松山城見物 1日目

松山城の沿革など
いつもは出発直前にウィキペディアをコピーして、道中あわてて付け焼き刃の知識を詰め込んだりするのだが、今回はウィキペディアや他のネットの記事のほかにも松山城についての中古本も手に入れている。ごちゃまぜの知識をごちゃごちゃ並べれば略々以下のようである。

初代藩主加藤嘉明
加藤嘉明は豊臣秀吉の天下取りのために子飼衆の一人として幾多の戦場を駆け巡った。功績が認められて伊予松前に6万石を与えられ築城を始めていた。

関ヶ原の戦いでは加藤清正や福島正則らと共に徳川方に付き、戦功により20万石に加増された。松前は手狭であったこともあり20万石に相応しい城郭と城下町の形成を求めて9キロほど離れた道後平野中心部の勝山(城山)に平山城の築城を慶長7年(1602)に始め、この地を松山と呼ぶこととした。

縄張りは標高132mの頂上の2つの峰を切り崩し谷を埋めて本丸を造成、本丸の北隅の本壇に5重の天守を築城、南西山麓に二ノ丸、平地に三ノ丸を置き、東郭、北郭を設け、さらに城下町を形成するという壮大なものであった。
着工から25年、嘉明は城の完成を目前にして、寛永4年(1627)に会津に転出した(転出させられた)

2代藩主蒲生忠知
代わって蒲生氏郷の孫の蒲生忠知が出羽上山より24万石で入封し、二ノ丸の築造を含め城郭全体を完成させたが、寛永11年(1634)参勤交代の途中、京都で病没、嗣子がいなかったため7年で断絶する。

松山城ホームページにも忠知が二ノ丸の築造を完成させたとある。加藤嘉明がとっくの昔に二ノ丸を造っていたのではないかと思って管理事務所に聞いてみると、略々次のような回答があった。

「……二ノ丸は石積みを含む造成工事と建築工事については明確な史料を欠いており施行時期も明らかでない、西園寺源透氏は著書「松山城の沿革」の中で忠知が築城残工事の整理と二ノ丸の建築を行ったと思われると述べている。
忠知の入封の2ケ月後に江戸幕府隠密が松山を訪れ松山藩の状況を記録し、幕府隠密松山城見取図を作成している。こちらの二ノ丸部分を見ると櫓や門と思われる建築物の一部が描かれているが御殿部分の記載はない。幕府隠密探索書は伊予史談会が所蔵している」とのことであった。

忠知の入封の2ケ月後と言えば、忠知がまだ手を加えていない加藤嘉明の城の最後の状況を表しているといってよい。’その二ノ丸部分に藩主が政務を司どったり、藩主の家族が暮したりする御殿が描かれていない’とはどうゆうことなのか伊予史談会に聞いてみた。観光客を適当にあしらっておこうとするような回答があったが、ちょっと頭を冷やすために、その詳細については2日目の二ノ丸見物のところに延ばすことにする。

3代藩主松平定行
寛永12年(1635)、伊勢桑名より15万石で移封。寛永19年(1642)に3年かけて天守を5重から3重に改築、石垣、門扉なども改修した。
(定行が5重の天守を3重に改築したと伝えられているが、元々、天守は5重ではなかったとする有力な見解もあるらしい)

松平家は以後、15代234年にわたって続き、松平定行を初代松山藩主としている。

11代藩主松平定国
天明4年(1784)正月、落雷により天守一帯が焼失。幕府の城郭復興の許可を得るも財政的困窮から再建は叶わず。

14代藩主松平勝善
懸案の天守普請を嘉永5年(1852)4年をかけて完成する。2年後安政元年(1854)に盛大に落成式を行う、現在の天守はこのときのもの。

ペリーが浦賀に入港、幕府に開港を迫ったのが嘉永6年、翌安政元年には和親条約を締結、200年余続いた鎖国が終った。
かくて、世相は天下動乱の様相を呈し始めていた。この期に及んで天守の落成式を盛大に行うとは脳天気というか、のんびりしているとか言いようがない。


