姫路城見物その1

昭和の修理から50年ぶりに平成の大修理が平成21年から始まり、テレビでも今回の修理は外壁の漆喰の塗替えや屋根の葺き替えが行われると説明されたり、高さ31.5mの大天守が素屋根ですっぽり覆われる姿が放映されたりして凄い工事だなあと思ったりしていた。平成26年6月に修理が終わり素屋根が取り払われると、真っ白な大天守がまばゆいほど輝き、天に聳え、白鷺が大空に飛び立つような感じであった。

桜の季節にお城見物をしていて、弘前、会津若松、高遠など信州5城を見た後、地元の姫路城の見物をすることにした。姫路城見物は平成31年であるが、もたもたしていて、今年(令和4年)に入ってなんとなく姫路城のHPを見ていたら3月1日~21日間に「トの櫓・搦手周辺」を特別公開すると言う記事が載っていた。特別公開されるところなら是非見たい、ついでに、前回は混雑していてうまく撮れなかったところも撮り直したいということで再訪することにした。

 


姫路城の歴史など
先ずは姫路城の歴史から、鎌倉時代末期に赤松則村が縄張をし、次男の貞範が貞和2年(1346)に城を築いのが最初とされているが、確かな史料(正明寺文書)によって姫路に城が確認出来るの永禄4年(1561)からで、その頃姫路を治めていたのは黒田重隆・職隆であり、それ以前の第1代から11代の時期に姫路城は存在しなかったと言う説がある。姫路市史にも載っているようなので無視出来ない有力な説のようだ。また、その6年ほど前の正明寺文書に姫山の主要部分が売買された記録があるが、その中に城の存在を示す表現はないとのことである。
砦や館のようなものでも有ったのか無かったのか正直、分からないというのが真相のようだ。

若い時に読んだ司馬遼太郎の播磨灘物語では黒田官兵衛の黒田氏は北近江の出、流浪の末に官兵衛の祖父の時に姫路にやって来た。当時姫路は一望、草遠い野ずらの中の小さな村に過ぎなかった。村の中に姫山という丘があり、そこに寺院程度の小城が構えらえていたが、城主は5キロほど東の御着という土地にいる小寺氏で、姫路城は御着城の支城であるが城番がいる程度の空城であった。官兵衛の父の代に小寺氏の家老となり姫路城を居城とすることとなり官兵衛はここで育った・・・

播磨灘物語では官兵衛の祖父がやって来た時には、姫路は一望、草遠い野ずらの中の小さな村に過ぎなかったが、姫山という丘に寺院程度の小城があったとしている。播磨灘物語は城の存在について特段の吟味はせずに通説に従っていると言うことのようだ。

さて、信長の命により毛利を睨んで、播州平定のためにやって来た羽柴秀吉は官兵衛の姫路城を差し出すと言う申し出に驚いたが、本丸か二の丸を貸してくれるのだろうと内心思っていたが、本丸、二の丸に武家屋敷も明け渡し、官兵衛自身は父の隠居館に移ると言う。秀吉は官兵衛の豪胆さに驚愕してしまう。
秀吉と官兵衛のやり取りは置いといて、官兵衛の代には田舎城ながら、本丸、二の丸、武家屋敷も備えた城郭が築かれていたようだ。

秀吉の3重天守
秀吉は播州者を従わせるには彼らが肝をつぶすようなことをしなければと考えていて、姫山の東の峰に3重の天守閣を持つ城郭を1年で築いた。

白亜の姫路城
関ヶ原の戦の後、姫路城主となった池田輝政は慶長6年(1601)に秀吉の天守を壊し、石垣などは生かして姫路城大改築を始め、慶長14年(1609)に5重7階の大天守と西、乾と東の3つの小天守を渡櫓で結ぶ連立式天守を完成させ、城主御殿は大天守の南側天守台に備前丸を置いた。
西の丸、三の丸
池田氏に替わって入封した本田忠政が元和4年(1618)に西の丸を造営、嫡男忠刻の居館を建設。三の丸には忠政の御殿や千姫の武蔵野御殿などを建て姫路城の総仕上げを行った。


明治4年(1871)の廃藩置県と明治6年の陸軍省の城郭の存廃区分で姫路城は生き残ったが、陸軍の駐屯地となり三の丸の御殿群は取り壊される。太平洋戦争では姫路は2度の空襲に襲われたが、姫路城は奇跡的に被害を免れた。


