世界のえーとこ見に行こう!!   

ご用とお急ぎのない方は、ごゆっくりどうぞ。

スポット: 美術館・博物館 (1ページ / 13ページ)

7日目 ブドヴァ、コトル、ドゥブロブニク

4日目 ウスアイア~カラハテ

世界の果て博物館

世界の果て博物館

元アルゼンチン銀行の支店だったそうだが、小さな博物館である。日本語のリーフレットをみると、先住民と冒険家のコーナーがメインで、フェゴ島の鳥のコレクションの展示室や監獄のコーナーなどがある。

先住民コーナー

ヨーロッパ人がやって来た時、フェゴ島にはヤマナ族、カワスカル族、オナ族やマネケンク族などの先住民が住んでいたが、そのうち主な部族であるヤマナ(ヤーガン)族とオナ(セルクナム)族の生活の様子が写真で紹介されている。

ヤマナ族はフェゴ島の南部からホーン岬で魚介類を糧にして、裸同然で暮らし、セルクナムは南東部で狩猟をし、グアナゴの毛皮で体を覆っていたようだ。重要な慣習として、若者が暗い小屋で霊と称されるものと向かい合うハインという通過儀礼も行われたらしい。

オナ族の女性3人が並んでいる写真を見ると、われわれ東洋人とよく似ているように思える。アジアのモンゴロイドが氷河期の末期にベーリング海峡渡り、1万2千年前頃にはアメリカ大陸を北から南へと大移動を始め、その一部が南米大陸の最南端まで達したと言われている。何万年もかけて途方無い旅の末に世界の果て、フェゴ島に辿り着いた先住民はわれわれと同じ祖先を持っているということなのだろうか。

もっとも、先住民はヨーロッパ人が持ち込んだ疫病と虐殺によって絶滅、ガイドさんによれば現在、生き残っているのは80才を越えた女性が唯1人いるらしい。

冒険家たち

ウスアイアを訪れた冒険家たちや起こった事柄を年代記風に並べ、その主なものがパネルで詳しく紹介されている。

イギリス福音教会伝道所

1830年の1回目のビーグル水道探検の際に、実はジミー・バトンなど4人のヤマナ族をイギリスに連れ去り、ダーウィンが乗船した1832年の2回目の調査では3人を故郷に返した(1人はイギリスで死んだ)のだと言う。キリスト教の伝道に役立つと思ったらしい。

このビーグル号の乗組員だったガーディナー大尉は海軍を退役して牧師となって、1848年に伝道所を作る目的でフェゴ島に赴いたが、先住民とうまく暮らすことが出来なかった。3年後に再びフェゴ諸島のピクトン島に上陸したが助けて貰えると思ったジミーなどに会えず、先住民の襲撃から逃れるためにフェゴ島のアギレ湾に向い、そこで飢えと寒さのなかで死んでいったそうだ。

モンテ・サーバント号

1927年に建造されたハンブルグ・スダメリカーナ社の2万トンの客船。1930年1月21日にウスアイアに投錨した。翌日、乗客はウスアイアの街と近郊を楽しみ、乗客1200人と乗組員350名をのせて、正午過ぎにはウスアイアを出航し、ブエノスアイレスに向かった。しかし、わずか数マイル走ったとろで、エクレルール付近の岩礁に乗り上げた。船首に亀裂が発生したので船が見放されたことは誰の目にも明らかであった。

ボートが降ろされ、乗組員とウエイターは乗客を岸に着けるためにオールを握った。そしてその日が終わる頃には、すべての乗客と乗員はホテルや教会、一般家庭に収容された。当時、ウスアイアの人口は800人ほどだったそうなので、大騒動が目に浮かぶようである。船は24時間以上漂流した後に転覆、沈没したという。

このほかパネルには、サン・セバチャンの虐殺で知られるラモン・リスタのフェゴ島東部の調査やサレジオ会の伝道所の設立などが語られている。

ヤマナ語辞書

壁際に、‘YAMANA – ENGLISH’と題されたページが開かれた本が置かれて、見開きにはトーマス・ブリッジス牧師の写真が載っている。写真をみると、ブリッジス師は幾多の風雪に耐えた強靭な精神の持ち主であることが読み取れる。
‘YAMANA – ENGLISH’はブリッジス牧師が3万2千語のヤマナ語を英語に翻訳した辞書である。

