バスはエスファハンの市街地に戻り、さらに川沿いを走る。
車窓に見るエスファハンはこれまで見てきたシラーズやヤズドとは趣が少し違い、緑が濃く、自分が今、中東にいることを忘れさせるような街である。
エスファハンに緑をもたらしているのは‘命を生み出す川’を意味するザーヤンデ川で、万年雪をいただく4000m級のザーグロス山脈が源流、雪解けの5月ころが1番水量が豊富で流れが速いと言う。
エスファハンを東西に流れるザーヤンデ川には10本の橋が架けられており、そのうちのいくつかは歩行者用となっている。

ハージュ橋

ガイドさんによれば、スィー・オ・セ橋(33橋)とハージュ橋が有名だが、エスファハンの人はハージュ橋が好きで、待ち合わせには‘ハージュ橋で’というのが流行っていたそうだ。
この橋は17世紀の半ば、アッバース2世の時代に完成したもので、長さ133m、幅12m、上下2層の構造になっていて、下層部には川の水量を調節する水門がある。どちらも歩いて渡れるので、ガイドさんの後について、上部を通って向こう岸に渡り、下層部を歩いて帰っていると、水門には日差しをさけながら楽器の演奏を楽しんでいる人達がいる。かっては、人々がここに集まり、喉自慢の人がイランの古い唄を朗々と唄っていたとガイドさん。
橋のたもとにはライオン像があり、跨ると即座に結婚できるという言い伝えがあると言われて何人かが跨ったようだ。

ヴァンク教会

次にバスがとまったのがヴァンク教会、正教の教会である。
エスファハンにいくつかある教会のなかでアルメニア人が1番大切にしている教会がヴァンク教会だそうだが、現在では日曜礼拝は行われず一般に開放されている。

ガイドさんの説明では、アッパーズ1世がエスファハンに都を移した時、各地から人材を集めたが、アルメニア人は商売上手なうえに、ヨーロッパに近くて英語が話せるので、ヨーロッパ人との交渉に使えると考えて、アゼルバイジャンの近くのジョルファからたくさん連れてきたそうだ。ザーヤンデ川の南側に居住地を造り、名前もジョルファにしたとのこと。

当時、サファヴィー朝はオスマン帝国と争いが続いており、アッパーズ1世は国境地帯を無人の荒野にしておく方針があったとか、豊かなアルメニア人がオスマン帝国の支配下に入るのを恐れて強制的に移住させたとかいろいろ説があるようだ。

現在のイランの人種構成はペルシャ人が51%、アルメニア人が34%、そのほかクルド人などが、それぞれ6~7%で、アルメニア人の多くはアゼルバイジャン州とこのエスファハンに住んでいるそうだ。

建物はモスクのドームの形をしていてこれがキリスト教なのという感じだが、ドームのてっぺんに小さな十字架が立っている。内部のタイルワークもアラベスク模様で、キリスト教徒がムスリムを刺激するのを避けたという。

壁画はエスファハンのなかで1番きれいに残っているものだそうで、正面の大壁画には上部に天国、下に地獄、真ん中には人々が天国に行くか地獄に行くのか心配している様子が描かれている。そのほか、キリストの生涯などが壁一面に描かれているが、アルメニア聖人の殉教の壁画が心に残る。

教会には博物館が付設されていて、オスマントルコによる150万人とも言われる虐殺が本やビデオなどの資料で展示されている。
部屋の中央辺りに顕微鏡が置かれていて順番に覗いてみると、髪の毛に字が書かれている。祈り言葉が書かれているのだそうだ。
また、0.7g、世界で1番小さい聖書は14ページ、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、オランダ語、スエーデン語で書かれているとのこと、これは拡大鏡で見る。
部屋の左奥の壁にレンブラントのアブラハムの絵が飾られていて、アルメニア人の財力を窺わせる。

この教会は撮影禁止のうえに、絵葉書も置いてないので教会の内部の様子を画像にすることが残念ながら出来ない。

シャーレスタン橋

次の観光予定のチェヘル・ソトゥーン宮殿に着くと、2時半まで休みとかで、シャーレスタン橋の見物に向かう。

ガイドさんの話、‘シャフレスターンとは町、社会という意味で、サファヴィー朝時代の社会は一番上に王とその家族、その次が軍人・宗教と続いて、商人、さらに農業などの階級に分かれていました、階級が固定された厳しい社会で、同じ階級に生まれて同じ階級で死ぬしかありませんでした’

この橋はエスファハンで最も古い橋で、長さが100mほど、川が少し東に移されたので今は池になった水面の上にかかっている。

チェヘル・ソトゥーン宮殿

ガイドさんによればアッパーズ2世が住んでいた宮殿で、17世紀半ばの建てられたもの、小さい部屋が周りを囲むパビリオンのような造りになっていた。
門を入ると長さ100mほどの池の向こうに宮殿がみえる。王達は宮殿の前に出て、池を挟んで楽器の演奏を聞いて楽しんだという。

池の4角に裸体の女性がライオンの頭像を抱いた彫刻がある、女性の裸体はイスラムでは厳しく禁じられたものだが家の中に入れば自由であったらしい。ライオンの口には銅の噴水栓があり、池に水を注ぐ仕掛けになっている。

宮殿の柱はすずかけの木で、天井は寄木造りとなっている、屋根の形は日本の寺院の建築に似ているとガイドさん。チェヘル・ソトゥーンとは40本の柱という意味で、ペルシャでは40は数が多いことを象徴する数字であったことから40本の柱の宮殿と言われたようだが、実際には20本なのだが池に映る影と合わせて40柱に見えるところからきていると言う人もいるとのこと。柱や壁はかっては鏡と色ガラスで装飾されていたと言う。

部屋に入ると宴会の場面と戦闘の様子を描いた大フレスコ画がそれぞれ3枚、飾られている。イスマイールのオスマントルコとのチャールデラーンでの戦争の場面、ナーデルのムガールとの戦い、アッパーズ2世のトルキスタン王のレセプション、ペルシャに助けを求めてきたインド・ムガル帝国のフマユーン王の宴会など。

アッパーズ2世の宴会で弾かれている楽器はバルバット、ウードに変わりシルクロード、中国を経て 少し形が変わって、日本に入って琵琶になったと言う。