姫路城見物その3

姫路城西の丸
西の丸…姫路城パンフレットより西の丸部分を再掲。標高45mほどの姫山に天守、その西側に鷺山。鷺山の小高い丘を削って石垣を積み、西の丸を築いているだけに、まるで不沈空母のようである。
西の丸南側の石垣…高さ14、5mはありそうな石垣の上に、右がカの櫓、左にワの櫓が建つ、間を白漆喰塗籠の土塀が繋いでいる。土塀には狭間がずらっと並んでおり、
西の丸も高い石垣と狭間で防御されており難攻不落の感じである。
西の丸に向かう坂道の途中、菱の門越しに大天守を見る。この角度から大天守南側の唐破風、千鳥破風や西面の大入母屋破風が見え、西小天守や乾小天守のほか「ニの櫓」も見渡せる。

二の丸庭園は大天守撮影の絶好のスポット、皆さんカメラを大天守に向けてシャッターを切るのに忙しい。

西の丸庭園から桜越しに大天守を見る。

西の丸の多聞櫓沿いの桜は満開を迎えている。

パネルの説明…この曲輪は本田忠政が大坂夏の陣の後、将軍秀忠の長女千姫をめとった息子の忠刻のために元和元年(1618)に御殿を建てたところで御殿を囲むように築かれた長屋は通称百間廊下と言われ約300mの長さがある。そのうちヨの渡櫓から北の部分が長局と言われて、小さな部屋が廊下に面して並んでいて西の丸の御殿で働く女中が住んでいた。
長局の北に化粧櫓がある。大きく解放された窓や畳敷きなど無骨な部屋に比べると人の居住できる拵えにないる。千姫が男山にある天神社を拝むために西の丸に来た際に身づくろいをしたり、休息した場所と言われている。


忠刻の御殿(中書丸)…「姫路城の基礎知識」の江戸時代の古地図には中書丸も載っている。それによるとヨの渡櫓付近からカの櫓の近くまで4棟の建物があったようだ。政務や来客をもてなしたりするわけではもない部屋住みの忠刻の御殿としては充分過ぎる感じである。その上、三の丸には下屋敷として千姫の武蔵野御殿もある。10万石を持参金として輿して来た千姫、その後ろにいる家康に配慮したのであろう。


看板の説明…レの渡櫓は倉庫と利用されていた。
タの渡櫓はくぐり戸付き扉があり、そこから北は廊下が付く。
ヨの渡櫓・カの渡し櫓には各部屋に納戸、天井が張られるなど人が住むことを想定した造作になっている

左手のワの櫓で、脱いだ靴をビニール袋に入れて見物に出発、短い階段を上がってレの渡櫓に進む。
レの渡櫓…狭い出入口を抜けると20畳ほどの部屋があり、壁側のパネルにはの歴代城主のプロヒールや遺品などが展示されていて、廊下はなく同じような部屋がいくつも続いている。もともとは倉庫として使われていた部屋なので造作は素朴で皆さんあまり興味はなく素通りしているようだ。
短い急な階段を上がって目に飛び込んできたのがピカピカの感じの渡櫓、江戸時代のものではなさそうだ。「姫路城の基礎知識」にもここだけ名前がついていない。後でネットで調べたら「仮設渡櫓」と呼んでいる向きもあるらしい。

仮設渡櫓の格子窓越しに大天守を見る。西の丸からはどこから見ても大天守と乾小天守、西小天守が画面に納まり格好のカメラスポットのようだ。

また、急な階段を上がってタの渡櫓からヨの渡櫓に向けて百間廊下を進む。

「庭園の看板」にはタの渡櫓はくぐり戸付き扉があり、そこから北は廊下が付き、ヨの渡櫓・カの渡櫓には各部屋に納戸、天井が張られるなど人が住むことを想定した造作になっていると説明があった。


パネルの説明…長局(ながつぼね)は長屋を意味し、通常は便所や台所を設けた8畳ほどの部屋が1単位で、それらの部屋が幾つも連続している。長局は奥御殿の一角に設けられ、奥女中が居住したとされる。曲輪が狭い場合は、渡櫓などの内部を御殿の一部として、長局に利用することもあった。姫路城西の丸では、ヨからカの渡櫓にかけて長局になっていた。