JR姫路駅からメインストリートを北に20分ほど歩くと、5重の大天守と西小天守、西小天守の奥に隠れるように乾小天守が連なる連立式天守の威容が段々と近づいてくる。


世界遺産登録の記念碑…平成5年、法隆寺などと共に世界文化遺産に登録された。

三の丸から姫路城天守入口に向かう通路は桜の季節、観光客で溢れている。

少し散り始めた桜の下で家族連れがブルーシートを敷き、シーズン最後のお花見弁当を楽しむ準備している。

姫路城はどこに行っても観光客がいっぱい。白亜の大天守が乾小天守と西小天守を従え、天に聳えているようである。姫路城・・・姫路城パンフレットより、赤いマークが付いているところが主な見どころのようだ。
姫路城平面図…姫路市立城郭研究センター「姫路城の基礎知識」より、江戸時代、姫路城には現在は市街地となっている外堀に囲まれた外曲輪、中堀に囲まれた現在は学校や公共施設などが建つ中曲輪があった。内堀に囲まれているが内曲輪である。(曲輪(くるわ)は堀や石垣、土塁などで区切られた区画、地域のこと)
内曲輪には本丸、二の丸、西ノ丸や三の丸など大掛かりな曲輪が築かれているほか、本丸や二の丸の北側には乾曲輪、西北腰曲輪、水曲輪、北腰曲輪など小さな曲輪がひな壇状に並んでいる。これは秀吉時代の曲輪を利用しているためのようだ。

 菱の門…姫路城の門の中で一番格式の高いのがこの菱の門。再訪時には修理中、3月に完成の予定だが、少し延びるらしい。囲い板に貼られたチラシには「菱の門、只今修理中にて候。修理ごっつう大変やねん…えーがいにせなあかんしなあ」と播州弁で書かれている。
いの門…菱の門で姫路城のパンフレットを受け取り、三国堀を右手に見ながら歩いて行くと「いの門」が見えてくる。お寺などでよく見かける高麗門で、2本の本柱の上に冠木を渡して切妻屋根を架け、裏側の控柱の上にも両側に小さな切妻屋根をのせている。
いの門は左右を石垣や壁に接し、脇戸が付き、金物などで飾られている。
いの門をくぐって次に進んでいると、右手に高い石垣の上に天守が聳えているのが目に入る。手前の左側が乾小天守、右が西小天守、奥に大天守、それぞれ渡櫓で繋がっていて、乾小天守の屋根は唐破風、入母屋破風で飾られ、西小天守は入母屋破風で飾られいる。乾小天守(大天守からみて西北の方角になるので乾小天守と呼ばれている)、乾小天守の方が豪華な造りになっているようだ。
ろの門…いの門と同じ高麗門、脇戸が付き、金物などで飾っている。
門にはひらがなで、い、ろ…と名前が付けられているようだ。
ろの門脇の土塀…壁には狭間という長方形や三角の穴が空いている。長方形の穴は弓矢用、三角は鉄砲を撃つ銃眼用。
ろの門から次の門に向かう途中の坂道、右手に土塀が長々と伸びていて時代劇の舞台としてよく出てくる。この土塀にも三角や長方形の狭間が造られており、敵の侵攻を阻止する仕掛けになっている。
はの門…坂道を上ったところにあるのが、はの門。櫓が乗った櫓門だが派手さはなく実利剛健と言った感じである。
門脇のプレートによれば柱のの礎石には石灯籠や五輪塔の礎石が転用されているとある。天下の姫路城と言えども全てを新しく切り出した石で賄うとはいかなかったようだ。
門の先を覗くと短い階段になっている。門の扉を閉め、階段を石で埋めれば鉄壁の防御として使える。敵は容易には天守に近づけない工夫があちこちにされている。階段を上った先の広場は小ぶりな乾曲輪。
乾曲輪には規制のロープが張ってあり、矢印に従って右手に進んで石垣の土塀沿いに緩い坂道歩いていると、ここからも天守が見える。
にの門…下の坂道の土塀の上の段にあたる。坂道を突き当り、Uターンして進むと、にの門の標識がある。にの門に乗っている櫓は正面の千鳥破風の奥に方角が斜めの櫓も見え複雑な構造になっているようだ。
大天守もそうだが、白漆喰総塗り込めは壁だけでなく屋根の丸瓦の目地も白漆喰で塗り込めされているいるので全体が真白に輝いているように見える。


にの門…天井は低く、門は一面鉄板で覆う構造になっており、文字通り鉄壁の防御となっている。
低い天井を進むと直角に曲がる構造になっていて、攻め手は一気に進むことは出来ない仕掛けになっている。敵が狭い通路で押し合い圧し合いしていると、階上から攻撃することもも出来、城側の最後の砦と言った感じである。
にの門を抜けて出た広場が西北腰曲輪、ひな壇状に並んだ乾曲輪の上の段にある。この曲輪は大天守を裏側から眺める位置にあり、乾小天守の全体がよくわかる。(天守の裏側、人間で言えば腰に当たるので腰曲輪と言うらしい)
乾小天守は初重が唐破風、2重目に入母屋破風が乗り、3重目にも小ぶりな入母屋破風がのっているようだ。3重目の壁は華頭窓で飾られている。
ほの門…西北腰曲輪の通路の突き当りにあり、土塀の下の石垣を取り崩して門にした感じである。はの門と同じように石で階段を埋めれば敵の進入を阻止出来る。はの門やにの門で鉄壁の防御を敷いているのに、まだ足りないのかと思う。
ほの門…階段を上がって見返したところ。


