世界のえーとこ見に行こう!!   

ご用とお急ぎのない方は、ごゆっくりどうぞ。

スポット: 教会・神殿 (5ページ / 8ページ)

5日目 エスファハン

ジャーメモスク、スィー・オ・セ橋

イラン旅行5日目 エスファハン市内観光
ジャーメ・モスク(金曜モスク)

エスファハンで一番古いモスク。8世紀半ばに創建されたが、一度焼失し12世紀のセルジューク朝時代に再建。その後も増改築が19世紀まで繰り返されたそうだ。そのためイランのイスラム建築技術とイラン美術のコレクションとも言われている。

ガイドさんによれば、イランの一定の人口以上の町にはジャーメ・モスクがつくられたが、アラブには当初、建築技術がなくジャーメ・モスクの99%はゾロアスターの寺院を転用したものだそうだ。

ジャーメ・モスク 南エイワン メナーレがあるのは南エイワンだけ。中庭には金曜礼拝の絨毯が敷かれている
ジャーメ・モスクとは完璧なモスクのことで、モスクで会議が出来たり、たくさんの人に食事をだしたり、学校が付設されたりするのがジャーメ・モスク。ヨーロッパ人がジャーメ(Jame)をジョーメ(Jomeh、金曜日のこと)と間違ったことからジャーメ・モスクが金曜モスクと言われるようになったが、ここで金曜日だけ礼拝をするわけではないとのこと。多くの解説書で言われていることとは少し違うようだ。

入口のところにチェーンがぶら下がっていて、罪を犯した人がこのチェーンを掴んでいる間は捕らえることができなかった、聖なるお祈りの場を汚してはいけなかったとガイドさん。

列柱回廊

ジャーメ・モスク 列柱回廊

ジャーメ・モスク 列柱回廊 柱が傾いている
入口から左手に少し進むと、列柱回廊になり、林立する柱が400以上も連なる小さなドームを支えているそうだ。ゴルドバのメスキータとはとは違う感じで、柱が斜めに傾いてなっているもの、曲がっている柱もあり、ごつごつとして重厚な柱の林である。

イラク戦争の時、爆弾で破壊されたところがあり、修復されているが一見それと判り、戦争が人類の貴重な遺産にも取り返すことの出来ない傷を残すことが分かる。

南礼拝堂ドーム

列柱回廊を抜けると礼拝堂に入る。
ジャーメ・モスク 南礼拝堂ドームの壁と天井

ジャーメ・モスク 南礼拝堂ドームの天井

南礼拝堂で、ハーゼ・ニザム・アル・ムルクドームと呼ばれている。セルジュークの3代目スルタン、マリク・シャーを補佐したペルシャ人の名宰相が建てたので彼の名前が付けられている。

ジャーメ・モスクのなかでは一番大きいドームだが、1090年頃の建築なのでレンガの凹凸で模様が作られているようだ。

壁に作られたへこみはメッカの方角を示すメヘラブである。このドームは華麗さはないが、どっしりと重厚な感じである。

エイワン

ジャーメ・モスク 南エイワン
ジャーメ・モスクには60m四方くらいの中庭があり、中庭に面して東西南北にエイワンという半ドームの門がある。こうした中庭の周りに建物をつくるのはペルシャの建築様式がモスク建築にも取り入れられたようだ。

ジャーメ・モスク 南エイワン 鍾乳石飾り
半ドームの湾曲した奥に礼拝堂への入口があるのでエイワンは半外部空間である。エイワンの上部は鍾乳石模様(スタラクタイト)で装飾されている。4つのエイワンには名前が付けられており、南はサーヘブ(主)、東、シャーゲルド(弟子)、西、オスタード(師)、そして北はダルヴィッシュ(托鉢僧)と呼ばれている。

