松山城見物2日目

今日の予定は三ノ丸跡、二ノ丸公園を見た後、昨日見残した天守の搦手周辺を見てから本丸東側の石垣などを見物することにしている。

10時過ぎにチェックアウト、ホテルの前で客待ちのタクシーに乗る。行先は三ノ丸跡だと言うと、運転手さんは怪訝な表情をしている。三ノ丸があったところで二ノ丸の近くだと話しても通じない。事務所に電話をしてくれたが、分からないらしい。県庁の裏手の方向らしいので、とにかく走ってもらう。


三ノ丸跡・二ノ丸史跡庭園




二ノ丸公園を目指して走って三ノ丸跡地に着いた。運転手さんは堀ノ内と言って貰えば直ぐに分かったのにと愚痴った。地元ではここが三ノ丸跡で藩主の御殿があり、武家屋敷があったことなどは忘却の彼方のようだ。

最初の写真の右手奥の辺りに三ノ丸御殿があったらしいが、具体的にはわからない。

松山城の中古本によると三ノ丸の面積は9町6反あるらしいので東京ドームの2倍以上ある。


三ノ丸跡の写真を撮った後、二ノ丸公園を見てから本丸のロープウェイ乗り場に行くことにしているので、運転手さんに待って貰うことにして二ノ丸公園を駆け足で見ることにした。

二ノ丸史跡庭園

二の丸庭園北側の石垣…高さ10mもありそうだ。石垣の上に長く伸びているのが二の丸の多聞櫓。二の丸は藩主が政務を行い、藩主家族が居住する御殿であるが、松山城では本丸、天守を防御する役目もあったとされている。


三ノ丸から本丸への登城口であった黒門跡を抜けて少し進むと城山公園の地図と黒門口登城道の説明パネルが立っている。

パネルの説明によれば、黒門口登城道は三ノ丸から二ノ丸、本丸へと続く大手登城道で、三ノ丸からの入口となる黒門周辺は特に堅固な構えで、わずか100mほどの間に、黒門、栂門、槻門の3つの門と5度の屈曲が連続し、門には番所も設けられていた。黒門と栂門の間には藩士が登城する際にお供の者を待たせていた腰掛という建物もあった、そうだ。
パネルの説明の通り右に左に折れ曲がりながら堅固な石垣の間を進む。

槻門跡の突き当りには、左が本丸、天守方向、右に行くと二ノ丸方向、の標識が立っている。二ノ丸から本丸に行くにはこの道を通った。

二ノ丸庭園
13代藩主松平定道の文化時代の二ノ丸御殿を疎水や柑橘や草花などの庭園で表現していると説明されているが、4代藩主定直の時代に三ノ丸に御殿を造営、代々の藩主も三ノ丸御殿に居住したので、二ノ丸は世継が暮す邸となったと言われている。


さて、幕府隠密の探索書を伊予史談会がが所蔵していると言うことなので、’忠知の入封の2ケ月後に戸幕府隠密が作成した松山城見取図の二ノ丸部分に櫓や門は記載されているが、御殿は描かれていないのは何故か’と伊予史談会に問うた。

個人のものと断った上でのY氏の回答は、「愛媛県歴史文化博物館の図録に掲載されている幕府隠密の絵図をみたところ、二ノ丸に建物が描かれている。また、この幕府隠密が書いたとされる「讃岐伊予土佐阿波探索書」(海南史学21号所載)には、松山城に関する記述の中で「屋敷」の語が登場するのは二ノ丸のみである。なので松山城二ノ丸に藩主居住の建物があったと考える」であった。

そこで、愛媛県歴史文化博物館の図録に掲載されている幕府隠密の絵図をみたところ、確かに二ノ丸に御殿が描かれているが、解説によると「幕府隠密による探索書も資料として二ノ丸完成間近の蒲生期の状況を推定復元した」とあり、加藤嘉明時代の二の丸の状況を描いたものではない。

