桜で繋ぐ信州5名城 2日目

上田城址

子どもの頃には猿飛佐助や霧隠才蔵など真田十勇士の話にを夢中になったし、近くはNHKの真田丸で知略軍略を駆使する真田昌幸役の草刈正雄の迫力の漲る演技に感じ入ったりした。その主な舞台の上田城をこの目で見られると思うとわくわく感がある。


2日目の予定は上田城祉、松代城址と松本城の見物となっている。
7時45分出発なので10分前に食事を終えて駐車場に向かうと、雲一つない晴天の空を背景に雪をかぶった浅間山がどっしりと横たわっていて、清々しい感じである。

このところ毎年春には桜見物をしているが、弘前には岩木山、会津若松には磐梯山があり上田には浅間山がある。桜のシーズンになってもそれぞれ雪をかぶっていて、その姿はなんとも神々しい。


予定通りにホテルを出発、3日前に降った雪で辺りは雪景色に逆もどりしている。奥軽井沢にも別荘が並んでいるが、冬の間はひっそりとしているようだ。


山登りをしないし、関西人なのでアルプス連峰にはまったく疎いが、上田城に向かう途中のこの辺りから見えるのは北アルプスの南端の穂高岳かもしれない。


グーグルアース:上田城址


上田城址公園案内図・・・上田市、上田城址公園のご案内より(https://www.city.ueda.nagano.jp/sosiki/tosikei/5552.html))

上田城の歴史など(うろ覚えの知識にガイドさんの説明やウィキペディアの記事をごちゃ混ぜにして)

武田滅亡、信長の横死で混乱に陥った甲斐、信濃、上野の領地の上杉、北条、徳川の間で天正壬午の乱と呼ばれる分捕り合戦が起きた。
その最終局面の天正10年10月、徳川と北条が和睦した。その和睦条件の1つが沼田領を北条に引き渡すと言うものであった。
眞田昌幸は上杉、北条、徳川と仕える相手を次々と変えたりしていたが、この時は徳川に仕えていた。沼田領は昌幸が自力で勝ち取った領地であったので昌幸には承服し難いことであり、心中深く恨みを懐いたものと思われる。

天正11年、昌幸は上杉への備えとして千曲川領域を抑えるため上田の地に城を築くことを家康に提案、家康の了承を得て徳川の全面的援助で上田城の築城が始まった。
天正13年、小牧長久手の戦いの後、北条から和睦条件の実行を迫られた家康は軍を進め昌幸に沼田領の引渡しを求めるが、相応の代替地がない限り引渡し応じないと拒絶、家康との手切れを決断し、上杉に臣従する。
応じて、上杉は多くの武将を動員し徳川に対する前線基地として上田城の増築普請をした。

天正13年8月、第1次上田合戦:徳川は7000の兵を持って上田城を攻めるが、眞田は2000の兵で徳川勢を撃退する。
慶長5年9月、第二次上田合戦:関ケ原の戦いで、戦場に向かう徳川秀忠軍3万8000は上田城に籠城する昌幸と幸村の2500に翻弄され7日間上田に釘づけとなり関ケ原決戦に間に合わなくなった。

しかし、関ケ原の戦いは徳川方の勝利に終わり、昌幸と幸村は九度山に幽閉され、上田城は破壊され廃城となる。
戦後、徳川に付いた昌幸の長男信之が継いだ後、仙石忠政が上田の領主となり、明治維新まで続く上田城の姿を復興する。

明治の廃藩置県により廃城となった上田城の土地建物は民間に払い下げされ、7つあった櫓は西櫓を残して売却された。昭和に入って2つの櫓が買い戻されて現在の北櫓と南櫓の位置に復元され、平成に入って東虎口櫓門が古写真をもとに復元された。



バスの駐車場から尼ケ淵の河岸段丘の上に建つ南櫓を見上げながら、ガイドさんの後について上田城の入口、東虎口櫓門に向かう。欅が緑を吹くのはちょっと先のようだ。

東虎口櫓門門と北櫓を背景にしだれ桜が満開となっている。高遠のタカトウキヒガンザクラは7~8分咲き、小諸の桜は春なお遠しであったが地理的に北に位置する上田城のしだれ桜が満開なのは気温よりも木種によることが大きいようだ。


これぞ、しだれ桜 圧倒的なボリュームである。


南櫓の石垣と北アルプス:山並みの向こうに白い頭を出しているのは穂高岳?