南礼拝堂のエイワンは12世紀、2本のメナーレ(メナーレが付いているのは南だけ)は15世紀につくられたと言われ、メナーレの装飾は17世紀まで続けられたと言う。

ガイドさんによれば、エイワンについて日本のガイドブックにはエイヴァーンと説明したり、イーワーンと言う解説書もあるが、ペルシャ語からすればエイワンなのだそうだ。

西礼拝堂
メヘラブ

ジャーメ・モスク 南礼拝堂 メヘラブ

ジャーメ・モスク 西礼拝堂 メヘラブ

西エイワンの北側の小さい部屋に入ると、煉瓦色のメヘラブが目にはいる。近づいてみるとレリーフは煉瓦で浮き彫りして化粧漆喰で装飾されているが、アラベスク模様の中に、さらにアラビヤ文字が浮き彫りされているなんとも精緻な芸術品である。

ジャーメ・モスク 西礼拝堂 メヘラブ上部の漆喰装飾の拡大画像,アラベスク模様の中にアラビヤ文字の浮き彫りがある。細密の極致のような芸術品

モンゴルの6代ハーン オルジェイトのイラン人宰相、ムハンマド・サヴィによって14世紀の初めにこのメヘラブは作られたと言われているが、この時代の芸術性の高さに驚かされる。

シャベスタン

ガイドさんの後について、次に入った部屋は電気が消されて暗い部屋、ガイドさんによれば、夏のシャベスタンとか冬のシャベスタンと呼ばれるイランの各地にある礼拝室で、地下などで暑いところでは涼しく寒い時には暖いところで礼拝をするように工夫されているそうだ。

大理石の格子窓から明かりを採り入れるようになっているとのこと。電気が点くと、皆があっという声をあげ、太い柱が林立する礼拝室が現れる。柱は上部が広がった形をしておりテントの形を思わせる、ティムール朝の遊牧の民は故郷サマルカンドの風景を作ったのだろうか。

ジャーメ・モスク 西礼拝堂半地下のシャベスタン。 メッカは前方だが礼拝の仕方が分かるように横向きになって祈るガイドさん

折角だからと言ってガイドさんが礼拝の仕方を実演してくれる、分かり安く横向きで見せて貰うが、勿論、実際はメッカの方角を向いて行う。

スィー・オ・セ橋(33橋)

今日の最後の観光はスィー・オ・セ橋。
スィー・オ・セ橋  ホーム アーチが33あるのでスィー・オ・セ橋(33橋)と呼ばれる
橋のアーチが33あることから、スィー・オ・セ橋(ペルシャ語で33はスィー・
オ・セ)と呼ばれている。

スィー・オ・セ橋 スィー・オ・セ橋は歩行者専用
川幅の一番広いところに架けられているので長さは約300mある。アッパーズ1世時代、1603年に完成した。

橋のたもとにあるチャイ・ハネでティータイム、水タバコを楽しんだ女性陣もいたようだ。チャイ・ハネは新橋のガード下のような感じで騒然としていて、イラン人もおしゃべりが好きな人種のようだ。

ザーヤンデ川 緑濃いザーヤンデ河畔
チャイ・ハネの後、川岸の公園でしばらく時間を潰していると、辺りが薄暗くなってきて手をつなぐカップルもいるようだ。

スィー・オ・セ橋 スィー・オ・セ橋のサンセット。エスファハン の人々が楽しんでいる
ザーヤンデ川に夕日が沈むサンセットを見たあと、すぐ近くのホテルに歩いて帰る。

5日目 エスファハン

ハージュ橋、ヴァンク教会、チェヘル・ソトゥーン宮殿

イラン旅行5日目 エスファハン市内観光

バスはエスファハンの市街地に戻り、さらに川沿いを走る。
車窓に見るエスファハンはこれまで見てきたシラーズやヤズドとは趣が少し違い、緑が濃く、自分が今、中東にいることを忘れさせるような街である。
エスファハンに緑をもたらしているのは‘命を生み出す川’を意味するザーヤンデ川で、万年雪をいただく4000m級のザーグロス山脈が源流、雪解けの5月ころが1番水量が豊富で流れが速いと言う。
エスファハンを東西に流れるザーヤンデ川には10本の橋が架けられており、そのうちのいくつかは歩行者用となっている。