明治3年三之丸焼失、明治5年二之丸焼失、昭和8年天守を除く小天守など天守曲輪一帯が放火により全焼、昭和20年の空襲により太鼓門、乾門一帯焼失、昭和24年放火により筒井門など焼失。

昭和25年焼失を免れた天守など21棟が重要文化財に指定され、焼失した小天守や櫓なども昭和43年から順次木造で復元された。

ところで、天下の巨城と言われる熊本城や姫路城でも築城にかかったのは8、9年である。加藤嘉明の松山城は着工から25年たっても何故完成しなかったのか気になるところである


今年の桜の季節のお城見物は松山城と犬山城に決めている。今年の桜の開花は異常に早く開花予測も何度も前倒し更新されたりするので落ち着かない。
松山城の桜見物は2日間の予定で、4月2日の出発予約をしていたが、桜予報に応じて3月29日、さらに3月27日と前倒し2回変更した。特典航空券の予約を2回も変更して貰ってJALには感謝々々である。

当日、伊丹空港出発は8時35分、1時間ほどで松山空港に到着する。
松山城のロープウェイ乗り場へは大街道と言うバス停で降りて5~6分で行けるらしいのでリムジンバスに乗った。バス代は850円、空港から市内へはそんなに距離があるとも思えないのでちょっと高いと思ったが、帰りは510円だったのでちょっと高めの急行料金が入っていたようだ。大街道のバス停から5~6分ほどと聞いていたが、終末期高齢者の足で12分ほど歩いてロープウェイ乗り場に着くと、長い行列が出来ている。
チケットを買ってエスカレーターで3階の乗り場に上がる。ロープウェイとリフトどちらに乗っても良い。行列に従って真っ直ぐ行けばロープウェイ、途中、右手に進めばリフト乗場に行く。
ロープウェイは10分間隔、リフトはほぼ待ち時間なしで運行している。所要時間はロープウェイ3分、リフト6分。

ロープウェイに乗って下を見やると道路が見え隠れする。天守に上る3つの登城道の内の1つ、東雲登城道らしい。徒歩で上る健脚の姿もちらほら見える。ロープウェイの降車場の長者ケ平から登城道に向かう。正面の道路は工事用で天守の裏手まで続いている。高石垣の上の櫓は巽櫓?
観光客は左手の手すりの付いた登城道のスロープを上って天守を目指す。
桜の満開予報が出ていたので登城道は縁日のような込み具合である。
松山城平面図…松山城リーフレットより。
勝山山頂の2つの峰を切り崩して谷を埋め、平らに整地して本丸の敷地を造営し、周囲を高さ10mの石垣で囲っている。
松山城平面図の天守台(松山城では本壇と呼んでいる)部分の拡大図。赤丸が江戸末期のもで重要文化財、白丸は昭和になって復元されたもの。

松平家の統治が234年続き、この間、1642年の松平初代藩主定行が天守改築や石垣、門扉などを改修。1784年落雷により天守一帯が焼失後、14代藩主勝善が1852年に焼失した天守などをを復元した。現在の松山城は天守はこの時のものとされてている。

天守防衛の最後の位置付けなのか、狭い本壇にやたらと門や櫓を詰め込んだ感じでごちゃごちゃしている。加藤嘉明が築城した当時の天守はどんなものだったのか知りたいところである。

正面を守る大手部分の拡大図…アメリカ軍の空襲や放火などにより大手の門や櫓などが焼失し、焼け残って重要文化財に指定されているのは戸無門と隠門、隠門続櫓だけのようだ。


