵が攻めてきた時には橋を落とす仕掛けになっていた。

廊下橋をくぐって大手門参道寄りの階段を上る。

天秤櫓… 階段を上り、鐘の丸の隅を通って廊下橋の上に出て来た。廊下橋の先にあるるのが天秤櫓。廊下橋に通じる櫓門部分を真ん中に、左右に伸びている多聞櫓の角が二層櫓となっており、左右対称の天秤のように見えることから天秤櫓と呼ばれるようになった。長浜城から移築したものと考えられている。建物土台の石垣は向かって右側が築城当時の打込みハギ積み、左側が江戸時代後期の改修による落とし積みとなっているそうだ。


天秤櫓門をくぐってゆるやかな坂道を天守に向かう。

太鼓櫓門、続き櫓…門の傍のパネルによれば、太鼓門は天守がある本丸表口をかためる櫓門で、城内合図の太鼓を置いたところから名付けられたそうだ。建物の背面が解放され高欄付きの廊下となっていて、櫓では大変稀な構造となっているとこと。なお、この太鼓門は佐和山城の城門を移築したものと言われている。



やっと本丸天守台に上ってきた。天守はちょっと小ぶりだが雲一つない青空を背景に優美な感じである。
この天守は京極高次が城主であった大津城の天守の用材を転用して建てられたと伝えられている。大津城のもともとの築城は浅野長政によるもので、4層5階の天守であったが5層の江戸城より低くするために敢えて3層に縮小して移築したとも言われている。
通し柱を用いず、各階ごとに積み上げられた天守は、3層3階地下1階の複合式望楼型と言われ、最上階には外廻り縁と高欄を付けているそうな。
少し前に進むと、カメラ撮影用のひこにゃんのはりぼてがお出迎え。


樹齢を経たソメイヨシノに天守が隠される。


白いテントのところで靴を脱いで天守の見学をする。
満開の桜の彼方に琵琶湖が見える。


城内の見物を終えて外に出る。
改めて天守をみると石垣が結構高い。石積は牛蒡積みと言うだそうだ。
1層のゆるやかな3角形屋根が二つ並んでいるのは「切り妻破風」。その二つの切り妻破風に乗っかっているのが「入母屋破風」、その上の弓なりなっているは「唐破風」。3層、頭頂部の大屋根にはちょっと小ぶりな「入母屋破風」。
3層屋根の入母屋破風以外の破風はお城の装飾のためであり、これにより豪華、華麗美しさが演出されるが、防御力が増すわけでない。
鎧や兜などなど写真撮影の小道具を揃えて業者がお客を待っている。
天守のソメイヨシノをもう一枚。右手に伸びているのが多聞櫓。


彦根城のゆるキャラひこにゃんの御出まし。係のおねえさんの楽しい会話に合わせて見物客を楽しませてくれる。