ハージュ橋

ガイドさんによれば、スィー・オ・セ橋(33橋)とハージュ橋が有名だが、エスファハンの人はハージュ橋が好きで、待ち合わせには‘ハージュ橋で’というのが流行っていたそうだ。
ハージュ橋 歩行者専用、ササン朝時代はテラスで王達が宴をもうけ涼をとった
この橋は17世紀の半ば、アッバース2世の時代に完成したもので、長さ133m、幅12m、上下2層の構造になっていて、下層部には川の水量を調節する水門がある。
ハージュ橋 上下どちらも歩いて渡ることができる。下は水門になっていて水量調節の役割もあった
どちらも歩いて渡れるので、ガイドさんの後について、上部を通って向こう岸に渡り、下層部を歩いて帰っていると、水門には日差しをさけながら楽器の演奏を楽しんでいる人達がいる。かっては、人々がここに集まり、喉自慢の人がイランの古い唄を朗々と唄っていたとガイドさん。

ハージュ橋 橋のたもとのライオン像、跨ると即座に結婚できるという
橋のたもとにはライオン像があり、跨ると即座に結婚できるという言い伝えがあると言われて何人かが跨ったようだ。

ヴァンク教会

次にバスがとまったのがヴァンク教会、正教の教会である。
エスファハンにいくつかある教会のなかでアルメニア人が1番大切にしている教会がヴァンク教会だそうだが、現在では日曜礼拝は行われず一般に開放されている。

ガイドさんの説明では、アッパーズ1世がエスファハンに都を移した時、各地から人材を集めたが、アルメニア人は商売上手なうえに、ヨーロッパに近くて英語が話せるので、ヨーロッパ人との交渉に使えると考えて、アゼルバイジャンの近くのジョルファからたくさん連れてきたそうだ。ザーヤンデ川の南側に居住地を造り、名前もジョルファにしたとのこと。

当時、サファヴィー朝はオスマン帝国と争いが続いており、アッパーズ1世は国境地帯を無人の荒野にしておく方針があったとか、豊かなアルメニア人がオスマン帝国の支配下に入るのを恐れて強制的に移住させたとかいろいろ説があるようだ。

現在のイランの人種構成はペルシャ人が51%、アルメニア人が34%、そのほかクルド人などが、それぞれ6~7%で、アルメニア人の多くはアゼルバイジャン州とこのエスファハンに住んでいるそうだ。

ヴァンク教会 ドーム屋根のあるキリスト教の教会、よく見ると天辺に小さい十字架が立っている

建物はモスクのドームの形をしていてこれがキリスト教なのという感じだが、ドームのてっぺんに小さな十字架が立っている。内部のタイルワークもアラベスク模様で、キリスト教徒がムスリムを刺激するのを避けたという。

壁画はエスファハンのなかで1番きれいに残っているものだそうで、正面の大壁画には上部に天国、下に地獄、真ん中には人々が天国に行くか地獄に行くのか心配している様子が描かれている。そのほか、キリストの生涯などが壁一面に描かれているが、アルメニア聖人の殉教の壁画が心に残る。

教会には博物館が付設されていて、オスマントルコによる150万人とも言われる虐殺が本やビデオなどの資料で展示されている。
部屋の中央辺りに顕微鏡が置かれていて順番に覗いてみると、髪の毛に字が書かれている。祈り言葉が書かれているのだそうだ。
また、0.7g、世界で1番小さい聖書は14ページ、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、オランダ語、スエーデン語で書かれているとのこと、これは拡大鏡で見る。
部屋の左奥の壁にレンブラントのアブラハムの絵が飾られていて、アルメニア人の財力を窺わせる。

この教会は撮影禁止のうえに、絵葉書も置いてないので教会の内部の様子を画像にすることが残念ながら出来ない。

シャーレスタン橋

次の観光予定のチェヘル・ソトゥーン宮殿に着くと、2時半まで休みとかで、シャーレスタン橋の見物に向かう。

ガイドさんの話、‘シャフレスターンとは町、社会という意味で、サファヴィー朝時代の社会は一番上に王とその家族、その次が軍人・宗教と続いて、商人、さらに農業などの階級に分かれていました、階級が固定された厳しい社会で、同じ階級に生まれて同じ階級で死ぬしかありませんでした’

シャフレスターン橋  ホーム エスファハンで1番古い橋、水路が変わり現在は池の上にかかっている
この橋はエスファハンで最も古い橋で、長さが100mほど、川が少し東に移されたので今は池になった水面の上にかかっている。