眞田井戸:東虎口櫓門門をくぐり、真田神社の側を進んで行くと角材を山形に組んで何かを覆っているようなものがある。ガイドさんによると、これは眞田井戸で深さ16.5m、直径2mだそうだ。そばに立っている立て札を見ながらの説明によると、この井戸からは抜け穴が城北の太郎山山麓まで通じており、敵に包囲されても、その抜け道から兵糧を運び入れるにも城兵の出入りにも不自由しなかったそうだ。
(真田の物語としては奇抜で面白いが、井戸の抜け穴や太郎山の麓の出入り口など信憑性があるなら調査がされているだろうし、太郎山山麓までは1000m以上ある。真田が徳川や上杉に援助して貰って突貫工事で築城した2~3年間で抜け穴を掘る余裕があったとも思えない。
ヴェトナムでヴェトコンの地下通路に入ったことがあるが、兵が兵糧を運び入れるための縦横の空間を1000mも掘るのは容易ではない)


芝生広場の辺りの桜はソメイヨシノは9分咲き彼岸桜も8分咲きの感じである。


西櫓:ガイドさんによれば、この西櫓が江戸時代から現在まで上田城に残っている唯一の遺構で、壁は寒冷地によく見られる板の下端がその下の板の上端に少し重なる下見板張り、その上の軒の部分までは塗籠となっていて、屋根は入母屋造り、本瓦葺きだそうだ。仙谷忠正が上田城を再普請したのが寛永5年(1628年)のことなので400年ほど経っていることになるが屋根瓦など当時と変わらぬしっかりとしている感じである。


真田神社
明治も12年になって世間が少し落ち着てきた時、旧藩士などから松平家藩主を祀る神社を上田城跡に建立しようとする運動が起り、土地を所有していた篤志家の寄付もあって松平神社が建立された。昭和になって、松平神社はいかにもローカル、二度にわたる徳川の大軍の攻撃を退けた真田の名前があってこそ全国区になるという思惑があったのか、真田と上田城を再普請した仙石、松平を合祀して上田神社と改称、後に真田神社に改称した。


真田神社の鳥居:西櫓を見た後、逆もどりして真田神社にお参りする。鳥居をくぐると参道の先に本殿が見える。


真田神社の鳥居のそばに立てられている立て札:真田父子が主神、松平の代々の藩主は祭神・・・その他大勢と言うことなのか、神社建立に翻弄した旧松平藩士は納得?


受験戦争が終った後なので、知恵の神様も参拝者はちらほらという感じだ。

本丸跡
真田神社の敷地を寄付した篤志家が後に本丸跡地の残り半分も公園にと寄付をして市民の憩いの場となっている。真田城に天守があったのか、堀の跡から金箔瓦が見つかったと言われているのでロマンはふくらむが、徳川、上杉の援助で突貫工事で築城された上田城に豪華な天守を造る余裕はなかったと見るのが妥当と思えるのだが・・・


少し高くなっている本丸跡に上がってぶらぶら。


時間が9時半と少し早いので、花見の陣取りをしたブルーシートがあちこちに置かれている。


本丸、二の丸、お堀端に咲く桜は千本、毎年桜の咲く頃に上田城千本桜まつりが開かれる。


本丸と二ノ丸の間の堀が本丸をぐるっと囲んでいる。東側の堀の幅を広く掘っている。東側が防御に弱いと見ていたようだ。


槍ヶ岳?


本丸跡の見物お終えて東虎口櫓門門に向かう。ソメイヨシノの先に北櫓が見える。


東虎口櫓門:城内側から見た東虎口櫓門。


南櫓を最後にもう一枚。

松代城

NHKの大河ドラマ、真田丸で調略の舞台となったのが松代城(当時は海津城と言った)である。真田信繁が武田壊滅後上杉に仕えていた武将を調略、北条方に寝返らせたが、上杉方に知られる。調略にはまる武将を演じた俳優の哀しく切ない演技が今でも思い出される。

ガイドさんの解説によれば海津城は山本勘助の縄張りによって北側を千曲川、東側には二ノ丸、南側に三の丸が配置され、その外側に外堀、三の堀が囲む守りの固い堅城であったとのこと。

