彦根城見物その2・・・西ノ丸、出曲輪、楽々園・玄宮園

西ノ丸、出曲輪

天守の見物を終えて西の丸に向かう。

天守の裏手に回ると、西の丸の入口が見えてきた。西の丸の桜も満開のようだ。
天守と付け櫓…彦根城は天守と付け櫓及び多聞櫓が国宝に指定されているが、東側正面から見えるのは天守と多聞櫓で、付け櫓は裏手の西側に回らなければ見れない。
西の丸…松や桜など緑豊かな広場になっている。
振り返ると天守が桜に隠されて、城と桜の風情が心地よい。
西の丸の桜、花見酒の客はいないようだ。
広場の端に寄って二の丸の石垣を見る。いかにも堅牢な高い石垣の向こうに西の丸3層櫓が見える。この後、桜の下で琵琶湖を眺めながらコンビニおにぎりの昼食をとる。

西の丸三層櫓と続き櫓…西方の裏手からの敵に備えた守りの要の役割を担った。三層櫓はこの裏手を見下ろす位置に設けられ、平時には琵琶湖を監視する役目もあったらしい。この三層櫓は小谷城から移築したものとされている。
櫓内に入ると、天井板が張られてないので屋根裏がむき出しになっている。さすがにお城の櫓だけあって、太い梁が縦横に組み合わさって堅牢な感じである。
3層櫓から東を見ると満開の桜林の彼方に天守が見える。
西を見ると彦根の街の彼方の琵琶湖は湖面と空が一体となって判然としない。

北に見える坂道は山崎曲輪に繋がっている。
出曲輪の桜も満開、右の手前の木橋は西の丸から出曲輪に繋がる橋、堀切り(空堀)の上に架かっている。
西の丸を出て出曲輪に向かう。


西の丸と出曲輪の間の大堀切(空堀)…出曲輪入口の傍のパネルには「西の丸三重櫓の外には、裏手からの敵の侵入を阻止するため、尾根を断ち切るように大堀切(空堀)が設けられている。大堀切に掛かる木橋の外に「馬出」機能を持った出郭(出曲輪)である。この出郭の石垣は石工集団として知られる穴太衆が築いたと伝えられている」



西の丸に戻り、天守の裏手の下り口からちょっと急な階段を下る。坂道が緩やかになってきたところを進んで行くと玄宮園への案内板が見えてきて、角を曲がると黒門橋に続いている。左右に石垣が築かれているので、ここに黒門が構えられていたらしい。
黒門は最も格式の高い門で、松本城では黒門から城内に入ったと記憶している。彦根城の黒門がどんな門であったのかわからないが、石垣の規模からして大きなものであったらしい。

黒門橋付近の内堀、対岸に玄宮園があるようだ

楽々園

玄宮園は江戸時代には槻(ケヤキ)之御庭と呼ばれていて、隣接する楽々園は槻御殿と呼ばれていたが、現在は、御殿部分を楽々園、庭園部分を玄宮園と呼んでいる。


楽々園御殿の玄関…御書院へは廊下でつながっているようだ。


観光客は案内板に従って右手に回り御書院の前庭に出る。御殿への入口付近の立札を読むと、楽々園は旧藩主の下屋敷で槻御殿の名のほかに黒門外(前)屋敷とも称されていたが現在は楽々の間にちなんで楽々園と呼ばれているそうだ。四代藩主が2年をかけて1679年に造営したもので、往時には能舞台も備えた広大な建物であったが、現在では書院や地震の間、雷の間、楽々の間などの一部が残っているに過ぎないらしい。