チェヘル・ソトゥーン宮殿

チェヘル・ソトゥーン宮殿 宮殿の池越えに門を望む
ガイドさんによればアッパーズ2世が住んでいた宮殿で、17世紀半ばの建てられたもの、小さい部屋が周りを囲むパビリオンのような造りになっていた。
門を入ると長さ100mほどの池の向こうに宮殿がみえる。王達は宮殿の前に出て、池を挟んで楽器の演奏を聞いて楽しんだという。

チェヘル・ソトゥーン宮殿 池の4隅に立つ裸婦像、ライオンの頭を支えている。家の中では裸婦も自由だったらしい
池の4角に裸体の女性がライオンの頭像を抱いた彫刻がある、女性の裸体はイスラムでは厳しく禁じられたものだが家の中に入れば自由であったらしい。ライオンの口には銅の噴水栓があり、池に水を注ぐ仕掛けになっている。

チェヘル・ソトゥーン宮殿 チェヘル・ソトゥーンは40本の柱の意味、四十柱は池に映る柱と合わせると40本になる。柱はすずかけの木。
宮殿の柱はすずかけの木で、天井は寄木造りとなっている、屋根の形は日本の寺院の建築に似ているとガイドさん。チェヘル・ソトゥーンとは40本の柱という意味で、ペルシャでは40は数が多いことを象徴する数字であったことから40本の柱の宮殿と言われたようだが、実際には20本なのだが池に映る影と合わせて40柱に見えるところからきていると言う人もいるとのこと。柱や壁はかっては鏡と色ガラスで装飾されていたと言う。

チェヘル・ソトゥーン宮殿  ホーム 大きなフレスコ画、テヘラバードでのイスマイールとトルコの戦い、銃器を装備したトルコ軍に惨敗。イスマイール生涯に一度の敗戦
部屋に入ると宴会の場面と戦闘の様子を描いた大フレスコ画がそれぞれ3枚、飾られている。
チェヘル・ソトゥーン宮殿 アッパーズ1世のチャルドランでのオスマントルコとの戦い

チェヘル・ソトゥーン宮殿 ナーデルのインド遠征

チェヘル・ソトゥーン宮殿 アッパーズ2世の宴

イスマイールのオスマントルコとのチャールデラーンでの戦争の場面、ナーデルのムガールとの戦い、アッパーズ2世のトルキスタン王のレセプション、ペルシャに助けを求めてきたインド・ムガル帝国のフマユーン王の宴会など。

アッパーズ2世の宴会で弾かれている楽器はバルバット、ウードに変わりシルクロード、中国を経て 少し形が変わって、日本に入って琵琶になったと言う。

7日目 アテネ

パルテノン神殿

ギリシャ旅行7日目その1 アテネ市内観光

今日はギリシャ観光の最終日、アテネ18時5分発のカタール航空で帰国することになっている。スケジュールは午前中、オリンピック競技場を下車観光、ゼウス神殿、大統領官邸やシンタグマ広場を車窓にみて、アクロポリスの丘に上りパルテノン神殿をみることになっている。その後、土産物屋に寄り、また市内を少し巡って12時に解散、15時30分にシンタグマ広場のプラザホテルのロビーに集合の予定である。

ホテル出発は9時。ホテルに近いオモニア広場に出て、スタディウ通りを5~6分も走れば、アテネの中心シンタグマ(憲法)広場である。
広場に面したプラザホテルを確認して、さらに南に5~6分走ると左手にアドリアヌス門、続いてゼウス神殿が見えてくる。ゼウス神殿は車窓観光だけで、バスはパナティナイコ・スタジアムの前で停まる。

パナティナイコとは発音し難いが、ペルポネソス半島や、挨拶言葉で‘ありがとう’が‘エフファリストウ’などギリシャ語は何とも発音にし難い言葉が一杯である。
英語で‘ギリシャ語のような’と言えば‘ちんぷんかんぷん’の意味だということがよく分かる。

パナティナイコ・スタジアム

パナティナイコ・スタジアムは第1回の近代オリンピックが1896年に開かれ、2004年のオリンピックではマラソンの野口みずきさんが優勝のテープを切ったあの縦長の競技場である。