子共の頃、養父のデスパート牧師に連れられてフェゴ島にやって来た時には、ブリッジスはヤマナ族を習得して通訳のような役割もしていたらしい。その後、彼はヤマナ語が複雑な言語構造や語彙を持っていることが分かり、若くして、ヤマナ語の辞書をつくる決心をしたと言う。

辞書があればキリスト教の伝道にも役立つと考えたものと思われる。そうして、その後の生涯にわった途方も無い努力の末に、3万2千語のYAMANA – ENGLISH辞書が完成したということである。

彼の手書きの原稿は大英博物館が所蔵しており、活字のこの辞書は彼の子供が後をついで刊行しもののようだ。
なお、ヤーガンという言葉はトーマス・ブリッジスがヤーガという地名からをつくり出したのだそうだ。

遭難船の船首飾り

最後にと言うか、博物館らしい遺物の展示は、部屋の中央に天井から吊り下げられている船首飾りある。イギリスの帆船、DUCHESS OF ALBANY号のものだそうだ。

DUCHESS OF ALBANY号は1746t、リオデジャネイロからチリのヴァルパライソに向かう途中、フェゴ島の東南端のヴィンセント岬で、1893年7月13日に沈没した。フェゴ島からホーン岬にいたる海域は暴風雨が年中吹き荒ぶのでこの海域で、座礁、沈没した船は800隻にものぼると言う。

フェゴ島の野鳥

中央展示室の隣には、フェゴ島の野鳥の剥製が展示されている。180種以上のコレクションはフェゴ島の鳥では最大のものだと言う。なかでも、広げた羽根が3m近くありそうなハヤブサやいかにも獰猛そうなコンドルが圧巻である。

3日目 ブエノス・アイレス~ウスアイア

市内観光、船舶博物館

モーニングコールが3時半という強行日程でパタゴニア見物が始まる。昨夜はシャワーを浴びて寝床に入ったのが12時前であったので横になるだけであった。
ホテル出発は4時20分、集合時間の10分前にロビーに降りると、皆さん、元気にお揃いである。

ブエノスアイレスの国内線空港はラプラタ河沿いの市内にあり、ホテルから20分とかからない。バスの中で朝食用のボックスが配られる。最終日程表の注書きで、早朝のため、コンチネンタル式の朝食を用意すると書いてあり、ほんまかいな、食堂を4時前に開けさせるのと思っていたら、案の定、ランチボックスであった。

空港に着いてみると、早朝にもかかわらず混雑している。添乗員から受け取った搭乗券は真ん中の席であったのでチェックインカウンターで通路側の席にしてほしいと頼むと、満席で空きがないと言われる。何とかかならないかとねばって、22Dに変更して貰ったが、機内に入ってみると一番後ろの席である。130席ほどの席が満席になるほどパタゴニア観光は人気になっているようだ。

6時20分の出発予定が30分ほど遅れたが、10時20分過ぎにはウスアイアの上空に着く。天気予報では曇りということであったが、外をのぞいて見ると、青空に白い雲や黒い雲が幾重にも重なって漂っている。青空と雲がそれぞれ自己主張をして輪郭をくっきりさせている感じである。

ウスアイア市内観光

ブエノスアイレスから3250km、南極まで1000km、世界最果ての町、ウスアイアにいよいよ降り立つ。

ウスアイアのガイドさんは若い女性、メスティーソの感じである。早速、バスに乗り込んで市内観光が始まる。

ガイドさんの説明によれば、ウスアイアの人口は正式の統計と実際とは多少ずれがあって大体6万5千人くらい。おもに漁業関係の仕事についている人が多く、ボリビアやペルー、隣のチリなどから出稼ぎに来ている人も多いそうだ。学校は2月の下旬から始まるので、丁度この時期はブエノスアイレスやコルドバなどの私立の高校や大学に行っている学生が帰省している時でもあるそうだ。税金を納める習慣があまりなかったので、病院など公共施設が他の州より不足しているとのこと。

気温は、昨日は異常に高く22℃まで上がってとても暑かったが、今日は平常に戻って14℃くらい、でも風が強いので体感温度は10℃以下に感じるお客さんが多いのではという話である。

高台に上って市内を一望する。ウスアイアの街は少し湾曲しながら東西に細長く伸びており、海沿いがマイプー通りで、次のサン・マルティン通りがメインストリートである。町の発展につれて住宅地が山肌を上へ上へと伸びているので、けっこう急な坂道の街でもある。