真田信之が上田城から移封、江戸時代の中頃からは本丸の南西にあった花の丸御殿が藩主の政務の場及び生活の場となって本丸は機能を終えた。明治の廃藩置県で廃城となってから石垣を残すだけとなっていたが、平成になって櫓門、木橋、石垣、土塁などが復元、整備された。

長野市に近づいたこの辺りから見える北アルプスの山々 … 、左手の少しとんがったのが蓮華岳、二階家の後ろが鹿島槍、その右の電柱に隠れているいるのが五竜岳かも?、ガイドさんの説明は頭を右から左に通り抜けた。

松代城の太鼓門:藩士に登城時刻を知らせる太鼓が備えられていた。太鼓門の前には太鼓門前橋が内堀にかかっている。


藩主の政務、生活の場が外堀の南西側の花の丸御殿が移された後は本丸は廃虚となり、現在も本丸跡には何にもない。隅っこに海津城の碑が立っているだけ。


北不明門(キタアカズ門)をくぐって広場に出る我らご一行様。左手に見えるのは戌亥の櫓で松代城で一番高い櫓跡。当時は2階建の櫓が建っており、川島平が一望できた。


県北の長野市に位置する松代城の欅はまだまだ眠っているようである。山並みの向こうに白い北アルプス連山、白馬は右手の方?


今回のバスツアーはツアーガイドの他に信州に詳しいガイドさんがついている。戦国時代にめっぽう詳しい。枯れ木の奥に見えるのは飯縄山?


広場をぐるっと廻り、堀沿いに太鼓門に帰ってきた。松代城の桜は5分咲きと言ったところ。


ガイドさんが現在の松代城址は本丸が残っているだけで、江戸時代の松代城は東側に二ノ丸、南側に三の丸が配置され、その外側に外堀、三の堀が囲む難攻不落の城であったと言っていたので、後で長野市のホームページを見ていたら松代城のMAPが載っていた。なるほど現在の本丸跡は松代城のほんの一部であることがよく分かった。

松本城

松代城址の見物が終わり、松本城に向かう。ガイドさんによれば、走行距離は60㎞ほどがが観光シーズンでしかも土曜日なので松本市内の混雑も予想されるので1時間半くらいかかるかもとのこと。
我ら御一行様は強行軍でお疲れの様子がちらほら、ガイドさんマイクも切っている。


松本が近づいてきてガイドさんが再びマイクを握り、松本城について説明が始まった。
信濃の守護大名の小笠原氏は戦乱を見越して館を平地から山麓に移し、林城を築きます。家臣たちも林城を囲むように城を築きました。そうした支城の1つが、後に松本城につながる深志城です。
武田信玄が信濃に侵攻し深志城を拠点としましたが、戦乱の中で武田は滅亡、続いて信長横死という動乱の中で小笠原さだよし(?)が深志城を再び手に入れ、名を松本城と改めました。

豊臣秀吉が天下を統一して徳川家康を関東に移封しましたが、このとき松本城主の小笠原…(?)は家康に従って関東に行きます。代わって松本城に入城したのが石川数正です。数正と子の康長によって現在にみる五重六階の天守や城下町の整備が進められました。
姫路城、彦根城、犬山城、松江城とともに国宝に指定されています。そのなかで松本城は五重六階の天守が現存している日本最古の城です。

(石川数正と言えば、戦国時代最大のミステリーと言える家康から出奔、秀吉に走った人物である。
もともと石川数正は家康が今川義元の人質となった時、供の者として駿府に赴いた近習であり、側近中の側近である。後に、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど多くの戦で武功を挙げ、また今川と交渉して家康の長男信康を取り戻したり、織田信長と交渉して清州同盟を成立させたり、秀吉との交渉役を任されたりなど徳川の渉外役を務めた人物が小牧長久手の戦いの翌年に突如として家康のもとから出奔したのである。後世になっても色々の推測がなされているが、真相は分からず仕舞いである。
秀吉に仕えて河内国8万石を与えられ、秀吉が天下を統一してから石川数正が松本にやってくる経緯はガイドさんの説明の通り)


