世界のえーとこ見に行こう!!   

ご用とお急ぎのない方は、ごゆっくりどうぞ。

スポット: 教会・神殿 (1ページ / 8ページ)

7日目 ブドヴァ、コトル、ドゥブロブニク

コトル旧市街、岩礁のマリア教会

コトル旧市街

フリータイムになって、先ずは聖トリフォン大聖堂へ。

添乗員の話では、大聖堂は有料、聖ルカ教会と聖ニコラ教会は団体だと有料だが、個人で入る分には無料らしい。

大聖堂の入り口では絵葉書やガイドブックが売られていて、ちょっとビックリだが日本語のガイドブックもある。添乗員の説明は消化不良気味だったし、6ユーロを払ってガイドブックを手に入れる。と、売り子のお兄ちゃんが‘大聖堂の中に入ってもよい、階段を上がると美術館もある’と手ぶりで教えてくれる。

中央祭壇

祭壇の4隅に立てられた柱の上に、3層の6角の屋根(天蓋)を乗せたような作りとなっている。トロギールでも同じような作りの祭壇を見たのでバルカン半島で流行した祭壇らしい。

中央祭壇の天蓋と云えば、バチカンの巨大な祭壇が思い出されるが、あれは教皇が説教をするための威厳と威圧を示す仕掛であった。

こちらは小ぶりで上品な感じであり、一層目の屋根を支える柱をよく見るとテラモーネ(人像柱)が何体かあるようで細かい作りである。

祭壇の中には聖人たちの金張りのレリーフが収められており、同じようなレリーフが礼拝堂にも掲げられている。レリーフの一番上の段にはキリストとマリア、それに洗礼者ヨハネが描かれている。2番目の段の中央がコトルの守護聖人トリフォンで、コトルの模型を抱えていると云うことのようだ。

その聖トリフォンだが、ガイドブックによれば、232年頃の生まれで、斬首されたのが250年らしいので18才の若さで殉教したことになる。18才の若さで殉教したことが聖人に列せられる理由だったのだろうか。

キリストの磔刑像やピエタ像などが祀られた祭壇、聖ニコラウスや聖ゲオルギウスなどの絵画、墓石(ガイドブックによれば司教トリポ)、石棺(聖トリフォンを祀った元々の教会を809年に建造したサラツェニス夫妻の石棺)などを見て回る。

2階の美術館も見てみたいがフリータイムが30分ほどしかないので外に出る。で、あらためて鐘楼を眺めながら、ガイドブックを開いてみると1667年の破壊的な地震でファサードや鐘楼などが壊滅的な被害を受け、コトル市民の懸命な復旧工事が行われたが、当時の財政事情により左側の鐘楼は未完成のままとなっているとのこと。バラ窓は復旧工事でバロックの大型のものに作り替えられたようだ。

聖ルカ教会

4福音書のうちルカ伝を書いた聖ルカを祀る教会である。1195年にカソリックの教会として建てられたものだが、一見してロマネスク様式の教堂とわかる。現在は正教の教会であるが、17世紀の中頃からナポレオンがこの地を占領する19世紀の初め頃まではカソリックの祭壇と正教の祭壇が併存していたらしい。

主祭壇の金張りのイコノスタシス(聖障)には、幼子を抱く聖母マリアとイエス・キリストのイコン、その上には磔されたキリストを2匹の魚が支えるような感じの磔刑像が掲げられている。

聖ルカ教会は小さいながら正教の教会らしく荘厳な感じである。また、地震で崩れた内壁のフレスコ画の一部が復元されおり、歴史を感じさせる。

聖ニコラ教会

主祭壇のイコノスタシスにはキリストの生涯や聖人が描かれているようだ。ピカピカの聖母マリアとイエス・キリストのイコン(?)の間にある扉が聖所への入り口のようである。

聖ニコラはサンタクロースである。司祭であった時、貧しくて娘を売春させようとした商人の家に夜中に金を投げ入れて娘を守り、娘は晴れて結婚することができた。このことから、子供たちが枕元に靴下を置いて寝ると夜中にサンタクロースがやって来てプレゼントを入れてくれると言う習慣が生まれたと言われている。

で、コトル見物はおしまい。

岩礁のマリア教会

コトル旧市街の見物が3時半過ぎに終わり、今日の最後の観光予定の岩礁のマリア教会に向けてコトル湾を北上する。例によって、岩礁のマリア教会についての添乗員のお話;