野口さんが走った青い線

正面入口に繋がる道路には野口さんが、その上を走った青い線が今でもはっきりと残っている。

5万人を収容する大理石の座席は圧巻だが、入口から眺めるだけで中には入らない。

競技場の後は大統領官邸の見物の予定となっていたが、ジャカランダ通りを抜けた辺りで交通規制に遭い大統領官邸には近づけない。なんでもオーストラリアの要人が来ているそうで官邸の見物は中止、パルテノン神殿の観光に向かう。

ジャカランダ通り


ジャカランダ


パルテノン神殿…アテネ市内のどこからでも眺められる

アクロポリス


イロド・アティスコ音楽堂

駐車場でバスを降り、イロド・アティスコ音楽堂の写真を撮った後、参道を上りアテナ・ニケ神殿の前でガイドさんの説明がある。


アテナ・ニケ神殿
現在は修理中で足場が組んであるが、この神殿はイオニア式の柱を東西に4本ずつ持つ美しい小さな神殿で、紀元前424年に建てられ、‘翼なき勝利の女神’の神殿と呼ばれていた。戦いで勝利を願ったアテネ市民は勝利の女神がどこへもいけないように翼を切り落としてこの神殿に祀ったと伝えられているとのこと。

さらに階段を上って、プロピュライアと呼ばれる聖域入口の正門を通る。今は屋根が落ちて柱列と壁面だけしか残っていないが、中央の建物の柱はドリア式で左右のものはイオニア式らしい。
正門を通り抜けると正面にパルテノン神殿、左手手前にエレクティオンが見える。


レクティオン

レクティオンはポセイドンとアテナを祀った神殿で、カリアティディスと呼ばれる5人の少女の彫像が柱となっている。このカリアティディス像はコピーで、オリジナルの1体は大英博物館、残りはアクロポリス博物館が所蔵展示しているとのこと。

パルテノン神殿

さて、パルテノン神殿、市内のいたる所から眺めることが出来るアテネの守護神アテナを祀った神殿である。神殿は大理石造りで、横31m、縦70m、柱の高さ10m、建物の周囲約160mに46本のドリス式の柱が立っている。

ガイドさんよればパルテノン神殿は直線的にみえるが、柱は等間隔ではなく端の方が少し狭く、全部の柱が7度の傾斜で内側に傾いているとのこと。床面も中央部が少し盛り上がっているので梁もカーブしていて、パルテノン神殿にかぎり水平な面と垂直な線はないのだそうだ。石造りの建物を遠くからみると、軽々として、優雅に見せるつくりなのだそうだ。

神殿の破風やメトーフを飾っていたレリーフは、残念ながら大英博物館にあり、返して欲しいと新聞種になっているが、無理な話のようだ。
大英博物館のパルテノン神殿室で音声ガイドを聞きながら神殿を飾っていたアテナとポセイドンの争いの場面のレリーフなどを見て驚いた記憶があるが、あの芸術性の高いレリーフは目の前の神殿を飾っていたものだと思うと感慨がある。

このあとガイドさんが神殿写真のベストスポットは神殿の東南ですと宣言してフリータイム。ベストスポット、ベストスポットと呟きながら神殿の東南に行ってみると工事用の鉄骨が横に伸びていて写真の構図にならない、このガイドさんは細かいところまでは見ていないらしい。神殿の南西辺りが工事小屋や道具を避けるベタースポットのようだ。

ここでネコと遊んでいる東京から参加の美人ペアーの写真を撮らせて貰う。


カヴィトスの丘


ヘファトス神殿
神殿の北東にリカヴィトスの丘、西に古代アゴラやヘファトス神殿を見てアクロポリスの観光は終わり。

市内に降りて、土産物屋タイムのあとシュリーマンの家やアテネ大学、国立図書館などパネピスティミウ通り(これも発音出来ない)を車窓観光し、オモニア広場を通って、国立考古学博物館の近くで、ガイドさんが博物館見学の方はどうぞと言って降ろして貰う。博物館の見学は2組プラス1人。