この点を指摘してY氏に、見解を求めたところ、梨のつぶてである。


愛媛県歴史文化博物館のホームページを訪ねたついでに愛媛県歴史文化博物館の学芸員に加藤嘉明時代の松山城二の丸についてメールで質問した。
流石に学芸員だけあって、
「加藤嘉明時代の松山城のことが分かる資料としては松山城天守曲輪を描いた「与(予)州松山本丸図」(甲賀市水口図書館)があるだけで、嘉明時代の御殿の有無、位置などについては資料がないことから不明と言わざるを得ない。
蒲生時代の幕府隠密松山城見取図には竹矢来を周囲に巡らす形で、二ノ丸内部にいくつかの建物らしきものが描かれており、そうしたことから御殿の建設中だったのではないかと考えられている。ただこれも加藤時代にある程度できていたのか、蒲生入ってからの状況を描いたものか、他に資料がなく不明です」と丁寧な回答があった。

行き掛かり上、もう少し自分でも調べて見ようと甲賀市水口図書館に電話したたところ、特別利用の申込書の書き方など丁寧に教えて貰い、教育委員会の許可を得て、「讃岐伊予土佐阿波探索書」「松山城図(伊予探索図)」「与(予)州松山本丸図」のCDRを得た。
(加藤嘉明の子孫が水口城主であったことから加藤嘉明に関わる古文書原本は甲賀市水口図書館が所蔵しており、伊予史談会はその写を持っているということのようだ。
また、与(予)州松山本丸図は予州松山本丸図が正しいが、原本は不注意なのか与州松山本丸図となっているので図書館の方でCDRの表題を与(予)州松山本丸図とかっこ書きされているようだ)

松山城二ノ丸については、古文書解読の素養がないので幕府隠密探索書の記述と伊予探索図(見取図)の両者を見比べながら判じるしか術はないが、愛媛県歴史文化博物館の学芸員の解説は納得的である。

さて、Y氏の説明に戻り、もう1つの論拠、探索書で「屋敷」の言葉が登場するのは二ノ丸のみなので、二ノ丸に藩主居住の建物があったと考えるのが妥当だとするのも納得的でない。
元々、本丸は登ることは出来ず、遠望したとあり、三ノ丸には家臣の屋敷があり、二ノ丸だけに「屋敷」があった訳ではない。

屋敷と言う言葉には建物の敷地と言う意味と、お屋敷と呼ばれる邸宅を意味する2つの使い方があるが、
探索書の中で屋敷については、「屋敷の北にあるのは冠木門である」と言う記述がある。伊予探索図(見取図)と合わせて考えると、お屋敷と呼ばれる藩主の御殿があったとは考え難い。
「二ノ丸内部にいくつかの建物らしきものが描かれており、そうしたことから御殿の建設中だったのではないかと考えられている。ただこれも加藤時代にある程度できていたのか、蒲生入ってからの状況を描いたものか、他に資料がなく不明です」とする愛媛県歴史文化博物館の学芸員の解説がこの問題への結論のようだ。
なお、愛媛県歴史文化博物館のホームページを訪れた際、蒲生家伊予松山在住屋敷割之図を見た。忠知が松山に入封後、間もなく描かれた物とされるが、二ノ丸部分に御殿らしきものは見当たらない。

松山城についてのいくつかの書籍には加藤嘉明は二ノ丸に居住していたとする記述がみられるが、二ノ丸についていろいろ調べて見たところでは、加藤嘉明時代に二ノ丸部分に御殿らしきものがあったとするのは史料がなく不明で、加藤嘉明が何処に居住していたのかもよく分からないと言うのが結論のようだ。


恋人たちの聖地とされる二の丸史跡庭園をどうぞご覧ください!!