千姫の坐像は普段は化粧櫓に置かれているが、千姫衣装の特別展示に化粧櫓を使っているので臨時に長局に引っ越しているようだ。

千 姫 (1597~1666)、とかく世間で悪評が立ったりしていたようだが、
千姫の生涯をたどると以下のようである。
千 姫は秀忠とお江の長女として生まれ、7 才で豊臣秀吉の子の秀頼と結婚する。大阪城は夏の陣で落城、秀頼は自刃、千姫は城を脱出し、江戸へ帰る。途中、伊勢の桑名で本多忠政の嫡男、忠刻と出会った。忠刻の母は家康の嫡男信康と信長の娘徳姫の間にできた熊姫(ゆうひめ)、千 姫とは年の離れたいとこにあたる。熊姫などの働きもあって家康の裁許により千姫と忠刻は元和2年に結婚する。2年後に長女勝姫が、その翌年には嫡男幸千代が相次いで誕生するが、幸千代は3才で死亡してしまう。千姫は男山に天神社を建立、天神木像を城内から遷し、毎日西の丸の百間廊下の窓から男子の出生と本多家の繁栄を祈願したと言われており、 その前後に休憩したのが化粧櫓である。
不幸は重なり二人の結婚後10年の寛永3年(1626)には夫忠刻が病死してしまう。千姫は江戸に帰り、天樹院として竹橋御殿に住み、70 才まで生きる。

(もともと豊臣方には家康に謀略で滅亡させられ、若い秀頼も殺されてしまったという同情がある上に、千姫は理由はともあれ城を抜け出した上に、1年そこらで他の男に嫁いでしまう。幸千代がわずか3歳で死に、夫の忠刻も31才の若さで死んだのは秀頼の祟りに違いないと噂されたりした。こんなことから江戸に帰ってからの竹橋御殿でのあることない事が尾ひれがついて流布されたのかも知れない)
千姫は6枚の羽子板を天神社に奉納した。


千姫の復元着物特別公開
化粧櫓の展示を入口でちらっと覗いて見たら、着物が4点ほど展示されているだけで入場料が300円、トの櫓・搦手門周辺の入場料が200円だったのでちょっと高いのではと受付で独り言をつぶやいて、カメラOKかと尋ねたら、大丈夫ですと返事があった。で、よく見るとカメラNGの表示があった。丁度、見学者もいなかったので目こぼしてくれたようだ。


千姫の復元着物
パネルの説明によると、千姫の菩提寺の茨城県常総市の弘経寺に伝わる「千姫姿絵」に描かれている衣装を復元したとある。

打掛…打掛に施された模様は「辻が花」と呼ばれる絞り染めだそうだ。鮮やかな紅色の鹿の子絞りのほか浅黄、萌黄、紫の3色で染めた美しい三つ葉葵の紋、裾の裾の杜若(かきつばた)も絞りの技法で表現しているらしい。
小袖…亀甲文様の輪郭に金箔を押し藤の葉を描き絵で、花房を絞りで表現している。当時の技法を駆使して鮮やかな色彩を現在に蘇らせているとのこと。
忠刻の小袖…絵姿がないので家紋の立葵でそれらしく見せいるようだ。

忠刻の胴服


石垣
西の丸の見物を終え、警備の人に官兵衛の石垣は何処かと尋ねると、お城を出て売店の傍の道を左に行けば矢印もあるのですぐに行けると教えて貰う。

姫路公園の脇を進み松の木立を抜けるとちょっとした広場になっている。この辺りが下山里曲輪のようだ。で、この石垣が上山里曲輪の下段にあたる。

お城にもよるだろうが、城郭の普請で堀と石垣が完成すれば、7割は出来たことになるとどこかで聞いたことがある。
姫路城の内曲輪は23ヘクタール(甲子園球場のグランド16倍)もあって滅茶苦茶広い上に、内曲輪を構成する上山里曲輪、備前丸、天守、西の丸などの曲輪はすべて石垣で区画されている。石垣の総重量は10万3千トンとも言われ、天守台14.8m、西の丸南14m、備前丸西18m、帯の櫓23.3mなどそびえるような高石垣もあって気の遠くなるような石積み工事であったことが想像させられる。


