姫路城見物その2

大天守内の見物を終えて備前丸に降りてきた。池田時代にはこの備前丸に城主御殿があった。「姫路城の基礎知識」には江戸時代の備前丸の古地図が載っている。それによると南側の石垣上にぐるっと長局(長屋)をめぐらし、北側の大天守寄りに石垣を積んだ一段高い敷地に御殿が築かれ、東南の別棟に台所が建てられていたようだ。
本田忠政が三の丸を造営してからは備前丸の御殿は不要になり廃却され、明治15年、陸軍の失火により長局なども焼失した。


あらためて、備前丸からまじかに見上げる姫路城は青空を背景に5重の大天守は白漆喰総塗籠(土壁の表面を漆喰を塗って仕上げたものを塗籠と言い、建物全体を塗籠したものを総塗籠と言うそうだ)と云われる白壁が映え、2重は唐破風、3重は比翼千鳥破風、4重は千鳥破風、5重は小ぶりな唐破風などが巧みに配置されいる。また、初重から4重の壁には格子窓が規則良く並べられ、5重目には幅広の窓が取り付けられていてリズム感がある。渡櫓で繋がった西小天守にも唐破風が取付けられていて、備前丸から見る姫路城天守は全体としてどっしりとしていて、しかも品格を感じる。


(大天守の西側からの眺め…備前丸から見た大天守は南側からの眺めであったが、西側から眺めると初重の屋根に比翼千鳥破風が乗っているようであり、2重の屋根から3重屋根を貫く大入母屋破風が見え、4重の屋根は唐破風造りとなっている。姫路城大天守は南側と北側、西と東が同じ造りになっているようだ)


トの櫓・搦手周辺の特別公開
備前丸でしばらく写真を撮ったりして過ごし、特別公開のトの櫓・搦手周辺に向かう。

正面に見える折廻り櫓の折れ曲がった部分の1階が備前門となっている。
備前門は搦手からの備前丸への出入り口となっており、この備前門の先にトの櫓・搦手がある。
特別公開のチラシ…トの櫓・搦手門周辺を枠で囲ってある。搦手は天守の裏手のことだが、姫路城の天守入口は西側にあるので東面が搦手になる。
備前門をくぐって、折廻り櫓の裏手石垣と井郭櫓(井戸櫓)の間の通路を進み、ちの門を抜けてトの櫓・との門の裏手の空間に出る。
トの櫓の説明パネル…「トの櫓」は「との一門」の続き櫓でとの門の2階への入口になっていて、南側と東側に格子窓がついている。
この櫓の下に搦手門が通っていて敵が攻めて来た時には格子窓から射撃することになる。窓の真下に「との二門」があり、射撃し易いように窓の下の床を高くしてあるとのこと。
トの櫓…階段を5、6段上がると狭い入口となっている。

特別公開のトの櫓・搦手周辺のチラシより…トの櫓は小さい格子窓があるだけなので室内は薄暗い。窓側に床を少し高くしてあるのはパネルの説明の通りだが、もともと窓はそんなに高くないので、床張りがなくても直下射撃は出来そうに思われるのだが?
左手の階段が「との一門」の2階への入口となっている。

トの一門の説明パネル…姫路城に残る櫓門で唯一白漆喰の塗られていない櫓門。昭和の大修理で当初は塗られていなかったことが分かったので、元の素木造りに戻した。1階の門部では扉が上半分が格子、下半分は板張りの透かし門となっており門を閉めても中が見える姫路城でただ1つの例だそうだ。
2階の櫓部では正面の武者窓が突き上げ窓になっていて、引戸になっている他の櫓門に比べて古い造りになっているとのこと。
との一門の2階…窓は突き上げ窓になっており、大きな武者窓になっているので室内は明るい。