 

本壇搦手周辺

松山の地理が全く分からいのでタクシー代がちょっと不安であったが、二ノ丸での待ち時間をいれても、ホテルからロープウエイ乗場まで思ったほどかからなかった。

リフトで登って搦手周辺に向かう。

紫竹門…チケット売場の手前に検温と消毒をするテントがあり、そばに形ばかりの竹やぶがある。この竹やぶの左手後ろに高麗門があり、往時は門を入ったところに紫竹が植えられていたので紫竹門と言われていたようだ。その紫竹に因んでテントの裏に竹やぶをこしらえたらしい。

2つの控柱に切妻屋根が載っているので、門としてはこちら側が裏手に当たるようだ。搦手からの攻めを防衛し本丸・本壇への進入を阻止する役割があったと思われる。漆喰壁には狭間が設けられてお侵攻してくる敵兵を狙い撃ちする仕掛けになっていた。
天明4年の落雷で小天守などと共に焼失した。現在の門は幕末に建されたもの。説明パネルの拡大図…紫竹門をくぐり塀に沿って進むと一重の櫓が正面に見える。乾門東続櫓と呼ばれ、乾門と合わせて搦手の防御を担っていたとある。
乾門と共に慶長年間(1596~1615)の築城時に正木城から移築されたと伝えられ、昭和10年に国宝に指定されたが、太平洋戦争で米軍の爆撃により焼失、昭和57年に乾門と一緒に復元された。
乾門…天守の北西(乾)から攻めてくる敵を最初に防御する櫓門。乾門の櫓の東側が石垣上の乾門東続櫓と接続している。
築城時は北ノ郭からの登城道が西に迂回してから乾一ノ門につながっていたらしい。古町口からの登城道は明治になって取り付けられた。

乾門東続櫓と共に慶長年間(1596~1615)の築城時に正木城から移築されたと伝えられている。昭和10年に国宝に指定されたが、太平洋戦争で米軍の爆撃により焼失、昭和57年に乾門と一緒に復元された。
乾櫓…説明パネルによれば、本丸の北西に配置された2重櫓で乾一ノ門(?)と共に搦手を防御する重要な櫓で太鼓壁(?)や天井板も張られていないことなど簡素で機能的な武装建築がみられるそうだ。乾櫓の前は石垣に囲まれた枡形になっており、乾門を突破しても乾櫓や乾門から挟み撃ちに銃撃される仕掛けとなっている。
乾櫓と乾門東続櫓っは乾門と共に慶長年間(1596~1615)の築城時に正木城から移築されたと伝えられている。確実な資料はないが城内最古の建物と考えられている。昭和10年に国宝に指定されたが、25年の法改正で重要文化財となっている。
パネルの説明…野原櫓は本丸の北側を防衛する二重櫓で、太鼓壁や天井板が張られていないなど簡素で機能的な武装建築である。入母屋造の1階の屋根を割って物見のような2階を載せたような構造になっていて望楼型と言われている。この望楼型の二重櫓は全国唯一の例だそうだ。望楼型の櫓が発展して天守が生まれたとする天守望楼起源を裏付ける資料として重要だとのこと。
パネルの絵図の拡大図…上の写真では桜に隠れてよく分からないが、この絵図をみると1階の屋根の真ん中辺りを割って2階部分に物見を載せたような構造になっているのが良く分かる。

野原櫓前から天守西側を眺める…高石垣の上に左から北隅櫓、十間廊下、南隅櫓が並んで聳え、十間廊下に3箇所、隅櫓にそれぞれ2箇所の石落としが設けられ、石垣を登って来る敵兵を狙っている。十間廊下の上に天守の屋根が見える。
この石垣は松平時代になって積み直したものと言われている。
石垣は屏風折れに築かれている。

加藤時代の本壇
松平家定行が改築したとされる現在の松山城の天壇再掲…全体的に角張った感じで、門や櫓がごちゃごちゃと天守の周りを固めている。

加藤嘉明時代の本壇を描いたものとされる与(予)州松山本丸図(甲賀市水口図書館所蔵)を見ると本壇はほぼ円形である。現在と同じ南側にある入口を入って左に曲がる「道」を突き当たって広場に出るようになっている。この天壇の東側広場は現在のものよりよほど広い感じである。
この広場より一段高い石垣の上に西側の敷地がある。敷地の中央に大きな構造物があり、池と読めるので貯水池があったようだ。この池を取り囲むようにいくつかの建物がある。これらの建物の内、どれが天守であったのか判断の仕様がない。このことからも5重の天守が聳えていたとは判じがたいようだ。
(与(予)州松山本丸図をブログに掲載する時には別途許可の申請をする約束になっているが、現在のところ与(予)州松山本丸図を載せるつもりはない)