登城道の右手の高石垣の高さは17m、松山城の石垣の中で1番高い。石垣の上に隠門続櫓が見える。

大手門跡…二ノ丸から険しい登城道を登って来るとこの大手門に至る。手前右後ろの小広場には待合番所があった。二ノ丸からの登城道と東雲口からの登城道、どちらを登って来てもここで合流することになるので重要な防御拠点であった。
本丸に向かう。正面に見えるのは太鼓櫓、遠くに天守が見える。太鼓櫓の石垣の下にはかっては中ノ門があったらしい、右手に直角に曲がって本丸に向かう。
攻め手は急に真横に曲るので戸惑っていると真上の太鼓櫓から銃撃する仕掛けになっている。
戸無門…右手に曲がった先にあるのが戸無門。建造当初から扉が無かったので戸無門と言われている。正面左右の本柱の上に冠木を渡し切妻屋根を架け、裏側の控柱の上にも両側に小さな切妻屋根を載せる高麗門である。城郭や寺院の門によく見られる。この戸無門は江戸末期に再建されたものと言われている。

戸無門を内側から見る。両側の控柱の上にそれぞれ小さな切妻屋根がのっている。もともとは開いた門扉が雨に濡れるのを防ぐためためのものだが、この戸無門には門扉がないので役目がない。格式高く高麗門を設けたということのようだ。

筒井門と隠門…手前の筒井門の右側の出っ張った石垣と奥の石垣は屏風のように折れつながっているようにも見える。

筒井門…築城当時、松前城から移設された本丸最大の門であった。
筒井門をくぐって振り返って見ると、大手を固める重要な櫓門であることが分る。筒井門は築城の際に松前城から移築された加藤嘉明時代ものであったが、昭和24年、放火により焼失した。現在の筒井門、筒井門続櫓は復元されたもの。
隠門、隠門続櫓…筒井門の石垣がつながっているように見えていたのが門の右側の出っ張った石垣。隠門の2階がこの石垣の上で隠門櫓に接続している。筒井門に隠れるようにが並んでいるので隠門と言われ、筒井門に侵入して来た敵を隠れ門から挟み撃ちにする狙いがあった。
隠門と続櫓を裏側から見る…埋れ門のように見える。埋れ門は敵が攻めて来た時、石で埋めて進入を阻止する狙いがあるが、この門にはその意図はないようだ。

隠門と続櫓は筒井門が移築された後に建築された江戸時代前期のものと言われている。空襲や放火などによる焼失をも免れた。筒井門の復興工事に併せて修復されて現在の姿になっている。太鼓櫓…筒井門をくぐると正面に2重の太鼓櫓が見える。太鼓櫓は登城の時などを告げる太鼓が置かれる櫓であるが、太鼓が置かれていたとする史料はないようだ。加藤嘉明時代の史料はなく、松平定行の改築時や現存松山城が造られた嘉永5年ともなれば太鼓櫓で時を告げるという発想がそもそも無かったのかもしれない。

太鼓門西塀に沿って太鼓門に向かう。石垣の上の太鼓櫓と太鼓門を繋ぐ渡櫓は24mあり、狭間が21か所、石落が2か所が設けられていると説明されている。筒井門を破り太鼓門に進む敵兵を攻撃する仕掛けとなっている。

左手隅の日陰のところに太鼓門がある。右手の建物は巽櫓、正面の石垣の上には太鼓門と巽櫓を結ぶ渡櫓がのっている。巽櫓は最後に再建された。
太鼓門…この門をくぐれば本丸広場、太鼓門が本丸への最後の防御となる。
本丸広場に入ると左手に馬具櫓がある。名前の通り馬具を保管する櫓だったが、松山城の復元の中で唯一鉄筋コンクリート造りで復元された。
本丸広場…本丸広場は南北約300m、東西は広いところで180m、狭いところでは30mほどの細長い形をしている。少し進むと天守と小天守が見える。テントの所で検温と消毒をする。その奥の平屋の建物が切符売場。
満開の桜の向こうに天守が見えるが、姫路城などに比べて屋根の反り、特に下り棟の反りがない。慶長の時代、戦国武将たちがこぞって築城を始めたが、城主の権威を誇示するように屋根の下り棟の先端を反りかえらせている。現在の松山城天守は嘉永5年(1852)に再建されたものなので、技術がなかったのか、建築美より実用を重んじたのか、千鳥破風と唐破風が無ければ大型の民家と見間違えてしまいそうだ。