トの櫓(城内側)…パネルの説明の通り元の素木造りに戻した。なのでちょっと古びた感じである。右の壁はトの櫓。
トの一門…搦手の最後の防御を担うので石垣と土塀に挟まれた頑丈な造りになっている。突き上げ窓を開き、つっかえ棒で支えているのが分かる。

枡形虎口(虎口は城の出入り口のこと)…高麗門の第1の門(トの二門)と櫓門の第2の門(トの一門)を枡形の踊り場して直角に繋ぎ周囲を土塀で固めている。トの二門へは急な階段を降りる。

トの二門を突破して来た敵兵は枡の中に詰め込まれた格好になって、トの櫓やとの一門から一斉に射撃される仕掛けになっている。
なので、枡形門は城門の中で最も発達した複合門と言われている。
トの二門…トの二門は高麗門になっており、内側から見ると控え柱の上に小さな切り妻屋根が架けられていて高麗門の構造が良く分かる。小さな切り妻屋根は扉を開けた時の雨除け。

トの二門…正面から見ると脇戸が付き、左右の鏡柱は鉄板を巻き、丸い金物で飾った堅牢な門となっている。天守の搦手を守る最初の重要な門構となっている。


長壁(刑部)神社跡の説明パネル…長壁(刑部)神社は姫路城の建つ姫山の地主神、神社は城の鬼門に建てられ城を守護すると信じられていた。

大天守6階に刑部神社が祀られている。刑部神社については「姫路城の基礎知識」に池田輝政の築城時に起きたとされる怪奇話が紹介されたいたが、このパネルの説明の方が詳しいようだ。

築城時、悪鬼が夜中に現れて人を殺すととか怪異の噂が広まり、これは城山から城下に移されていた刑部神社の祟りに違いないとうわさされていた。同じ頃、城の艮にて八天塔を建ないと輝政夫妻が呪い殺されると言う書状が発見され、はたして輝政が原因不明の病に侵される。護摩の修法を行い、刑部神社を戻すと共に境内に八天塔を建てると、怪異は鎮り輝政の病状も回復したと言う。


長壁神社遺跡の碑…トの二門を出て急な坂道を少し下ったところに長壁神社遺跡の碑がある。

帯の櫓?…長壁神社遺跡の側の坂道から城側を見る。
道案内のボランティア女性は櫓の名前を知らないようだったが、傍にいた男性がMAPを広げて「帯の櫓」ではないかと教えて貰った。
20m以上もありそうな高石垣の上に築かれた櫓はそれだけで絵になるが、搦手の隅櫓の屋根でも千鳥破風で飾っていて、どこまで贅沢なんだと感じ入る。
トの櫓・搦手門周辺の見物を終え、順路に従って上山里曲輪に向かう。
途中、帯の櫓・切腹丸への道標があるが、どちらも公開されていないようだ。
帯の櫓…先ほど長壁神社遺跡の坂道から見た帯の櫓を城側から見る。
「姫路城の基礎知識」によれば、高さ23.32mの高石垣の上に建つコの字型の建物で、北から東へ当初建てられた櫓部分(4室)とその後南側に増築された数寄屋部分からなっていて、数寄屋部分は床付き、畳敷の主室・次の間と水屋からなり、搦手の防衛のほか遊びや憩い場でもあったとのこと。

太鼓櫓…備前門の脇から通路をだらだらと下った突き当りの建物が太鼓櫓、石垣と櫓の間に上山里曲輪への出入り口「りの門」がある。
この太鼓櫓も公開されていないので内部の様子は分からない。太鼓櫓は通常、藩士の登城などの時刻を知らせる太鼓が置かれた櫓のことを言うので、三の丸とかに置かれ方がよさそうな気がする。この太鼓櫓は江戸時代には「への櫓」と言われていたらしいので、明治になって太鼓が置かれることがあったのかも知れない。
りの門をくぐって上山里曲輪に出る。正面の2重の建物が「チの櫓」、チの櫓に接して長く右に伸びているのが「りの一渡櫓」、続く一段高いのは「りの二渡櫓」