5日目 オリンピア

古代オリンピック起源、オリンピア遺跡

ギリシャ旅行5日目 オリンピア遺跡観光
オリンピアの観光は遺跡だけで、博物館は予定されていないが、セットのチケットにすれば博物館は半額の€3になります、オリンピア博物館もお勧めですと添乗員に言われて、全員が博物館の見学もすることになっている。

今日も古代オリンピックについての添乗員のお話から、「記録に残っている最初のオリンピック競技は紀元前776年に始まり、キリスト教が国教となり、異教禁止令で宗教行事が禁止される紀元393年まで293回、1169年間続いたとされています。開催は4年ごとが原則でした。

現在のオリンピックと違うところは、競技はゼウス神に捧げられた奉納試合で宗教行事でした。オリンピックはかならずオリンピアで行われ、ギリシャ人のためのギリシャ民族の祭典なので奴隷や外国人(殖民地はギリシャです)は参加できませんでした。また、男子のみの祭典で女性の参加は認められていません、戦車競争などの危険な競技以外は裸で競技したようです。

競技は最初のあいだは短距離競争だけで、スタディオン(192メートル)を走る1日だけのもでしたが次第に種目が増え、長距離走、五種競技、円盤投げ、槍投げ、ボクシング、格闘技、戦車競争などが行われました。それでも現在のオリンピックに比べると種目は少ないと言えます。会期は5日間でした。

優勝者はオリーブの冠を授かりました賞金はなかったと言われています。表彰は優勝者のみで2位以下は記録がないそうです。優勝者は出身のポリスに凱旋すると大変な歓迎を受け、栄誉と共に褒章賞金が与えられました」(もう少し詳しい話は→オリンピックの歴史

オリンピア遺跡


入口のころで、B5版の遺跡の地図にしたがって、大まかな配置の説明を受けた後、ぞろぞろと遺跡を見て回ることになる。
オリンピアのガイドさんは60才くらいの男性で英語のガイド。添乗員が足らないところは適当に補足しながら通訳しているようだ。


ギムナシオン


パレストラ
デルフィーに比べるとオリンピアは総合競技場といった感じで、規模もはるかにでっかい。
入ってすぐ右手にギムナシオン、ここが競技場かと思ったら練習場なのだそうだ。ギムナシオンに続いてパレストラ。復元図を見ると広大な屋根つきの建物だったようだ、列柱廊が残っていて当時が偲ばれる、闘技場であった。パレストラの奥にはフィディアスの仕事場や宿泊施設の跡など。

ゼウス神殿


ゼウス神殿跡
左側に回って、一段高い所にあるのがゼウス神殿。今は廃墟となっているが、紀元前470年に建てられて聖域の中心にあった。アテネのパルテノン神殿に匹敵する壮大な神殿で、長さ64m,幅27m、ドリア式の柱は10mの高さがあったという。

地震で柱が倒れたそままになっているところがり、ドリス式の柱は1本の大理石ではなく1mくらいのドラム(円柱)を重ねたものであることが分かる、ドラムの真ん中には穴が作られ、しっかりと固定するように工夫されている。


ゼウス像想像図
神殿には古代世界の七不思議と言われたゼウス像が置かれていたと伝えられている。高さ12m あまりの巨大なゼウス像は表面を象牙で覆い、左手には鷲がとまった錫杖を持ち、座席は金や宝石で装飾されていたと言われている。コンスタンティノープルに運ばれた後、消失したという。

ヘラ神殿

ゼウス神殿の後、ニケの像の台座、反響廊など見ながらヘラ神殿に戻る。


ヘラ神殿
ヘラ神殿はゼウス神殿より早く、紀元前7世紀のものと言われドリア式の柱が3本残っている。この神殿からは、赤子のディオニソスを抱くヘルメス像が見つかっていて、オリンピア博物館が所蔵する最高傑作なのだそうだ。

現代のオリンピックも、聖火はこのヘラの神殿の前で美しいギリシャの女性によって点火され聖火ランナーに引き継がれ世界を回ることになる。

スタディアム


競技場である。スタディアムは紀元前4世紀ごろに造られたもので、入場門を潜ると、幅30m、長さ192mのトラックが目の前に現れる。観覧席はクロノスの丘の斜面と反対側の南斜面に造られ、2万人収容出来たという。南斜面の真ん中あたりに平たくなっているところは、当時の貴賓席の跡らしい。スタートラインは今でもはっきり残っている。

