吉野山の桜見物

日本3大桜の名所と言えば、弘前城公園(ソメイヨシノ)、高遠城址(タカトウコヒガンザクラ)と吉野山(シロヤマザクラ)と言われている。

桜の季節にお城見物をしていて、5年前に弘前城の満開のソメイヨシノやシダレザクラ桜などを満喫。3年前には高遠城址で小粒でちょっと赤みがかったタカトウコヒガンザクラを見たので残っているのは吉野山のヤマザクラである。
吉野
は地元なので何時でも行けると思ってついつい先延ばしにしていたが、今年の桜の季節のお城見物を松江城だけの軽めの予定にしたので、続いて吉野山の桜を見ることにした。

さて、吉野山は麓から下千本、中千本、上千本、奥千本と言う地名が付いて、4月上旬に下千本から順に満開になり3万本の桜が山々を埋め尽くすと言われている。
30~40分の散歩がやっとの身なので、下千本と中千本を見れればと思って、吉野町観光協会のホームページなどを覗いて如意輪寺、吉水神社、蔵王堂、吉野朝宮跡、七曲り、下千本展望台などの桜の見どころ見物することにしている。麓の近鉄吉野駅の側から中千本まで臨時バスが出ており途中、如意輪寺に停まるようだ。中千本から下千本に向けて歩くとしても下りなので休み休みしながら見物すれば何とかなるかなと思っている。

でもって、満開日の予想を吉野町観光協会に聞いたところ、中千本は3週目の11日、12日頃だろう、毎日予想をホームページに出しているので確認してくれとのこと。ついでにホームページに出ている見どころの内ちょっと分かり難い「お野立ち跡」や「関屋の桜」などについて聞いたところ資料を送りますということで、「吉野山エリアマップ」、「吉野山みてあるき」、「紅葉まっぷ」などが送られてきた。「紅葉まっぷ」は桜とは違うが、商工会女性部吉野山支部の手製で観光マップにゆかりの歌碑、句碑を添えた力作である。歌碑、句碑は南朝4帝を始め、西行や芭蕉など20余りあるらしい。

ところで、大阪の北部に住んでいるので近鉄に乗る機会は少ない。「青の交響曲(シンフォニー)」という特急があるらしいので俄か会員になって申込したところ10日前でも満席であった。3両編成、しかも真ん中の車両はラウンジになっているので定員が少なく早くから満席になるらしい。
3週目の11日か12日を予定していたが、天気予報が良くないので10日に早めた。
当日、10時の臨時バスに乗るべく阿倍野橋発8時20分の急行に乗った。何とか座ることが出来たが、日曜日なので通勤列車並みの込みようである。
橿原神宮前までは37分ほどだったので、何で吉野まで1時間半もかかるんだろうと思っていたが、橿原神宮前から各駅停車になって14、5駅も停まるようだ。
やっと近鉄吉野駅に着いた。で、バス乗場に急いで向かうと長い長い列が出来ている。
10分ほどでバスが見える所まで進んできた。バスは4、5台で中千本の駐車場間を往復30分ほどでピストン運転しているらしい。
「吉野山みてあるき」の下千本、中千本周辺の拡大図…如意輪寺から上り坂を走りトンネルを過ぎてWCとある辺りに中千本の駐車場がある。ここから下って吉水神社、金峰山寺蔵王堂、吉野朝宮跡、黒門を過ぎ、赤橋を渡った辺りから下千本、七曲りや吉野山観光駐車場にいく道から下千本の桜が見渡せるようだ。


中千本
如意輪寺の桜


如意輪寺のバス停で降りて如意輪寺に向かう。バス停で降りたのは1人だけだったのでちょっと拍子抜け、皆さんの多くは中千本で乗り換えて上千本や奥千本に行かれるのかも知れない。
如意輪寺山門
如意輪寺…足利尊氏から逃れて吉野にやって来た後醍醐天皇が勅願寺と定めた由緒あるお寺らしい。
本堂の左手には後醍醐天皇腰かけ石、秀吉より拝領の椿、楠正行お手植えの木斛、藤本鉄石招魂碑などがある。