街に戻る途中、道路の脇に中古車を何台か置いた小屋と言うか店が目に入る、タックス・フリーゾーンになっているので、自動車などウスアイアで通関して、少し乗ってから転売すれば儲かるので、こうした業者がけっこういるらしい。

マイプー通りにバスを止めて、観光案内所に入る。ここでは世界最果て町ウスアイアのいくつかの景色のスタンプをパスポートなどに記念に残すことが出来る。

職員にビーグル水道クルーズについて聞いてみると、案内書を出してきて、カタマラン(双胴船)のクルーズは3社が行っていて、ペンギン島まで行く5時間クルーズもそれぞれ午前と午後に出していると説明してくれ、案内書のコピーをくれた。
(旅行社の最終日程表の注書きは、おかしいと思っていたが、やっぱりという感じである)

昼食は、前菜がキングクラブ、メインはスズキのムニエル、デザートがアイスクリームである。キングクラブ(スペイン語でセントージャと呼ばれ、タラバガニの一種)は皿に大盛りで出てきた。これだけで満腹となるほどだが、さらにメインもデザートもボリュームたっぷり、日本人の許容限度を超えている。(今回のツアーの食事では一番よかったという皆さんの評判であった)

さて、次はビーグル水道クルーズである。が、クルーズ船の出る桟橋で添乗員からクルーズのパンフレットの説明を受けて、いざ乗船という段になって、風が強いとかで午後のクルーズはすべて中止となったと知らされる。午前のクルーズは催行されているので、午後になると風が強くなるらしい。だから言わんこっちゃーないとひとりごつ。

クルーズが中止となった代替として、追加負担なしで船舶博物館と元監獄の観光をしますと言うことで、海軍基地の1部となっている元監獄に向かう。

船舶博物館

元監獄の端っこの部屋が船舶博物館である。簡単なフェゴ島の歴史についての展示もあるが、この部屋は船舶の模型を展示しながらヨーロッパ人が世界航海をめざして南米大陸の先っぽに殺到した様子が語れている。
船の模型は30隻あまり、実寸の100分の1のスケールに作られ、年代順に展示されているそうだ。

(フェゴ島はティエラ(大地)・デル・フェゴ(火)=「火の国」である。岩波文庫の「マゼラン世界一周航海」にはスペイン王の秘書のトランシルヴァーノが航海で生き残って帰還した18名の乗組員のうち3人から聞き取った報告書も載せてあり、「さて、船隊はこの海峡(マゼラン海峡)の中を進んでいって一方の端から他方の南の海まで通過し終わるまで22日を要した。

その期間中に、その沿岸地帯のどこにも、ただの1人も人間の姿を見かけなかった。ただし、ある夜、海峡の左側の陸地に、すなわち南の方におびただしい数の火が見えた。このことから船隊の一行は自分たちがこの地方の住民にみつけられて住民たちたがいに合図の烽火をあげているのだろうと推測した」と述べられていて、これがティエラ・デル・フェゴの=火の国と言われるようになった元とされている。

もっとも、草稿にはティエラ・デル・ウモ(煙)となっていたのを国王が火のない処に煙は立たぬと言ったかどうか、ウモをフェゴに変えさせたとも言われているらしい。)

トリニダード号

マゼランの世界一周の旗艦で、110トンのカラック帆船である。カラック帆船はポルトガルのカラベル船を発展させた船で積載能力が大きく船員を多く乗せることが出来るうえ、前甲板と後甲板が戦いの時にはタレットとして使えるようになっているそうだ。

1919年にスペインを発ったマゼラン艦隊は4隻の帆船と265名の乗組員からなっていたが、世界一周航海をして無事にスペインに帰還したのは、ヴィクトリア号と18名の乗組員だけだった。マゼランはフィリッピン諸島で殺され、トリニダード号は香料諸島で香料を積み過ぎて浸水してしまったらしい。

次の100年間には、多くの船乗りたちがマゼラン海峡を通過したが、女王陛下の海賊、ドレークもその1人で、1580年に史上2番目の世界一周航海をした。

17世紀の初めには、マゼラン海峡は東インド会社所属の船しか航行出来なかったので、多くの商人は太平洋に抜ける新しい航路を発見するのにやっきになっていた。そうした中でオランダのショーテンとメールが1616年にホーン岬を発見、太平洋に出た。当時、マゼラン海峡の南側は南極に続く大陸だと信じられていたので、島だと述べた彼らは嘘をついているとして投獄されたとか。なお、ホーン岬は彼らが出航したオランダの港に因んで名付けられそうだ。