御書院…御上の間、御次の間を外から覗ける。御書院は一時期、民間業者が旅館として営業していたらしい。直弼は1815年にここで生まれた。

御書院に続いて、地震の間、雷の間が並び、その奥の欅に半ば隠れているのが楽々の間、楽々園はこの楽々の間に因んで名づけられたらしい。
地震の間とか雷の間と聞くと穏やかではないが、地震の間の前を見ると大小の岩がころがっている。もともと弱い地盤のところだったので岩石で補強して建てたので耐震になっていたのかも知れない。地震の時、藩主が安心して避難したのだろうか、数寄屋つくりなので平素は茶座敷ちして使われていたらしい。
楽々の間も茶室であったようだが、雷の間は避雷針が備えられていたわけでもないので、雷の避難にこの間が役に立ったとも思えない。いつごろ誰が雷の間と名付けたのか知りたいものだ。

御殿の前庭には枯山水が設けられている。

枯山水の傍にも槻御殿の説明パネルが立っている。楽々園の立札の説明と重複するところがあるが、槻御殿は4代藩主の直興が1679年に下屋敷として築造したもので、木材は槻でその華麗さは各大名も驚嘆したとある。12代藩主の時、楽々の間を増築して以来、楽々園の名のほうが有名になった。楽々園の名は仁者は山を智者は水を楽しむの意からとったと言われ仁政の意をもっていると言われているなどと書かれている。

玄宮園

御殿は楽々園、庭園は玄宮園ということで、玄宮園にやって来た。玄宮園は広い池水を中心に、池中の島や入江には橋を架けた回遊式庭園となっているようだ。池の水は外堀から引いてきている。往時には、園内で風流に舟遊びの一興を催すこともあったらしい。


木橋が架かる小島の松林の向いに東屋が見える。東屋は臨地閣と名付けられているらしい。さらに目線を上に向けるとはるか彼方にお城の天守が見える。池、木橋、小島、松林、東屋、風流一式が揃っている。

池の向こう正面に船着き場らしきものが見える。船を浮かべて興じていたのかも知れないが、いかにも大名庭園と言った感じだ。船着き場の左手には庭石の間から水が流れ出ていて凝ったつくりになっている。

池の周りの芝生は、4月初めではまだ赤茶けたまま。1ケ月も経てば辺り一面緑の絨毯に覆われるようになり活気が戻ってくるとまた楽しみが増す。
左の隅に陸橋らしきものが見える、山側に小径がついているようなのであの橋を渡れそうだ。

先ほどより少し大きい小島、名前が付いている訳でもなさそうだ。楓か何か植わっていて秋にはまた楽しみがありそうだ。


池の奥の方を見ると木橋が見える。途中、木橋を岩で繋いでその先の小島に渡るように造られていて庭師の業が見て取れる。

遠く森の上に天守が見える。池に浮かべた船の上で歌に興じながら、彼方の天守を眺める。いかにも大名の遊びといった風景が目に浮かぶ。

玄宮園に田んぼがあるとは、ちょっと驚いた。

玄宮園の見物を終え、内堀の桜を見ながら彦根駅に向かう。


何で「玄宮園」と名付けたのかと気になって、後でネットを眺めていたら、「彦根城と特別展」に「玄宮園の名は、古代中国の宮廷の名によって命名されたと考えられます。園内を見渡す好所に建てられた数寄屋建築である「八景亭」の名から、一説に中国の瀟湘(しょうしょう)八景または近江八景を取り入れて作庭されたとも伝えますが、 江戸時代に描かれた「玄宮園図」に八景亭の名はなく「臨池閣(りんちかく)」と呼んでいたようです…… 」

とあり、数寄屋造り「八景亭」の名から中国の瀟湘八景を連想し玄宮園と命名したと考えられるとしながら、そもそも「八景亭」はなかったとも言っていて何が何だかよく分からない。

また、「彦根観光ガイド」に玄宮園は中国唐時代の玄宗皇帝の離宮になぞらえて名付けられたと言う説明がある。
玄宗皇帝の離宮と言えば華清池のことだと思われるが、華清池は玄宗皇帝が楊貴妃と酒楽に明け暮れた温泉場である。大名庭園とは言え、わびさびの流れを汲む庭園なので玄宗皇帝の離宮になぞらえるのはちょっと違うと思うがどうだろう。