スタディアムを見た後、フリータイム。
入場門からヘラ神殿につながる右手の一段高いところには、各ポリスが優勝記念に競って奉納した宝庫の跡が並び、下段の通路には1m角ほどの土台が並んでいる。

ガイドさんによれば、ここには競技で不正を働いた者の名前を刻んだ石碑が並んでいたとのこと。
祖国での優勝者への褒章が過剰になり、褒章欲しさに不正を働くもの、審判を買収するものが出ていたらしい。


トロス跡
常に冷たい水が飲めるように工夫されていたという半円形の給水施設跡、ペロピオンと呼ばれるペロプスの墓の上に建てられた5角形の建物跡、マケドニアのフィリッポス2世が奉納し、アレキサンダー大王が完成させたと言われるトロス跡などを見て回る。

8日目 マチュピチュ

太陽の神殿、中央神殿、インティワナ、コンドルの神殿

メキシコ、アルゼンチン、ペルー旅行8日目 ペルー観光

今日のモーニングコールは4時30。毎晩あまり眠れないし、クスコでは湯船に浸ることは禁止、疲れが溜まっている。

わがバック・パッカー号は6時15分に出発、出発して直ぐに坂を登り始め、日干し煉瓦の壁が崩れかけたような民家を眺めていると、列車はスイッチバックを4回繰り返す。
3時間15分と言う長丁場なので、直木賞、受賞作の読み残しを読み始める、今回のミステリーは読み応えがあって面白い。

1時間ほど走ったと思うと、切り立った山が間近に迫り、遠くには白いアンデスの山々が見えてくる。


ウルバンバ川は丁度、アンデスの雪解けのシーズン、濁流が岩に弾けて飛び散る様子は壮観である。景色を眺めたり、ページをめくったりしているうちに、10時10分、マチュピチュの麓の駅に着く。

マチュピチュ


マチュピチュ略図

順番を待ってバスに乗り、ヘヤピンカーブを10回以上も廻って、20分ほどで料金所に到着。入り口を抜けて10分ほど坂道を登ると突然右手に全て石造りのマチュピチュ遺跡が姿を現す。

標高約2400m、断崖と尖った山々に囲まれ麓からはその姿を確認することが出来ず、謎の空中都市といわれるマチュピチュの全体像だ。

もう少し進んだ見晴らしのよい広場でガイドさんの説明が始まる、

ハイ、ここがマチュピチュです。皆さんがテレビや写真でよく知っていると思いますが、現実のマチュピチュです。遺跡のうしろにあるきれいな山がワイナピチュという山です、若い峰という意味です。反対側の山が実はマチュピチュ山で老いた峰という意味です、よく見ると斜めに道が走っていますが、これがインカ道です。

インカ道はインカ帝国中に張り巡らされ、物資をクスコに運ぶ重要な役割をはたしていました。インカ道を歩いてマチュピチュに来る観光コースもあります。

マチュピチュを発見した人はハイラム・ビンガムという歴史学者で1911年のことです。実は、麓の村の人はこの遺跡のことは知っていましが、ミイラなどを動かすと祟りがあるといって遺跡に手を着けませんでした。

ビンガムさんは急激な崖を命がけで登ってマチュピチュを発見しましが、実は、ビンガムさんの目的はインカの黄金が隠されたというビルカバンバ遺跡を探していたのです。ここで発見されたのは金の腕輪が1個だけでした。かわりにミイラが173体見つかりました。

いま立っているところは段々畑の一部で、トモロコシが栽培されていました。収穫されたトモロコシの90%はチチャというお酒にしていました。

遺跡は道をはさんで右側の1段低いところが住居地区で貴族や技術者などの家がありました、左が神殿やインカ皇帝の宿舎や神官の館など聖域です。

なんのためにマチュピチュが造られたのかいろんな説がありますが、インカが支配地とすることが出来なかったのがジャングルの地方です。ウルバンバ川がマチュピチュをぐるっと回ってアマゾン川に合流するように、ここはジャングルの入口にあたります。ジャングル地方攻略の前線基地としてこのマチュピチュが造られました。30分ほどフリータイムにして、その後遺跡の方に行きます。