姫路城の上山里曲輪下段の石垣(石垣の上に上山里曲輪のチの櫓が見える)…上山里曲輪下段の石垣は天正8年(1580)、秀吉の姫路城改築により積まれたたと推定されている姫路城の古式な石垣で、信長の安土城と同時期のもので殆ど加工しない凝灰岩やチャートなどの石材を使用した野面積みと呼ばれる積み方である。


姫路城の石垣の変遷
パネルの説明によると、姫路城の石垣は秀吉の築城から明治以降の修理によるものまで5期に区分される。
Ⅰ期
秀吉以降豊臣時代時代のもの。野面積みで隅角部の算木積みが未発達。墓石           や古墳の石棺などを再利用した転用石が多く見られる。(上山里曲輪下段の石垣の官兵衛の石垣のほかに北腰曲輪でも自然の石をそのまま加工しないで積んでいる。石垣の高さは5mほどであった)
Ⅱ期
関ヶ原合戦の勝利で姫路に入った池田輝政が慶長6年(1601)から築いた隅角部に長方形の石を長短組み合わせた算木積みがみられ「扇の勾配」と呼ばれるカーブを描く。(天守台や周辺の石垣では積み石の接合部を加工し、互いに組み合わせる打ち込み継ぎで、石同士の隙間には小石を間詰めをしている)
上山里曲輪のぬの門を出たところにある備前丸の石垣…隅角部の算木積みが完成していて扇の勾配と呼ばれ、高さ18mもある。
Ⅲ期
元和4年(1618)本田忠政が西の丸を設けるに合わせて築いた石垣(西の丸南面の石垣、池田時代と同様の打ち込み継ぎだが、積み石を大きく加工して隙間をなくす切込み継ぎも見られる)
西ノ丸南面の石垣
Ⅳ期
江戸時代の補強・修理に伴う石垣
備前丸の西に石垣の膨らみ抑えるため、出っ張ったように石を小盛して補強したところがある。現在残っている江戸時代の石垣修理はここだけのようだ。
Ⅴ期
明治以降の修理の石垣

パネルの説明で明治以降の修理の例として、「石垣の転用石-通称姥ケ石」の写真を載せているので姫路城管理部として、この姥ケ石は秀吉時代のものではなく、池田時代のものでもないと認めていることのようだ。
三国堀の北面…石垣の真ん中辺りに綺麗に加工された石が積まれているのが分かる。

西の丸 江戸時代以後に修理された南東の隅角部の石垣、隅角部は算木積みをしても両面から圧力がかかり崩れやすいのかも知れない。

天守台南東の隅角部の石垣…明治以降の修理。
チの櫓下の隅角部…秀吉時代の野面積みの隅角部ではなく明治以降の修理。

高さ23.32m、姫路城で1番高い石垣、明治以降に修理が行われている。


姫路城三の丸


パネルの説明…江戸時代、城の大手は2重枡形門という重要な構造であった。内堀に架かる木製太鼓を渡ると高麗門の桜門があり、その奥、現在の大手門がある場所には桐二門が西向きの設けられ、その北には向きを反転して東を正面とする櫓門の桐一門という3つの門からなっていた。この桐一門を通れば三の丸のほぼ中央に幅21mの大手道が大天守の方向に向かっていた。道の南西には武蔵野御殿、さらにその西の高台には御本城と呼ばれる御殿があった。総面積4000㎡にも及ぶ殿舎は元和3年の入封した本多氏が整備したとされ藩政の中心にをなしていた。道の東側には向こう屋敷があり藩主の娯楽や接待のため数寄屋つくり、築山、泉水など広大な庭園を備えた御殿であった。
明治以降、これらの御殿や櫓、門などは撤去され陸軍の施設が整備された。