‘ペラストと云う村の沖合に岩場があり、村の漁師の兄弟がその岩場に流れ着いた聖母マリアのイコンを見つけました、15世紀のことです。そのイコンは最初、村の教会に置かれていましたが、漁師や航海に出る人が多いペラストの村では、冬場にはブラが吹いたりするので漁や航海の安全を願う気持が強く、聖母マリアのイコンを見つかった場所に祀りたいとして岩場に石や岩を積み上げていきました。小さい島が出来て教会が建てられたのは17世紀のことでした’

30分ほどでペラストの町に到着、沖合には2つの小さな島が浮かんでいる。左側がセント・ジョージ島で修道院が置かれていて一般人は上陸出来ない、右手の島が岩礁のマリア教会である。

われらご一行様だけで満員になるようなボートで5~6分で岩礁のマリア教会に着く、丁度、同時に100人乗りくらいの遊覧船も着いて島は込み合っており、入場制限をしていても教会の中はごった返しの状態でガイドさんの説明は聞こえない。

中央祭壇にも副祭壇にも聖母マリアのイコンが祀られ、天井画も聖母マリア昇天の様子が描かれていて、さすが、聖母マリア一色の教会である。

安全のお礼に奉納された航海や漁の道具などが展示され、お金(ユーロ?)もさい銭箱に入れられているようだ。壁には金張りの額のなかに聖母(?)が描かれたものが掲げられている、ガイドさんの説明はよく聞き取れなかったが、中国の金と日本の絹が使われているらしい。

で、本日の観光はおしまい。コトル湾沿いを走った後、再びクロアチアに入国、ドゥブロブニク空港近くのツァヴタト(南スラブ人に追われてドゥブロブニクの岩場に逃げたローマ人はこの町に住んでいた)のレストランで夕食。2階のオープンテラス席で海を眺め、生野菜といわしのから揚げの前菜、さらだ、小えびのグリルでクロアチア旅行の最後を楽しむ。

7日目 ブドヴァ、コトル、ドゥブロブニク

コトトル旧市街

コトル旧市街

コトルまで40分ほど、

コトルの話をしましょう・・・、‘皆さんほとんど寝てしまう’と愚痴りながらの添乗員のお話(のあらまし);

内海のなかの内海、その一番奥にあるのがコトルです。前を海、後ろを絶壁に囲まれた3角形の旧市街が世界遺産に登録されています。

この地に最初にやって来たのがギリシャ人でアクリオン(?)という植民都市をつくっていました。その後、ローマ人が入って来て属州とします、最初に要塞化されたのが3世紀ごろと云われています。西ローマが崩壊した後、ゲルマンのフン族などがやってきましたが、ゲルマン系にはなりませんでした。内海の、そのまた奥という地形のために助かったとも言われています。

その後、ビザンチン帝国の支配下におかれ、12世紀にはセルビア王国に組み込まれます。セルビアは資源が豊富であったが港がなかったのでコトルが重要な港湾都市となりました。

15世紀の半ばには、ダルマチアの沿岸部やブドヴァなどと共にヴェネツィアの支配下に入ります。以後、16世紀と17世紀のわずかな期間のオスマン支配を除いて、コトルは400年に渡ってヴェネツィアに領有されます。

このヴェネツィア支配時に城壁が強化され、長さは4.5kmにもなりました。城壁の幅2~16m、高い所は20mもあります、260mの山頂に伸びる万里の長城のような城壁の要所要所に要塞や砦が築かれました。

コトルは外敵による崩壊は免れたのですが、1667年の大地震と、近年になって1979年にも地震に襲われ大損害を被ります。ユネスコは1979年、世界遺産に登録しますが、同時に危機遺産のリストにも載せました。現在は、ユネスコの支援もあって元のように復旧され、たくさんの観光客をあつめています。

さて、添乗員のお話を子守唄代りにする人、ウトウトと聞きながらもついつい睡魔に誘われる人など、旅の快い疲れもあって皆さん至福の時に浸っている。と、‘着いた! 皆さんオヤスミのところ申し訳ないが、コトルに着きました’と添乗員が現実に引き戻してくれる。

で、城壁や要塞が正面に見えて来たと思ったらバスが前に進めなくなった、渋滞である。岸壁を見ると12万トンのクルーズ船、ソルティ号が接岸し、7万トンクラスのリヴィエラ号も傍に停泊している。