デスクビエルタ号

イタリア人の船長に率いられたコルベット艦、当時の最新鋭の装備で建造された。スペインの植民地での科学的な探検を行うためであった、最も重要な仕事は海図をつくることであった。デスクビエルタ号はフェゴ島海域の調査に没頭していたが、当時、1775年はアメリカ独立戦争などが進行していた時代である。

ビーグル号

イギリス海軍のバーク艦(最後尾が縦帆でそれ以外は横帆)、1830年と1832年の2回、フェゴ島を探検した。最初の航海でビーグル水道を発見、2回目の調査には23才のダーウィンが乗船した。

ビーグル号の航海のもう1つの目的は伝道所を作ることであった。ナバリノ島のウライアに立った乗組員の1人、マシューズは原住民の攻撃にあって探検隊に救助されて、探検隊員に戻ったそうだ。

ロマンチェ号

フランス海軍の探検隊に所属、1882年にはホーン岬で各国の研究者が日食と金星の日面通過を観測した。科学的調査だけでなく人類学にも重要な貢献をしたという。

(サムネイル画像をクリックすると大きいサイズの画像になります。画像の中ほどの両端の矢印をクリックすると画像を前後に移動出来ます。画像の右下の○をクリックするとサムネイル画像に戻ります)

7日目 ロンドン

ナショナルギャラリー(空港閉鎖てんやわんや)

当初の予定では、朝、ホテルをチェックアウトしてナショナルギャラリーを見て、午後にはヒースロー空港に行き、7時15分発のJALで日本に帰ることになっていた。
今日のフライトがないことははっきりしており、空港再開の見通しも全く分からない。ま、とにかく成るようにしかならないと思って予定通りナショナルギャラリーに行く。

ナショナルギャラリー

前回とおなじようにオーディオガイド借りて順番にみていく。説明を聞きながら見ていると何となく分かった気がするが、西洋絵画の多くは聖書の知識が欠けていると表面的な理解に止まってしまうようだ。

お昼過ぎにコーヒー休みをした後は好きな画家の作品をみる。ラファエロ、ティツィアーノ、ブリューゲル、カラヴァッジオ、レンブラント、ゴヤ、ムリーリョ、フェルメールやミレー、ドガ、モネ、マネなどである。

絵を描いた経験もなく西洋美術史を学んだこともないので、これらの画家が好みだと言っても、そこには何の脈絡もない。あちこちの美術館で見て、これはいいなと勝手に思っているだけである。だが、画家たちの絵の前にいると何となく楽しい。もっとも、ラファエロやムリーリョの聖母にはミーハー的な関心のほうが強いのだが・・・・

ナショナルギャラリーは一切撮影禁止なのでこの辺りのニュアンスを表現できないのはつらい。
画像入りのナショナルギャラリーブログは→http://skoba.lolipop.jp/journal/ナショナルギャラリー/

空港閉鎖、あれこれ

3時過ぎにナショナルギャラリーを出て、テスコやジャパンセンターに寄って飲み物や晩飯などを調達しようと思ってピカデリーサーカスに行くと、三越の周りに日本人のグループがたむろしている。聞けば、添乗員がホテルを当たっているところで2時間も待っているそうだ。

空港が閉鎖されると旅行客が一斉にホテルを確保しようと動き出すので旅行社と言えども、すぐには見つけられないらしい。
添乗員から、若しかすると1週間以上のびるかもしれない、延長の費用は自己負担になると言われてショックだとのこと。ご同輩もご苦労の様子である。

ホテルに帰ってテレビを見ていると、今日も火山と空港閉鎖の話ばかり、ヨーロッパの空港で開いているのはスペインだけで、鉄道や船で南へ移動する旅行客の画像も繰り返し流されている。イギリスの当局がイギリスとスペインを陸上と海上で結び、スペインの空港をハブにしてアメリカなどと繋げる計画を作っていると言う画面が流れる。明日の朝、あと2~3日延長しておく方がよさそうだ。

6日目 ロンドン

大英博物館 中東部門(Middle East) その5

夜の女王のレリ-フ (古バビロン(BC1750年頃)、高さ49.5cm・幅37cm 焼成粘土)