楠正行が四条畷の戦いに向かうにあたり、後村上天皇に今生の別れを告げた後、この如意輪寺に詣でて、「かえらじとかねておもえば梓弓 なきかずにいる名をぞとどむる」と辞世の句を鏃で御堂の扉に残して戦場に向かったとある。

庫裡の受付で拝観料を払って南朝勅願時如意輪寺と謳ったリーフレットを貰う、菊の御紋入りである。庭園や宝仏殿などが見れるらしい。
御霊殿…庫裡の脇を進んで行くと荘重な建物があり、柱には後醍醐天皇御霊殿とある。後醍醐天皇が自らの像を彫った木像が安置されているそうだ。御本尊は阿弥陀如来、総欅造りの納骨堂。

廃屋のような感じの建物は正面に回ると権現堂とある。この権現堂後醍醐天皇念持仏の金剛蔵王権現を安置する堂であったそうな。建物の裏手の壁が破れて筒抜けになっている。廃屋に撮影禁止の札がある、どうゆうこと?

南・北桜園





如意輪寺の庭園に植ったしだれ桜…今まさに満開である。しだれ桜は上品な感じの印象を持っていたが、こちらは豪華絢爛、百花繚乱の感じである。

多宝塔…境内の一番奥まったところに建っている2重塔。御本尊は阿弥陀如来、総欅造りの納骨堂。



多宝塔周辺から少し遠くに目を向けるとヤマザクラの群生がちらほら見える。


多宝塔周辺から報国殿越しに中千本駐車場方面?を眺める。シロヤマザクラが谷を埋め尽くしている。1本1本を見ると綿菓子のように柔らかくふくらんでいる。


多宝塔から宝仏殿に廻り、お宝をちらっと見て回廊を裏手に回って中千本駐車場方面を眺める。シロヤマザクラが谷を覆い尽くしていて壮観である。


如意輪寺庭園の桜を堪能した後、裏山の後醍醐天皇陵に向かう。

如意輪寺のリーフレットには「元弘3年(1333)鎌倉幕府を倒して建武の新政を成し遂げられた後醍醐天皇は足利尊氏との争いにより、京都より吉野山に行幸され如意輪寺を勅願時と定められました。約4年間、吉野山にお過ごしなられましたが、延元4年(1339)の新暦の9月27日に次の天皇、後村上天皇に皇位を譲り御年52才で崩御されました。
「身はたとえ南山の苔に埋むるとも、魂魄は常に北闕の天をを望まん」と如意輪寺裏山、京都の方向、すなわち北を向いて葬られた」とある。

後醍醐天皇陵…京都の方向、すなわち北を向いて葬られたとあるが如意輪寺の境内を歩き回ったので方向感覚が薄れたのか西向きなのか北向きなのか良く分からない。


坂の手前に宮内庁の立て札に世泰親王墓とあり、坂を上がって行くと墓がある。
(紅葉まっぷに載っている歌・句)
御廟年経て忍は何を志のぶ草 芭蕉


吉水神社、一目千本
如意輪寺のバス停から中千本の駐車場までは7分ほど。ここからは歩き、下りながらの桜見物となる。先ずは吉水神社、10分ほど歩いた右手の鳥居が目印。そこから右に折れて細道を少し下って上って行けば吉水神社に至る。途中、振り返ると如意輪寺の宝仏殿や報国殿がが見える。
吉水神社山門、山門をくぐって境内を右手に進むと一目千本の見晴場がある。




一目千本…吉水神社境内の見晴らし場から、中千本、上千本や奥千本が望める。シロヤマザクラが吉野山全山を覆う絶景を平安の時から貴人や文人墨客が愛でたのと同じ所に立って見ているのだと思うと、ちょっと気後れ、緊張しながらカメラを向ける。
吉水神社は天武天皇の時代に創建され、後醍醐天皇の居所ともなった由緒ある神社である。また、秀吉が家康、清正、政宗など武将や茶人など5000人を引き連れて吉野の花見を行った本陣がこの吉水神社である。が、参拝者の行列を見て信心の薄い不心得者は参拝を遠慮する。
庭園越しに金峰山蔵王堂を見て吉水神社を退散する。