3000~4000人の観光客が小さなコトルを訪れている勘定なので大渋滞が起きるのは仕方がない。地中海やアドリア海の観光をするヨーロッパの人々は大型クルーズ船で観光地巡りをすることが多いので、そうしたクルーズ船と鉢合わせしたら、Oh my God! 諦らめるしかないようだ。

海の門と呼ばれる正面入り口を潜ったところの広場で、周りの建物の説明を聞きながらガイドさんを待つ。目の前の時計塔は17世紀のもの、塔の前の角錐のように先が尖った柱は‘恥の柱’と言われ、罪人をこの柱に縛り付けて晒し者にしたとか。広場に沿った左側の建物は旧総督邸、オープンカフェが並び、霧が時々噴射され暑さを和らげてくれる。広場の突き当りの左手がタウンホールで、右側の建物には武器が貯蔵されていた。この広場も軍事広場と呼ばれていたのだそうだ。

ガイドさんを待つ間、ブドヴァに続いて、わがツアー選りすぐり美女の写真を撮らせて貰う・・・・、岐阜から一人参加の上品な若い女性(友達の都合で一人参加になった由)、プリトヴィッツェやドゥウブロブニク城壁を手を引きながら観光されていた微笑ましい母娘さん(お母さんは70代後半とお見受けした)、お友達2人組(若かりし頃は2人ともさぞ美形であったろうと思われる)、など。

ガイドさんは大渋滞に巻き込まれているのか15分ほど待っても現れない。で、添乗員が痺れを切らし、自分が案内しましょうと歩きだした。右手に向かい、狭い路地のような通りを抜けると、ファサードの左右に鐘楼を持つ教会が見えてきた、聖トリフォン大聖堂である。

この教会はローマカソリックの教会で、12世紀にロマネスク様式で建てられましたと言うのが添乗員の説明だが、聖トリフォンとは何者なんだろう、右の鐘楼と左の鐘楼は明らかに違うようだが何故なんだろう、どうして大きなバラ窓があるんだろう、などについての説明はない。

ガイドさんが来ないというハプニングは予想していないので、手元資料はバスの中に置いてきており、われらがベテラン添乗員にも細かいことはわからないと云うのが正直なところのようだ。

大聖堂の写真タイムの後、西(?)に向かって路地をゾロゾロと歩き、一見、小屋のような教会と2本の鐘楼を持つピカピカの教会が斜向かいになっている広場に出る。小屋のような教会は聖ルカと言い12世紀にカソリックの教会として建てられたが、17世紀にセルビア正教の教会に変更されたもの、ピカピカの教会の教会は元々あった修道院が火事で焼け、その跡地に20世紀に建てられた正教の教会だとのこと、などなど話を聞いていると、ガイドさんが現れた。

添乗員とガイドさんの話し合いで、あらためての旧市街観光はせずフリータイムにすることに決まったようで最初の広場に戻るようだ。こんなケースではガイド料はどうなるんだろう、添乗員は添乗日誌に正直に書くのだろうか、それともガイドさんに貸を作るんだろか・・・・ ぶつぶつ一人ごちながら皆さんの後についていく。

6日目 ドゥブロブニク

ドゥヴロブニク観光3

大聖堂(続き )

フランシスコ修道院とこの大聖堂が入場観光である。ガイドさんの後について中に入ると、紫の大理石の祭壇やキリストの彫刻、祭壇画などで飾られたいかにもバロックらしい豪華な祭壇がいくつもある。

それら中で、中央祭壇には聖母マリアの昇天の様子が描かれた大作がある。地上の人々が驚き、うろたえる中、青い衣装をまとった聖母マリアが天使に導かれて昇天する様子が躍動感のある筆致で描かれている。ガイドさんによればヴェネツィア派の巨匠、ティツィアーノの作なんだそうだ。

(1550年頃の作と云われているが、その頃、ティツィアーノは60才前後で、スペイン王に招かれたりして長期滞在、その間‘ダナエ’などを描いたりして超多忙であったはずである。なので、ドゥヴロブニクからの‘聖母被昇天’の依頼が好条件だったとしても、ティツィアーノ自身が筆をとることはなかったと思われる。多分、彼の工房が制作したものではないだろか。