切符売場の裏手の緩い坂を上ると、正面に紫竹門東塀、右手の石垣と石垣の間に天守に向かう入口がある。

左手に小天守、右側が一ノ門南櫓、正面に天守。正面石垣の上の板塀から戸板がぶら下がっている所は石落とし。天守は2重に千鳥破風、3重には唐破風が取付けられている。

一ノ門…本壇最初の入口だけあって頑丈な造りになっている。
一ノ門をくぐると見学者用の手すり付き階段が設けられている。正面は二ノ門南櫓。
階段を上がったところが枡形の小広場になっている。正面に一ノ門東塀と一ノ門南櫓、左手が二ノ門南櫓、右側の石垣が三ノ門南櫓、背後に二ノ門があり4方に囲まれていてる。敵勢が一ノ門を突破してきてもこの枡形広場に押し込めて4方から銃撃する仕掛けになっている。
二ノ門…短い階段の上には門扉のない薬医門と呼ばれる門が待ち構えている。
三ノ門…右手の石垣は天守の石垣。一ノ門にあったような脇戸は付いていない。
三ノ門をくぐると左手の階段の上に白漆喰の三ノ門東塀が築かれており、鉄砲や弓を射る狭間がある。右手の建物は三ノ門南櫓。
筋鉄門…天守を守る最後の門、天守を守る最後の砦だけあって柱や梁に鉄板が貼られて補強されている。左手は筋鉄門東塀、狭間は一ノ門に攻め入ってきた敵兵を狙い撃ちする。昭和8年に小天守と共に放火により櫓部分が焼失した。戦後に復元されたが重要文化財とはならず登録有形文化財となっている。
立て札の説明…天守は3重3階地下1階全高は天守広場から約20m、また天守台石垣は石が隙間なく積まれた切込はぎで4.1mの高さがある。この石垣の囲まれる空間が地下階となっている。慶長年間(1596~1615)、加藤嘉明の創建当初は5重であったが、寛永19年(1624)松平定行が3年をかけて3重に改築した。(それは本壇がある標高132mの本丸広場の一部は谷を埋め立てしているため地盤が弱かったからとも、幕府に配慮したからとも言われている。
本壇は山を削った敷地で、谷を埋めたところではないなので地盤が弱くて云々は当たらない。また、幕府に配慮した云々も、もともと加藤嘉明の天守は5重ではなかったする有力な説があるので、定行が3年をかけて3重の天守に改築したとするのも、3重の天守を造営したとみるのが妥当のようだ。
天明4年(1784)正月、落雷により天守が焼失した。70年後の安政元年(1854)に再建されたが、わが国城郭建設史上最後の天守となった。形式は塔のように屋根を重ねた層塔型と言われる構造である。外観は南北屋根妻側は1重目に千鳥破風,2重目唐破風が、東西屋根には1重2重ともに千鳥破風が備えられている……)


天壇の配置図部分の拡大図…筋鉄門の櫓の2階は天守と小天守をつなぐ渡り廊下となっていて、天守と小天守が渡櫓でつながる連立式天守と呼ばれている。

筋鉄門を通り、天守広場を右手に進んで見学者用入口を入ると天守地階の旧米蔵が靴脱ぎ場となっている。
1階に上がる階段…混み合うのか、上りと下りの階段が分けられている。
城内の展示…天守広場を囲む廊下や櫓に城史にまつわる品々が展示されているようだ。
内門の2階部分の通路を進んで行くと下り階段となっている。
玄関多聞櫓の通路に展示品が並んでいるようだ。
松平定行の鎧兜と具足…何故か松平定行の鎧兜が最初に展示されている。