パネル絵図の拡大図…画面左手が三の丸本城(居城)。車寄せを備えた玄関を入ると、表に当たる大広間に続いて小書院、新書院があり、料理の間をはさんで奥にあたる御居間、御休息の間が続き、御台所や家臣たちが執務する部屋などがあった。中央の幅21mの大手道を挟んで東側には下屋敷に当たる向屋敷があり、敷地の東半分には中島のある池泉式の庭園も設けられており舟で渡り、御茶屋で茶事を催したりして賓客を接待したり、近習とくつろいだりしていたらしい。。
武蔵野御殿
「現在地」から大手道に進んだすぐ左にある屋敷が千姫と忠刻のために建てられた下屋敷で、千姫のために襖絵にすすきを描いて武蔵野(江戸)の風情を表したことから武蔵野御殿と呼ばれるようになった。また、御殿には大小の間席がたくさんあり、長局などもあったそうだ。


現在の姫路城入口…内堀に架かる桜門橋を渡ると大手門につながっている。この桜門橋は平成19年に復元した木橋。

現在、大手門と呼ばれているこの大型の高麗門は昭和13年に完成したもので江戸時代のものとは全く異なっている。


好古園

姫路城の見物を終え、桜門橋を渡って好古園に向う。内堀に沿って10分ほどだが、疲れた足を引きずりながら歩くのが辛い。

好古園…パンフレットによると好古園は姫路城を借景に造営され平成4年に開園した池泉回遊式の日本庭園で、発掘調査で確認された西御屋敷跡、武家屋敷、通路跡などの地割を活かした9つの趣の異なった9つの庭園群で構成され、約一万坪の広さがあるそうだ。好古園の名はこの庭園の入口付近にあった藩校の好古堂に因んでいるとのこと。


庭園配置図
活水軒(レストラン)から潮音斎に向かう渡り廊下から庭を眺める。      
御屋敷の庭MAP
御屋敷の庭は本多忠政の時代に造営された西御屋敷跡に造られたもので、榊原家の時代には榊原正岑(吉宗の時代)というバカ殿もいて、新吉原から高尾太夫を落籍し、この西御屋敷に住まわせていた。正岑は旗本の次男坊、粋がって放蕩したりしていたが、ひょんなことから姫路城主となったらしい。高尾太夫の見受け金や宴会などで5000両も費消したりなどなどで吉宗の怒りを買い、隠居、蟄居処分を受けて榊原家は越後高田に移封させられた。高尾太夫の落籍など自慢になる話ではない。


深山幽谷を思わせる。



潮音齊…中秋の名月の名月を愛でるに最高の方向に建ててある。観庭台から姫山の原始林を借景にして雄滝と大池の眺めは壮観。



石橋からの大池の眺め…大池の浮かぶ小島の背景は右に潮音齊、左に活水軒、中に渡り廊下。

池の奥からの眺め。

双樹庵…茶室、玄関を入ると取次の間、中次があって待合を経て6畳と8畳のお茶席に炉、床の間などがあるらしい。





流れの平庭…穏やかな水の流れも明るく伸びやかな庭園で、ながれの岸辺には四阿、流翠亭がある。


松の庭…瀬戸内海地方の代表的な風景の赤松林をイメージした庭園。長門屋を設け庭園の品格を高めている。せせらぎの一角には姫路市市花であるサギソウが植わり夏には花が咲き目を楽しませてくれるらしい。


築山池泉の庭…門をくぐると広がる景色と姫路城の眺めが素晴らしい。もみじや黒松が映える典型的な日本庭園で池の北側に亀を南側に鶴をイメージした岩島を配している。池にせり出した茅葺の四阿、臨泉亭が風情を醸し出している。


竹の庭…日本の代表的な植物である竹を植栽した庭園と庭園を囲む漆喰築地塀との対比は山水画を思わせる風景を作り出している。中央には八角の和傘をイメージした四阿、聞竹亭を配している。15種類の竹と笹はQRコードで
詳しい説明を見れる。




姫路城と好古園の見物を終え、姫路の穴子丼を食べて大阪に帰る。何だかいっぱい詰め込んで腹痛を起こしそうだ。