もう1つ、1667年の大地震で、昔のロマネス様式の大聖堂は崩壊したのに、この‘聖母被昇天’は無傷で助かったのだろうかと云う疑問だが、後でちょっと調べたらプロチェの聖ラザルス教会にあったものを移したのだそうだ、納得)

総督邸

大聖堂の斜め向かいの建物が旧総督邸、正面は6連のアーチが連なるロッジオである。柱頭には人物や植物の細やかな彫刻が施されている。それぞれ意味のあるものらしいが、何を表象しているのか分からない。

旧総督邸は、もともとは、15世紀にオノフリオによって建てられたゴシック様式であったが、火薬庫の爆発や1667年の大地震があったりしてルネッサンス様式やバロックの装飾が融合したものとなっているそうだ。

建物は共和国の時代、総督の住いであったが、議会や元老院なども置かれ政治の中心であった。総督の任期は1ケ月だけだったと云うから、共和国は権力は腐敗することを敏感に感じ取り名誉職のように扱っていたようだ。総督はその任期の間、公用以外では邸の外に出ることは出来なかったらしい。毎晩、儀式に則って市の鍵を受け取って厳重に保管し、翌朝、また儀式に則って返還するのも総督の役目であったと言う。

ルジャ広場

総督邸から少し進むと、メインストリートのプラツァ通りの東端と交差する、この辺りがルジャ 広場と呼ばれ、スポンザ宮殿や聖ヴラホ教会、時計塔などに囲まれた旧市街観光の中心である。

聖ヴラホ教会

大聖堂によく似た感じの聖堂である。それもそのはず、大聖堂と同じく、元々あったロマネスクの経堂が1667年の大地震で損壊し、18世紀の初めにバロック様式で再建されたものだそうだ。

聖ヴラホはディオクラティアヌス帝の迫害によって殉教したのだが、その後、10世紀になって、ある夜、大聖堂の司教の夢枕にヴラホが立ち、ヴェネツィア軍の夜襲を告げた。で、ドゥヴロブニクは来襲に備えることが出来たと言われ、以後、聖ヴラホはドゥヴロブニクの守護聖人とされたのだそうだ。

ファサードの屋根の上にはドゥヴロブニク市街の模型を抱えた聖ヴラホ像が立ち、ドゥヴロブニクを見守っているようである。

聖ヴラホは現在でもドゥヴロブニクの市民に讃えられており、毎年2月には盛大な祭で賑わうらしい。

(蛇足ながら、カソリックの教会の入り口は西に、聖なる場所がある内陣などは東側に置かれるのが普通だが、ここドゥヴロブニクの正面入り口は、大聖堂では東に、聖ヴラホ教会では北に置かれている。カソリックの南の端っこのドゥヴロブニクでは、その辺は大らかと云うか、あまり詮索されなかったらしい)

オルランドの柱

聖ヴラホ教会の少し前、広場の中心に国旗を掲揚する石柱が立っており、その下部に剣と盾を持った剣士の像が刻まれている。ガイドさんによれば、オルランドの柱と呼ばれ、オルランドの肘から手首まで、約51cm、がドゥヴロブニクの長さの尺度になっているのだそうだ。

(オルランドはカール大帝の12剣士の筆頭で、ドイツの旧自由都市にはオルランドの柱像がよく立てられていると聞いたことがあるが、バルカン半島にまで柱像が建てられているとは驚きである。ドゥヴロブニクを庇護下に置いていたハンガリー王と何か関係があるのだろうか)

スポンザ宮殿

ルジャ広場に面した3階建ての建物、1階正面は5連アーチのロッジオとなっている。1667年の大地震でも倒壊しなかった建物なので、ゴシックとルネッサンスの混合した当時の建築様式がみられるとのこと。

共和国の時代、ここには税関や保税倉庫、さらに銀行や財務省なども置かれていたそうだ。現在は古文書館となっていて12世紀頃からの文書が保管されていると言う。

このほか、オノフリオの小噴水や時計塔の説明を聞いて、スルジ山に向かう。

5日目 スプリット、トロギール

トロギール旧市街

今日は午前中にトロギールを観光して、午後はスプリットに戻りディオクレティアヌス宮殿を見物した後、宮殿の中でフリータイムとなってホテルには各自で戻るという予定になっている。

少し遅めの9時前にホテルを出発。トロギールまでは20kmほど、早速始まった添乗員のお話のあらまし;