姥ケ石…ほの門のそばから石垣の上の方を見ると、石垣の隙間に白い丸石が積まれ網で囲ってあるのが見える。これには言い伝えがあって、秀吉が姫路城を築いた時、石集めに苦労していた。これを聞いた焼き餅売りの老婆が何か役に立ちたいが何も出来ない、せめて、これでも役に立つならと石臼を使ってくれと申し出でて、秀吉はおおいに喜んで石臼を石垣に使った。この話が評判となり、その後は全国から石が集まるようになり急速に工事が進んだというものである。だが、この辺りの石垣は池田輝政が秀吉の石垣を積み直したところなので姥ケ石が表に出ることはないらしい。後の世になって誰かが石垣の隙間に白い丸石を挟んでうまく話を作ったのかも知れない。
水の二門…門の中では一番簡略で2本の柱を立て冠木を渡し、切妻屋根を架けた門、棟門と言われている。(水の一門はほの門と油壁を挟んで裏側にあったらしいが見逃した。)
水の三門…ほの門と同じように土塀の下の石垣を切り抜いたような埋門。門を潜るとすぐに直角に左折し、階段を上がるようになっているようである。
ここも敵が攻めて来た時には石垣を崩して埋めれば進入を阻止出来る。
ここから上を見上げると大天守5重の庇が花びらのように見え、建築美の粋を感じる。
水の五門…大天守の入口にやっとたどり着いた。それにしても水の一門、水の二門 … と水の門と名付けられた門がやたらとある。姫路城平面図を見るとこの辺りは水曲輪らしいが、井戸は北腰曲輪の南側の乾小天守と東小天守を繋ぐ「ロの渡櫓」の中にあるらしい。平面図で見ると台所はすぐ近くにあるようなので、火事の時は別にして、桶に水を汲んで水の一門、水の二門 、水の三門…と運ぶことはなさそうだ。水の門は水の管理とは関係なく天守周りの防御のための門だと言うことのようだ。


いよいよ天守内部の見物…入口で靴を脱ぎ、ビニール袋に入れて天守内を見学する。
姫路城の模型…外堀に囲まれた外曲輪は現在のJR姫路駅の辺りまで広がっていたようだ。中曲輪は松林など緑が多く武家屋敷が並んでいた。内曲輪の面積は甲子園球場のスタンドを含めてた面積の約6倍もあるが、外曲輪内の面積の10分の1ほどのようだ。
城内の展示…長い廊下に修理の時に出た遺物などが展示されているようだ。

昭和の大修理から50年を経て平成の大修理平が行われ、そのスケジュールや工事の概要が詳しく説明されている。
鬼瓦…屋根の大棟や下り棟、隅棟の先端に取り付けられる瓦、もともとは鬼面が取り付けられるが、お城の建築では家紋の瓦が取り付けられるようになったと説明されている。


NO7、9、11と七三桐紋の鬼瓦が3点展示されている。五三の桐紋は秀吉の家紋だが、七三桐紋は?

剣酢漿草紋(けんかたばみもん)の鬼瓦、剣酢漿草紋は酒井家の紋。大天守4重南千鳥東降り棟の鬼瓦と説明されている。

鬼瓦…屋根の大棟や下り棟、隅棟の先端に取り付けられる瓦、もともとは鬼面が取り付けられるが、お城の建築では家紋の瓦が取り付けられるようになったと説明されている。

随分と昔のことだが、田舎では鬼瓦の中でも特に北向きの鬼瓦は怖くて醜い様相に作られることが多くみられ、器量の良くない女の人を北向きの鬼瓦と陰口していた。今だったら大騒動になる。
天守の骨組み模型、

2階、正面の入側(廊下)が伸び、敷居を挟んで内側が身舎(もや)。身舎は南側が大広間、北側に2部屋と1階からの階段がある。廊下の幅は2間半ほどで身舎を囲んでいる。

武者走りの梁は支え柱で補強されている。


壁には鉄砲などの武具を掛ける突起も作られている。
西側の破風の間…少し突出しており、入母屋破風の屋根裏になっている。窓が開け閉め出来るようになっているので、屋根の修理の時にはここから出入りした。
3階に上がる階段。女性は城内の案内員。
姫路城の心柱…「姫路城の基礎知識」によると、姫路城の大天守は地階~2階、3階~4階、5~6階の4つのブロックに分かれていて、それぞれブロックは井桁の上に櫓を組み、積み木のように積み上げたもの。で、横揺れに弱いので地階から6階の床下まで、高さ24.6mの東西2本の大柱を通しているのだそうだ。