お菊の井戸は画面中央の生垣を少し左に折れたところにある。


お菊の井戸…お菊の物語は播州皿屋敷のほかにも番町皿屋敷など似たような物語は各地にあるようだ。
立て看板によると、永世年間(1500年頃)姫路城の執権青山鉄山は町坪弾四郎と語らい城を奪おうと企てた。城主の忠臣衣笠元信はお菊を青山家に女中として住み込ませ、企てを探らせていた。城主暗殺を察知したお菊は元信に知らせたため城主は屋島に逃げることが出来たが、城は乗っ取られました。
お菊の動きを知った弾四郎は助ける代りにお菊に結婚を強要したが拒まれる。弾四郎は青山家の家宝の10枚揃いの皿の1枚を隠し、その罪をお菊に被せて責めあげる。それでも拒むお菊を弾四郎は切り殺し井戸に投げ込んでしまう。その後、毎夜この井戸から1枚、2枚、3枚…9枚と9枚目まで何度も数えるお菊の声が聞こえてきた言います。
やがて、元信らが鉄山一味を滅ぼし、お菊は「於菊大明神」として十二所神社内に祀られた。

お菊の井戸を見て、りの一渡櫓、りの二渡櫓に向かう。りの二渡櫓は折廻り櫓になっていて「ぬの門」につながっているようだ。りの二渡櫓の大天守鯱の展示…パネルの説明によれば、鯱は大天守の大棟の両端につけられている飾りの一種で城の守り神、姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に上を向き、背中には幾重にも鋭いとげを持っているという想像上の動物を模しているとのこと。
5代目の大天守の鯱…昭和の大修理の際に大天守の東側に上がっていたもの。銘文には明治13年製作と記されている。
6代目の鯱…昭和の大修理の際、大天守2重の屋根に貞享4年の銘のある小型の鯱が発見された。現存する最も古い鯱と考えられたので、これにならい大天守5重の大型の鯱を含め11の鯱が復元された。

7代目の大天守の鯱…平成の大修理の際に大天守の鯱を降ろしてみると昭和の鯱は痛みがひどかったので、昭和の鯱を忠実に再現したものを製作した。

大名行列の衣装・道具の常設展示
文化庁のLiving History 促進事業の一環とて「顕徳院様将軍御名代上京行列図」を参考に制作した衣装や調度品の一部を「チの櫓」と「りの一渡櫓」に展示している。
チの櫓を入った正面に展示されてる馬具。競馬をしないので馬具のことなど全く不案内であるが、虎皮の‎鞍、鞍の下敷、鐙、下帯、鮮やかな鞍紐など殿様の馬具は豪華である。
殿様と小姓…左、殿様の着物は高価なちりめん絞り、紋付羽織には家紋が金糸で刺繍されている。右、小姓使番の羽織には自分の家紋がついている。

大名行列の道具…殿様の行列図は、先払い―弓隊、槍隊、鉄砲隊、本陣、輜
重隊などからなり、供槍、旗竿、弓立、矢箱、対挾箱、長持、茶弁当箱、など、さらに長旅で馬の蹄が減るために草鞋を蹄に履かせることもあったらしく草鞋を入れる沓籠なども用意し、ちょっとした藩の移動のようであったらしい。

参勤交代は1年おきに各藩を江戸と自分の領地を行き来させることで、往来や江戸の滞在費など多額の費用を支出させ諸大名の財政を弱体化させることが目的であったが、江戸時代も落ち着いきて戦で勇名をはせることの無くなった大名のなかには大名行列で家柄の高さ見せつける威信をかけた戦と勘違いした大名もいたらしい。
ぬの門…上山里曲輪を出て振り返ってぬの門を見る。

備前丸の石垣…石垣隅角部が算木積みになっており、頂点付近では反り返りとなっていて美しい。

三国堀から大天守を眺める。