トロギールは本土とチオヴォ島の間にある小さな島である。もともと本土と繋がっていたが、町の防御のために水路を掘って島にしたそうだ。

トロギールの歴史は古く、BC3世紀にギリシャ人がやってきて殖民都市トラグリオンをつくった。ローマ時代まで大きな港として発展するが、トロギールへ行く途中にあるサロナがローマの都市(バスの車窓からは水道橋と遺跡らしきものがちらっと見える)として急に繁栄、トロギールは没落する。

7世紀に南スラブ人がやって来てサロナを破壊すると、サロナ市民はトロギールやスプリットなどに逃げ去りました。9世紀になるとトロギールはクロアチア王国の支配に入り、11世紀には自治権を持つが、15世紀からはヴェネツィアの長い支配時代となります。

トロギールには聖ロブロ大聖堂など13世紀から17世紀に建てられたロマネスク、ゴシックやルネッサン様式の教会や多くの建築物が保存状態もよく残されています、それで島全体が世界遺産になっているとのこと。

急ぎ足の話を聞いていると30分ほどでトロギールに到着。ガイドさんの後について橋を渡ったところに北門がある。門の上の像はトロギールの守護聖人、イヴァン・オルフィーニだそうだ。

添乗員の話の通り、門を潜って2~3分ほど歩いたところが町の中心のイヴァン・パヴァオ・ドゥルギ広場(ややこしい、地球の歩き方で確認した)で、広場の周りに聖ロヴロ大聖堂や時計塔、市庁舎などが建ち並んでいる。

聖ロヴロ大聖堂

西側の正面入口のまわりに集まってガイドさんの話を聞く、

それによると聖ロヴロ大聖堂は13世紀の初めに建設が始められ13世紀半ばにはほぼ完成したそうだ。なので、建築様式はロマネスクだが、一部、ゴシック様式もあるらしい。鐘楼は14世紀末から16世紀の終わりにかけて建設されたので全体の完成は17世紀になってからである。この大聖堂の一番の見ものは、ダルマチア生まれの巨匠マスター・ラドヴァンが制作したこの正面入口の装飾彫刻とのこと。

ガイドさんが指差す扉の上の方を見ると、半円形の真ん中にはキリストの生誕の場面などが刻まれ、その外側の帯には天使、さらに一番外側にはキリストの磔刑などキリストの生涯が描かれているようである。

両側の柱には枝と葉に囲まれて動物や狩、四季の仕事の様子などが彫刻されているとのこと。よく見ると動物に追いかけられて頭を両手で抱え込んでいる様子、肩から小麦か何か皿に移しているような場面、種まきor家畜に餌を与えているらしいところなどなど・・・ロマネスク時代の聖なる場所に市民の日常生活を描き込むとは、巨匠マスター・ラドヴァンには驚かされる。柱を支えている男たちはアトラス(テラモン)をモチーフにしたもののようだ。

さらに、柱の両側にはライオンとその上にアダムとイブの像が彫刻されている。昨日のシベニクの大聖堂では同じようなライオンとアダムとイブの像をちらっと見ただけだが、こうしてゆっくり見るとライオン像(左のライオンは羊を踏みつけている?)はのっぺりした感じである。大英博物館で見たアッシリアのライオン狩のレリーフはBC10世紀より前のものだが、百獣の王ライオンの風格とリアリティがあった。ヴェネツェアの流れをくむ13世紀の巨匠がアッシリアの彫刻家に劣るとも考えられないし、寓話的な表現とも思えないので、ライオンを見たことがないと言うことなのだろうか。

聖堂の中に入ると、身廊と側廊からなる3廊式だが、長いす一列の小ぶりな聖堂である。上を見ると交差ヴォールトになっているので、天井はゴッシック様式で後から造られたようだ。

内陣に進むと、主祭壇は東洋風の6角堂の素朴な祭壇で、見た目なにもない感じ。主祭壇の手前に天井からぶら下げられた十字架と一体としてみるのかも知れない。主祭壇の左手には説教壇、右側は聖歌隊席が置かれていて、こちらは立派なつくりである。

説教壇の左手の少し奥まった祭壇にキリストの磔刑像、その隣には北門でも見たトロギールの守護聖人イヴァンの石棺が置かれた豪華な祭壇がある。石棺の両脇には天使像、両側の壁には聖人や天使が刻まれ、天井には神が姿をのぞかせている。祭壇は15世紀半ばの作ということなのでルネッサンス彫刻と思われるが、石棺両脇の天使像はバロックにも見えるのだが・・・・・、