東大柱…築城当時から東大柱は樅の一本材であったが、昭和の大修理の時に根本5mを台湾檜で根つなぎされた。

西大柱
(姫路城の入場口に近い売店の道路を挟んだ向かいに旧西大柱を展示している小屋がある。壁のパネルによると、旧西大柱はかって大天守の地階床から6階床までの各階を、東大柱とともに強く貫き通し、木造の大きく複雑な重層構造を2本の大柱が構造主体となり、1本が100tもの重量を支えて350年の長きにわたり大天守を守り続けてきた。しかしその間、両大柱とも明暦2年(1656)(城主榊原忠次)に柱や土台などの腐朽で床面に高低じた。このため大柱の根元を高さ2.4m、柱4面の間仕切の部分をくりぬき、ここに幅36㎝、奥行もほぼ同じ大きさの栂の角材を挿入し、帯鉄巻き鋲釘止で固定するという補強工事が行われた。その後、貞享元年(1684)には先の明暦の修理材の上に補強材を加える工事が行われた。このように築城後350年を大天守と共に歩んできた両大柱の昭和の大修理(昭和31~39)で柱真に腐れのあることが分かり取替を余儀なくされ、新しい柱に後事を託して、ここに創建材の資料として展示している。
西大柱のこと
旧西大柱の下方は桜材、上方は栂材で3階床上(下方から14.5mの位置で2本継ぎになっていたが、全長24.7mにわたり中心部の蒸腐れを起こし再用不能で今回の修理では桧材で取り替えることとなり、東大柱と同様1本に柱にするこになった、ところが原木材を山から搬出途中に折損事故が起こり、修理では元通り3階床上での2本継ぎの柱になった。新しく取り替えられた桧材は下方が岐阜県恵庭郡の国有林から、また、上下は兵庫県神崎郡の笠形方から伐出されたもの。
旧西大柱の寸法
総長 24.7m、上柱の長さ12.4m下柱の長さ14.5m
根元の太さ、横幅95.4㎝奥行75㎝
総重量約6t

東大柱のこと
元の東大柱は樅材で継手無しの通し柱であったが、今回の修理では根元5.4mを台湾桧で根継ぎして再用された。根継ぎのためにため切断された旧東大柱の根元部分(長さ5.4m、太さ横幅95.4㎝奥行75㎝)には貞享年間に行われた修理痕跡がが旧西大柱同様に歴然と残されている。


西小天守の入母屋破風…3角形の真ん中から垂れ下がっているのが蕪懸魚。棟木の先端を隠すための桁隠しだが紋、装飾に凝っている。鬼瓦は剣酢漿草紋、1階の鬼瓦の展示にもあって酒井家の紋である。鬼瓦の上の瓦は鳥ぶすまと言って先端が丸い模様となっているのが多いが、このとりぶすまはガンダム?、2輪の塔?のようにも見えてよくわからない。いずれにしても魔除けとかではなく装飾なのだろうか。


6階…刑部(おさかべ)神社…6階に祀られている。これについては「姫路城の基礎知識」に妖怪、怪談の伝説が紹介されている。姫路城の天守が完成に近づいた頃、城内で人を殺す鬼などが出没する噂が流れたりしていたが、城主の輝政に書状が届いて「輝政と夫人に天狗がとりついて呪をかけようとしている。呪いを解くには城内に八天神を祀れ」というものだった。輝政は刑部神社を城内に祀ったが、病気に罹ってしまう。そこで八天神を刑部神社の隣に立てると、輝政の病状が回復した。ところが、喜びも束の間、輝政は亡くなってしまい、子供たちも次々に若死にしてしまう。これも刑部大神のたたりに違いないということで、その後も天守に夜な夜な怪しい火がともったり、大勢の人が泣きわめく声がすると言う噂が消えなかったという。
秀吉の城時代にも宮本武蔵の妖怪退治の話があって、姫路城には妖怪、怪談など伝説が語り継がれているらしい。

西小天守のの大屋根、大棟の両端に鯱がのっている。

西小天守の鯱
大天守6階から西ノ丸を眺める。
6階から三の丸の人出を眺める。少し目線を上げると、メインストリートが真っ直ぐ伸びており、突き当りのJR姫路駅もはっきり見える。
6階から西方向を眺める。