(紅葉まっぷに載っている歌・句)
花にねてよしやよしのの吉水のまくらのもとに石はしる音 後醍醐天皇

東南院
吉水神社から大通りに戻って、反対側の東南院に向かう。本堂…役の行者神変大菩薩を始め金剛蔵王大権現などが安置されているらしい。    
多宝塔…紀州の八幡宮より移築。しだれ桜は満開の峠を越した感じ。

(紅葉まっぷに載っている歌・句)
ある坊に一夜をかりて、碪打ちて我にきかせよや坊が妻 芭蕉

金峰山寺蔵王堂
金峰山寺のホームページより、
吉野山から山上ヶ岳にかけての一帯は、古くから金の御岳(かねのみたけ)、金峯山(きんぷせん)と称され、古代から世に広く知られた聖域とされました。白鳳時代に役行者が金峯山の山頂にあたる山上ヶ岳で、一千日間の参籠修行された結果、金剛蔵王大権現を感得せられ、修験道のご本尊とされました。役行者は、そのお姿をヤマザクラの木に刻まれて、山上ヶ岳の頂上と山下にあたる吉野山にお祀りしたことが金峯山寺の開創と伝えられています。以来、金峯山寺は、皇族貴族から一般民衆に至るまでの数多の人々から崇敬をうけ、修験道の根本道場として大いに栄えることとなりました。明治初年の神仏分離廃仏毀釈の大法難によって、一時期、廃寺の憂き目を見たこともありましたが、篤い信仰に支えられ、仏寺に復興して、現在では金峯山修験本宗の総本山として全国の修験者・山伏が集う修験道の中心寺院となっています。
東南院からだらだらと下り蔵王堂にやって来た。ホームページにもある通り修験道と呼ばれる山岳信仰の総本山である。
蔵王堂の四本桜(よものさくら)…その昔、護良親王が陥落前にこの四本桜の前で酒宴を開いたと伝えられ、吉野の桜のが見どころの1つと紹介されている。満開を過ぎて散り始めているようにも見えるが、間近かで見ると薄い赤みの花と赤茶けた新葉が同居しているようにも見える。
蔵王堂は金峯山寺の本堂である。国宝であり、世界遺産にも登録されているらしい。高さ34m、木造古建築としては東大寺大仏殿に次ぐ高さがある。
創建以来、焼失と再建を繰り返し、現在の建物は、天正20年(1592)に再建されたもの。内部にはご本尊金剛蔵王大権現の尊像3体が安置されている。

参拝者が列をなしているので、ご利益は遠慮して境内の隅から中千本、上千本を眺める。
蔵王堂境内からの眺め、吉水神社と同方向の中千本、上千本、奥千本の桜が拝める、壮観々々。

(紅葉まっぷに載っている歌・句)
目つむれハ 蔵王権現 後の月  青畝

下千本
蔵王堂の見物は10分ほどで済ませて下千本エリアに下っていると、右手に大きな鳥居が見えてくる。銅の鳥居(かねのとりい)と言うんだそうだ。
吉野町ビジターセンターのホームページによれば、全て銅製で高さは7.5mもあるらしい。奈良の大仏の余銅で造られたと言う伝説もあるとのこと。
現在の鳥居は室町時代時代に再建されたもので、本来の名称は発心門と言い、山上ケ岳までの間にある4門の最初の門にあたる。あとは修行、等覚、妙覚の3門。行者たちは発心門から先を冥土と見立て、ひとつの門をくぐるごとに俗界を離れて修行する決心を強めたそうだ。

黒門
急な坂道を下ってきて行列の先に見えるのは黒門、金峯山寺の総門で、昔は公家、大名と言えども槍を伏せ、馬をおりて歩くと言われた。(城郭でも黒門は最も重要な門と聞いた)。現在の門は昭和になって建て替えられたもの。
黒門付近の坂をを関屋坂と呼び付近の桜を関屋の桜と言ったようだ。

 