この後、宝物庫(撮影禁止)を眺めて聖ロヴロ大聖堂の見物はお仕舞い。

聖ロヴロ大聖堂の見物の後は広場に戻る。青い文字盤の時計塔は15世紀のも、ちょっと分かり難いが1階部分は聖セバスチャン教会となっているそうだ。その横には一方を開放する建築様式のロッジアがある。当時は裁判所としても使われたものでレリーフには裁判官が公正、正義を表す天秤を持っているところが描かれている。

市庁舎をカメラに収めたところでフリータイムとなり、島の南端にあるカメルレンゴ要塞に上ってトロギールの町全体を眺める。後はぶらぶら、で、世界遺産トロギール見物はお仕舞い。

4日目 オパティア、プリトヴィッチェ、シベニク

シベニク聖ヤコブ大聖堂・シベニク旧市街

マス料理の昼食を終えて、レストラン出発は2時20分過ぎとなった。上湖にも足を伸ばしたので予定が少し遅れるようだ。次の観光地のシベニクに着くのは5時過になるらしい。

で、ハイウエイを順調に走り、添乗員の話の通り、トンネルを抜けると荒涼とした荒地が続く風景に変わってきた。この辺りは雨量はそれなりあるはずだが、石灰岩質のため保水力が無く、すぐに地下に流れていくと言うことなのだろうか。

さて、シベニクが近づいてきて添乗員のシベニクについての説明が始った(多少付け加えると次のようである);

シベニクはクルカ川の河口に開けた町だが、ポレチュなどがイリュリア人やローマ時代からの町であったのと違って、シベニクは10世紀に樹立されたクロアチア王国によって11世紀半ばにつくられた町である。もっとも、その後はポレチュやスプリットなどと同じようにヴェネツィアとヴィザンチンとの間でキャッチボールされたり、オスマンが攻めてきたり、ハンガリーの支配下にはいったりで、大国に翻弄されることになる。当時の要塞や見張り台の跡も聖アン要塞など僅かに残っている。

シベニクはドブロクニクなどと違って日本人には殆んど馴染みがないですが、アメリカのテレビドラマのER緊急救命室で、ジョージ・クルーニーが演じた小児科医はシベニク出身という設定になっていましたし、戦場のピアニストのマキシノ(?)もシベニク出身ということでした、そうゆう事も思い出しながら見学すると興味が湧きますよ。

今日は1時間ほどかけてシベニクの世界遺産、聖ヤコブ大聖堂を中心に観光案内します。聖ヤコブ大聖堂は1431年から造り始めて完成したのが1555年、120年もかけて造られました。ゴシック様式とルネッサンス様式が混合した建物となっています

さて、町はずれのバス停で現地のガイドさんと合流、聖サンフランシスコ教会を横手に見て旧市街に向かう。入口の近くには城壁の一部が残っていてシベニクの守護聖人、聖ジョージのレリーフがはめ込まれている。城壁は市の図書館の壁として利用されているのだそうだ。

道を挟んで反対側の建物は劇場で、毎年、国際的なお子様フェスティバルが開かれ、50年も続いている伝統のあるものとか。通りを進んでいるとフェスティバルの足場とか入賞者の名前や絵などが張られているが、去年のものなんだそうだ。ガイドさんも気にする様子はないのでシベニクの人たちはかなりのんびりしていると言うかこだわりがあまりらしい。

聖バルバラ教会

聖母被昇天教会は名前だけ、聖イヴァン教会はゴシックとルネッサンス様式が混合した15世紀前半の建物などと教えられ、少し歩いていると鐘楼が2つある教会が見えてきた。聖バルバラ教会と言ってやはり15世紀前半の建築。壁の時計はシベニクで最初の機械式時計で先ほどの聖イヴァン教会から移したものとのこと。

現役の時計だそうなのでカメラを望遠にしてみると24時間表示のようである。短針はXVIIと XVIIIの真ん中辺りを指しているので、現在時刻の17時26分にほぼ合っている。ところが、長針は8と9の間を指しており何分なのか読み方が分からない。

聖ヤコブ大聖堂

聖バルバラ教会のすぐ近くに聖ヤコブ大聖堂はある。市庁舎や共和国広場(フェスティバルに備えて観客席が広場一杯に組み上げられていて大聖堂との間が狭い通路になっている)に面した大聖堂前のスペースに固まってガイドさんの説明を聞く、