松山城の石垣


高さが10mもある高石垣がぐるっと本丸を囲んで築かれており、本丸はまるで不沈空母のようである。

パネルの説明によれば、石垣は松山城を特徴づける構築物の1つで、石材には主に花崗岩が使用され、隅部はほとんど算木積みとなっている。
本丸を囲む高石垣は高さ10mを超え、美しい曲線を描く扇勾配と屈折を連続させることで防衛性を高めた屏風折が特徴となっているそうだ。江戸時代に改修されている部分もあるが北部を中心に加藤嘉明による築城時の典型的な石垣がよく残されており、その特徴は緩い勾配と上部のきつい反り、一部自然石を使用した打ち込み繋ぎ(ハギ)の乱積みである。
一方、本壇の石垣は北側と南側では異なっており、北側は打ち込み繋ぎの布積みで隙間に間詰め石が詰め込まれ、南側は嘉永年間に天守などが再建された際に新しく積み直され切込はぎの布積みで隙間のない整った外観となっている、そうだ。

巨城郭と言われる熊本城や姫路城でも築城に要したのは8、9年である。加藤嘉明が25年かけても松山城を完成出来なかったのは何故か?
加藤嘉明の松山城の縄張りは、標高132m、比高90mの勝山の頂上部の2つの峰を埋めて整地して本丸を造営、本丸北側の天壇に天守を築城、勝山の麓に二ノ丸や三の丸を置き、さらに東郭、北郭を設けると言う壮大なものであった。
石垣だけ見ても、松山市の調査によれば、二ノ丸を含めた石垣の面積は25000㎡にのぼる。当てずっぽうに㎡当たり3~5個の石材が積まれるとすれば、石の数は5000~8000と膨大な数となる。重機のない時代に石を切り出して城下に運び、山頂に引上げ、石積みをすることを考えると想像もつかない労力が費消されたことになる。

縄張りをした段階で、おおよその工事量と投入可能な人的資源の見積はしたのだろうが、後付けで勝手な推測をすれば、賤ヶ岳の七本槍の気概そのままに不都合な事実は無視してエイ・ヤーと築城に走ったのではないだろうか、同じような石高の米沢藩からすると、農民の数を7~8万、5%前後の3~4千人を常時、何年も使役に駆り出したりすれば、領民が疲弊していくのが目に浮ぶようである。
25年かけても完成しなかった理由が分かったような気がする。

南側石垣


手前に揚木戸門があった。東雲口から登って来るとこの揚木戸門に至る。

東側石垣

手前の石垣と奥の石垣は積み方が違うようだ。手前の石積みが不揃いなのに対し奥の石垣は石を加工して隙間のない石積みとなっている。確か切込はぎと言う石垣のようだ。松山城の石垣は後世に何回か積み直した箇所があると言われているので、ここが積み直したところのようだ。


扇形の曲線が美しい石垣の上に乗り出すような艮門東続櫓が立っている


西側石垣


リフト…思ったより安定しているので、最初にロープウエイを利用した以外はリフトで上りと下りした。


ちょっと遅めの昼ご飯は名物の宇和島鯛めしにした。行列の後にならんだが名物に旨い物なしではないが、もう一つであった。昨日の夕食もそうであったが松山でのご飯にはちょっとがっかり。

帰りのフライトは19.30なので時間はたっぷりある。近くに坂の上の雲ミュージアムがあるが、足が歩くのを渋っている。仕方なく空港行きのバスに乗り、空港で時間を潰すことにした。