マチュピチュ(ワイナピチュ、若い峰と言う意味)


反対側の山、こちらがマチュピチュ(老いた峰と言う意味)


マチュピチュを囲む深い峰々

少し上って写真を撮って戻ってくると、10人ほどの日本人ツアーのガイドが説明している、何とも丁寧な説明なのでわがツアーの何人かも腰をおろして耳をかたむけている。

マチュピチュ発見の話では、写真を見せて‘ビンガムさんはこんな人です’、‘ビンガムさんは地元の人に案内されてマチュピチュに登ったので、マチュピチュの発見者と言うよりマチュピチュを世界に紹介した人と言ったほうが正しい’とか。

何のためにマチュピチュが造られたのかと言う話では、‘軍事施設、農業試験場、宗教施設、インカ皇帝の離宮などの説をそれぞれ丁寧に説明した後、遺跡のうしろのワイナピチュがないとしたらこのマチュピチュは想像できません、自然の万物を神と崇めるインカにとっても聖なる山です。すこしでも神に近い山の頂にという祈りがマチュピチュを造ったと言えます。昨日、クスコの太陽神殿でセケの話をしましたが、宗教的施設であったと言う説明も理解できるでしょう’と。

わがツアーのガイドさんが強引な説明をしたのに比べるといかにも丁寧だ。

発見された173体については、わがガイドさんはミイラであると言っていたが、このガイドさんは人骨と説明している。エジプト旅行の際に、ミイラの作り方について勉強したが、年間2000mm近くの降雨がある亜熱帯のこの地で腐食を防ぐどんな知識を持っていたのだろう、ほとんどは人骨となっていたのではないだろうか。

後で、このガイドさんに聞いたら、ツアーは沖縄の議員さんなのだそうだ。丁度、記念式典があって知事さんもペルーにきているとのこと。

太陽の神殿


太陽の神殿
遺跡への入口を潜り、小ぶりな住居を見ながら進み、太陽の神殿の上側に着く。中に入ることが禁じられているとかで、上から乗り出して順番にシャッターを押す。太陽の神殿は6月21日になると窓から日が差し込んで冬至であることを知ることができたと言われている。神殿は大きな岩を利用した半円形の石積みとなっており、その曲線はコリカンチャの外壁を思わせる。


そばの階段をおりると、神殿の下には陵墓とされる空間がある。ミイラが安置されていたとか。
マチュピチュ山から水路で引かれた遺跡の水汲み場をみて、聖域の方に移動す
る。

3つ窓の神殿はインカ発祥の伝説と関係があるとか。


中央神殿
は3方を壁に囲まれた神殿であるが石積みが壊れかけている、何に捧げられた神殿なのか聞き漏らしてしまった。


神殿のうしろの階段を登っていくと、頂上には岩を削って作られた造られたインティワナ(太陽をつなぐものという意味)という日時計がある。岩の上に36cmの角柱が突き出ていて、それぞれの角が東西南北に向いている。太陽のための儀式が行われた神聖な場所であったとのこと。この岩からはエネルギーが出ているというので、手をかざしてエネルギーをもらう人がいるが、もちろんそんな真似はしない。


谷底を覗くとウルバンバ川が見える。この絶壁をビンガムさんは登った


3つの入口の家


コンドルの神殿


神殿前のコンドルの彫刻

マチュピチュ遺跡の最後の観光はコンドルの神殿、コンドルはインカの神聖な鳥とされ、左右の斜めの巨石をコンドルが羽根をひろげた姿に見立てて、前方にコンドルの頭を刻んだ石が置かれている。巨石の下部が洞穴となっていて牢獄として使われていたらしい。皆さんの後について洞穴を潜ってみる。


城壁が遺跡を囲んでいるようだ。


見張り小屋


急斜面を耕作に使うにはこうするしかない

帰りの列車の中で、添乗員に席を替わって貰い、ガイドさんとインカについて話してみたが、「インカとエジプト」を拾い読みした知識と似たり寄ったりで、1時間ほどの時間のうち半分は雑談で終わった。


クスコの夜景

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