目鼻のくっきりした近代的な美人である。たしか、ルーヴルでも同じようなレリ-フが展示されていた。
‘夜の女王’と題されたこの曲線美の裸女性はもともとは赤で着色されていたらしい。メソポタミアの神の特徴である角のついた頭飾りを被り、丈と正義のリングを持っている。彼女の羽根が下に伸びているのは冥界の女神であることを表していると言う。足の先が獰猛な鳥の爪となっているのを見るのは初めてだが、2頭のライオンの上に立っているので彼女は愛と戦いの女神、イシュタルだと見て間違いがない。
(ルーヴルでもこのレリーフとそっくりのイシュタル女神を見たが、たくさん出土したらしい)

儀式の描かれた奉納板(ウルのキパルク出土、初期王朝(BC2500年頃)、縦22cm・横26cm、石灰岩)

上段では裸の神官が長衣を着た3人の信者の前に立ち、椅子に座った神に献水をしており、下段には同じく裸の神官が女神官と捧げものを持つ2人の信者を従えて、神殿の前で献水しているところが描かれている。ルーヴルの奉納板と同じ様に真ん中に穴があいているのは壁の突起に差し込んで固定するためと考えられている。

銅製レリーフ(怪鳥アンズー)(ウルク近辺のニンフルサグ女神の神殿出土、BC2600~2400年頃、幅2.59m・高さ1.07m、銅合金)

怪鳥アンズーである。たしか、シリアのダマスカス国立博物館でも見たが、この獅子頭の鷲(アンズー)も不気味である。銅合金のシートを打ち付けて形作ったそうだが、この時代には銅はオマーンやイランから輸入されシュメールで広く使われていたらしい。もっとも、金属の作品は、その後、分解されるか、溶かして再利用されたので、これほど大きな金属の作品が残っているのはめずらしいそうだ。

乳搾りの様子を描いたレリーフ(アル・ウバイド出土、BC2500年頃、高さ24cm・幅119cm、石灰岩、瀝青)

右側には牛の後ろでは乳を搾っている様子が描かれ、真ん中は牛乳を甕に入れて運んでいるところで、左手ではバターを作っているようである。おそらくバターが最初に作られたと思われる様子を実際にレリーフで知ることができるのは興味深い。

地母神像(シリア、シャガル・バザール出土、ハラフ期(BC5500年頃)、高さ8cm、粘土)

ハラフ期にはこのような裸の女性像がたくさん作られたようだ。豊満なおっぱいが見事であるが、出産中の地母神らしい。

Room57

少年を貪る牝ライオン(ニムルド、アシュールナシパル2世宮殿出土、縦10.35cm・横10.2cm 象牙、金箔、ラピスラズリ)

アシュールナシパル2世宮殿から出土したが、こうした象牙彫刻は明らかにフェニキュアのもので、多分、家具に装飾として取り付けられたものである。ニムルドに持ち込まれたのはアシュールナシパル2世の地中海方面への遠征時の戦利品あるいは貢物だったと思われる。

今、宝石の腕輪やブレスレットと着けたアフリカの少年が牝ライオンに襲われているところで、背景には百合とパピルスが描かれている。当時は金箔が貼られラピスラズリで象嵌される高価なものであったらしい。


4時過ぎに博物館を出る。11時半頃に入ったので、途中のカフェの時間30分を引いても4時間ほど、ほとんど歩きっぱなしだが、メソポタミアを満喫していささか興奮気味である。人間、身勝手なもので、火山噴火のことはすっかり忘れてしまっている。

ホテルに帰ってテレビを見ていると、JALから電話があり明日20日のフライトはキャンセルになったこと、21日以後のスケジュールは未定であるが、とにかく21日と22日の乗客名簿に名前を載せてありますという連絡である。それから、JALには電話は殺到していてなかなか繋がらない状態なので、何かあったらJALからまた連絡を入れるとのこと。一人ぼっちで放り出されているわけでもないことが分かってほっとした気分である。

20日のフライトはないことがはっきりしたので、取りあえず3日だけ延長しておこうとフロントに下りて行くと、シングルで空いているのはワンランクグレードの高い部屋しかない、1泊120ポンドだと言われる。インターネットで予約した料金よりも4割も高いレートで、弱みにつけ込まれた感じだが野宿をするわけにもいかない。

Page 1 of 13

© 2017-2024 世界のオモロイところ見に行こう!!.