車窓からは常に北アルプス連峰見える。五竜岳、鹿島槍、駒ヶなどなど


バスの駐車場から二の丸跡を通って松本城に向かう。国宝松本城の天守閣が青空に聳える様は雄々しい。

内堀の水、かすかにたなびく青空を背景にそびえ立つ5重6階の天守は思わずカメラを向けたくなる。

松本城MAP:「国宝松本城公式ホームページ松本城をより楽しむ」より引用。https://www.matsumoto-castle.jp
内堀の左手から手前に曲がった広場も二の丸跡。三の丸は現在は市街地になっており、南へ370m、バス停で4つほど下ったところまでの広さがあった。その三の丸を総堀が囲んでおり、女鳥羽川近くに松本城の大手門があった。


内堀を渡り二の門をくぐって城内にむかう。


切符売り場が置かれている一ノ門:本丸へ入る重要な入口、本丸御殿に通じる格式の高い正式の門ということで黒門と呼ばれていた。当時は黒が色調 の高いで色であったそうな。

一ノ門の門をくぐって城内に入ると5重6階の大天守が目の前。


右手の3重4階の建物が乾小天守、大天守の北の方角になる。北は縁起が悪いので同じ方角を意味する乾を冠して乾小天守と名付けられた。乾小天守は大天守に先がけて棟上げされた。
乾小天守の3階と大天守の2階を繋いでいるのが渡櫓。


大天守の左手、天守から少し前に出てるような建物が月見櫓、月見櫓の上に見えるのは辰巳附櫓の2階の屋根。
徳川家光が上洛の帰り道に善行寺詣を願い、宿を松本城とするとの達しがあり、城主松平直政が家光をもてなすためにこの櫓を突貫工事で増築した。
この月見櫓は3方の板戸を外すと部屋の中から月をめでることが出来た。

辰巳附櫓は月見櫓と大天守を繋ぐための2階建の櫓。南東の方角に当たるので辰巳附櫓と名付けられた。

上洛の帰り中山道に落石があったりして道中の遅れから、家光の善行寺詣は中止となり、せっかくの月見櫓も家光のご機嫌とりは出来なかった。


月見櫓と辰巳附櫓を横から見る。城内で見られる一押しの桜はこのしだれ桜。

天守の前に広がる芝生の広場が本丸御殿跡、藩の重臣たちが執務する部屋、藩主と重臣の評議の部屋や藩主の私的生活の部屋などを擁する多くの建物があった。享保年間に焼失し機能は二の丸御殿に移された。

どこから眺めても風格のある天守閣である。この松本城は石川数正が入封して息子の康長と築城を始めたが、数正は2年後、出兵先で亡くなった。8万石(兄弟で相続した康長の相続分)の康長が後を継いで2年ほどで小天守、大天守の造営や総、中、内の堀の浚いや拡幅や石垣の改修、黒門、太鼓門などを築いたとされている。
8万石の身代では土台無理な話(人夫の供出は100石につき1人と聞いたことがあるので8万石ならせいぜい800人)で、民家の取壊しや山林の伐採をしても碌な補償もせず、人足が巨岩運搬の苦情を訴えるとその首を刎ねたりしたとも言われている。徴用された農民、人夫に過酷な労働を強いたことが目に浮ぶようである。松本の農民、町民の城主に対する恨みは代々言いい継がれたと思われるが、現在の松本市民はどう思っているのだろう。


松本城のフォトベストスポット、内堀と野面積みの石垣の上に建つ大天守、遠くに見えるのは北アルプス、正面の尖った山が常念岳、右隣の山が横通岳。
国宝の松本城と北アルプスの山々を眺めて松本城の見物はお終い。
松本城天守の内部の見学は時間がなく省略された。


松本城の見物を終えバスにも戻ったところでスマホがなくなっていることに気づいた。旅行から帰った翌日に旅行会社からスマホが見つかった旨、連絡があって、松本城の管理事務所とスマホの確認をした。
で、無事にスマホが帰ってきたが、バスの車輪に踏まれたのか液晶画面がぐちゃぐちゃになっていた。幸いメモリーカードが取り出せ、新しいスマホにデータを転送出来た。特約を入れていたので無料で交換できたのでほっとしている。
迅速に対応してくれたガイドさん、旅行会社、松本城の管理事務所の皆さんに感謝々々。