3代藩主松平定永の甲冑

4代松平定直の甲冑

展示品が並ぶ廊下の突き当りの広間に加藤嘉明のコーナーがある。嘉明の甲冑の展示や人物や松山城の築城などの説明をしている。

加藤嘉明沙汰状…築城中の慶長9年(1604)、嘉明が家臣に宛てた沙汰状。
8月29日に9080枚の瓦の注文と12月29日1323枚の請取書。政庁の充実…加藤嘉明の後を受けて松山に入封した蒲生忠知が築城の残工事の整理や二ノ丸に御殿を建設するなど政庁の充実を図ったとある。葵門付き鬼瓦…三つ葉葵の屋根瓦を使うことを許されていた。
衣類や調度品などを収納した。両端の金具に棹を通して担ぎ運搬にも使われた。三つ葉葵の紋があるので将軍家が特に使用を認めた三つ葉葵紋付きの長持のようだ。

小天守の石落とし。
小天守の2階に上がる。


廊下や隅櫓、小天守などの展示品を見物した後、天守に戻る。


天守1階…、廊下(武者走り)が四方を囲み、柱と敷居で区切りられた内側に部屋がある。(姫路城では廊下を入側、部屋を身舎(もや))と言った。

2階に上がる階段を裏側から見る。


2階に上がる


2階の造りは1階とほぼ同じ、武者走りが少し狭いようだ。

3階に上がる。3階…四方に窓が設けられており、引き戸となっている。
天守3階から北を望む。学校などの教育施設が多いようだ。


天守より西を望む。手前に南隅櫓、十間廊下、搦手の乾櫓が見え、遠くに松山市内の中心部のビル群が見渡せ、さらに瀬戸内海をも望まれる。

天守より南を望む。白いテントが検温と消毒をする処、その後ろに竹やぶがる。本丸広場には観光客が三々五々と言ったところ。

天守より東を望む。遠くのやまなみには道後温泉がある。



天守の見物を終えて天守広場に出てきた。左手に十間廊下が伸び、突き当りは北隅櫓、その下に唐破風様の玄関がある。往時は天守へはこの玄関から出入した。右正面の櫓門が内門。
天守内の展示品の見物では天守地下の米蔵から1階に上がり、内門櫓の2階を進んで短い階段を下りて多聞櫓に至った。何で下り階段があるのかと思っていたが、外から見ると内門櫓と多聞櫓の高さが違い、短い下り階段で多聞櫓につないでいることも良く分かる。

カメラを少し引いて南隅櫓と十間廊下を収める。


内門…立て札の説明によれば、内門は天守の西側に位置し、仕切門の間は枡形となっている。上の櫓は天守と玄関多聞櫓の通路となっている。天守及び多聞櫓の戦力によって防衛される。天明4年の雷火のため焼失し、嘉永4年までに再建されたとみられる。昭和8年放火により焼失したが昭和48年に復元されたとある。内門の右手の四角い空間が見学者用の入口。

仕切門内塀…乾門方面に対し防御の構えとなっている。天明4年の雷火により焼失、嘉永5年までに再建されたとみられる。昭和10年に国宝に指定されたが、昭和25年の法改正により重要文化財となった。

仕切門…仕切りは分け隔てることなので、天壇の諸防御施設と天守直属の施設を仕切る門と言うことなのか?


天神櫓…菅原道真を祀っている。久松家は菅原道真を祖とする家系であるが、家康の母が松平定行の祖母にあたることから家康が天下を取り徳川の世になって松平を名乗るようになったようだ。明治になって久松に戻ったらしい。


1日目の見物はこれでお終い。ちょと時間的には早いが、大街道沿いのビジネスホテルにチェックインし、少し休んで予約しておいた近くの居酒屋で晩ご飯にした。値段の割にはもう1つであった。