大聖堂は1431年にヴェネチアや地元の建築家によってゴシック様式で建設が進められましたが、1441年からはジョルジョ・オルシーニ(出身地名をとってシベニクのジョルジョとかダルマティナツとも綽名されている)が指揮をとりルネッサンス様式で建築されました。

大聖堂の正面入口やこちらの北側の壁に並んでいる72人の顔やライオン門などはオルシーニの作です。彼が死んだ後はトスカーナのフィレティナッツが引き継ぎドームなど完成させました。

この大聖堂の特徴は木材やレンガなどを一切使わず全て石材で造られていることです。

その大理石や石灰岩は近くのブラチ島のもので、イスタンブールのアヤソフィア、ヴェネチアのドゥカーレ宮殿、ブタベストの国会議事堂、ワシントンのホワイトハウスなどにも使われています。

木材やレンガなど一切使わない最大の石造建造物であることやゴシック様式とルネッサンス様式が見事に融合した建築物ということで2000年に世界遺産に登録されています

さて、後ろの土産物屋や旅行代理店などが入ったロッジア風の柱には罪人が縛り付けられていたなどという添乗員の話を聞きながら、大聖堂の壁に刻まれた老若男女の顔を眺める。大聖堂の建設のために寄付をしたり、労働力を担ったりした当時のシベニクの市民たちだろうが、神聖な聖堂に自分の顔が並べられているのを見て、さぞ吃驚もし、自慢に思ったことだろう。

ライオンの門は観客席の足場がせまっているため角度がとれず、カメラ泣かせとなっていて、通り過ぎ西側のファサードに回る。実は、この大聖堂は教会堂だけで鐘楼がない、鐘楼を造る予定はあったのだが、と言う話を聞きながら内部に入る。

内部は薄く黒ずんだ感じだが、全体に重厚な感じである。天井を見上げると屋根裏が付いていないので石造りの丸い屋根がむき出しとなっている。何トンもあるような石材を落下させずに丸く組むとは高度な技術を当時の建築家は持っていたんだと感心させられる。

当時の教会では女性は2階のバルコニーからしか参拝できず、1階のフロアーは男性だけと言うことになっており、2階のバルコニーが作られているが、見せかけだけなので上がれませんとか、主祭壇の左手のキリストの磔の彫刻は16世紀の一刀彫だと聞かされた後、半地下となっている洗礼室に移る。

3畳ほど狭い部屋の真ん中に洗礼盤が置かれ、天井には洗礼を祝福する天使が華麗に刻まれている。素晴らしいと感心していると、30人のグループなのでトコロテン式に押し出さる。で、聖ヤコブ大聖堂の見物はお仕舞い。

スプリットのホテル

プリトヴィツェで少し時間がオーバー、シベニクでもゆったり目の見物だったのでスプリットのホテルに入ったのは9時前、すぐに食事となる。今晩は欧州選手権のスペインとイタリアの決勝があるので、やきもきしながら終えて部屋に直行すると試合はまだ続いている。

で、スペインが勝ったのを見とどけて、水回りを見るとバスタブユニットに凹み傷がある。水回りはいつもは直ぐに調べるのだが今夜は部屋に入って1時間近く経っているので添乗員に見て貰う。彼女の曰くには、彼女の部屋の方がもっとひどい傷があるそうで安心する。このPホテルは地球の歩き方でもトップに載っているホテルだが、細かいところに目配りがあまりできていないようだ。

気になることがもう1つ、バスタブの給湯である。バスタブの端っこにジャグジーを縦にしたようなものがあり、シャワーがあちこちの穴から出る設定になっているのだが、バスタブに湯を張る仕方が分かり難い。

コックをいろいろ操作してなんとかバスタブに浸かった後、よく見るとマークを合わせてシャワーにしたり、バスタブに湯を注いだりするようになっているようだ。マークが小さいし、説明もない。シャワーで済ませるヨーロッパ人にはそれでいいのかも知れないが、バスタブにゆっくりと浸りたい宿泊客には親切とは言えない。

日本人観光客も増加していることだし、折角、バスタブが付いているのに使われなければ意味がない。こんな所にも観光の歴史の浅さが垣間見える。

(翌朝、皆さんの話では使い方が良く分からないのでシャワーだけで済ませた人が多かったようだ)

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