下千本の桜
だらだら坂道を下り、ロープウェイの吉野山駅を過ぎて赤い大橋を渡ったところに下千本の休憩所があり、この辺りから七曲りの坂道を見ながら進むとお野立ち跡や下千本駐車場の近くに下千本展望台がある、おおよそ500m。
道の両脇には屋台や土産物屋などもある。下千本の休憩所裏の桜とその拡大図…シロヤマザクラの咲き具合を拡大してみると、満開の淡いピンクの花びらと赤茶けた葉芽が同居しているのが良く分かる。(ソメイヨシノは満開を過ぎて花が散った後に葉が出てくるが、ヤマザクラは開花と同時に葉芽が出てくる)
吉野駅から徒歩で吉野山に登るヘアピンカーブの急坂を七曲りと言い、この付近一体に植わっている桜が下の千本で、昔はこの付近の眺めを一目千本と言ったとある。江戸時代、村童どもから桜苗を買って植え蔵王権現に奉るのが習わしであったようだ。その昔、役行者(えきのじょうじゃ)が金峯山上で千日にわたって祈ると、憤怒の姿の金剛蔵王権現が現れ、役行者はその姿を山桜の木に刻んだと言われている。以来、桜は蔵王権現を供養する神木とされたので信仰の証として桜を植樹することが始まったようだ。

七曲りの周辺見ながら歩き、谷向かいを見ると下千本の桜が群生している。この谷向かいの山々を花園山と呼んでいたそうだ。


お野立ち跡からの眺め…昭憲皇后がこの場所から桜風景を眺められた。お野立ち跡と言われて何のこと分からないが、「御野立ち」なら分かる。天皇や貴人が野外で休息し展望することを言いい、「野立て(のだて)」の方が分かり易い。この御野立ち跡から眺める桜の大群を千本の桜と呼ぶらしい。



下千本駐車場の展望台から眺め。


芭蕉の「野晒紀行」は41才の時に吉野山を訪ねた時のもので、「独り吉野の奥に辿りつけるに、まことに山深く白雲峰に重なり烟雨谷を埋んで山賤の家々に小さく、西に木を伐る音、東に響き、院々の鐘の声心にこたふ。
ある坊に一夜を借りて、
‘砧打って我に聞かせよや坊が妻’
……
芭蕉は4年後再び吉野山を訪ねて、笈の小文と言う紀行にしるしている。
’吉野にて桜見せうぞ桧のの木笠’
’春雨の木下につたふ清水哉’
……


嵐山の桜…吉野山観光駐車場の南側の小高い丘を嵐山と言い、かっては桜が覆い茂っていたそうだ。

(紅葉まっぷに載っている歌・句)
芳野にてさくら見せふぞ檜木笠 芭蕉
花ざかり山は日比の朝ぼら希  芭蕉

吉野山 御陵近くなりぬらむ
散りくる花もうちしめりたる  昭憲皇太后

 


下千本の桜を見終わってロープウェイ駅に戻り、時計を見ると1時半になっている。お腹も空いているので近くの和食店に入る。

和食店の窓からの眺め。こちらは花が散って赤茶けた葉芽が目立っている。


吉野山の桜見物で最後に残っているのが吉野朝宮跡。通りの土産物屋の店員さんに聞いても、吉野朝宮跡って何という感じである。店員さんは繁忙期のアルバイトで地元の人ではないようだ。何軒目かで仁王堂の脇を5~6分上った右手に吉野朝宮跡があると教えて貰った。吉野朝宮跡の敷地内に立てられた良寛の石碑の脇の説明板。
吉野朝宮跡……京都を脱出、吉野に逃れた後醍醐天皇は最初は吉水院を行在所としたが手狭なため金輪寺を皇居とした。その吉野朝宮の跡がここであるらしいが、いかにも狭い。後醍醐天皇にとって吉野はいつか京都に戻るための仮寓であったにしても、この敷地で皇居と呼ぶには寂し過ぎる感がある。

明治の廃仏棄釈で廃寺となり建物一円も撤去された。現在の3重の塔は昭和になって太平洋戦争の戦死者や南朝4帝を供養するために跡地に建てられたもので南朝妙法と呼ばれている。


吉野朝宮跡周辺の桜…南朝皇居跡に因んでこの付近の桜は御所桜と呼ばれている。

(紅葉まっぷに載っている歌・句)
見しままに花も咲きぬと都にていつか吉野の春を聞かまし 後亀山天皇
我が宿と頼まずながら吉野山花になれぬる春もいくとせ  長慶天皇
吉野山花も時えて咲きにけり都のつとに今やかざさん   後亀山天皇
袖かえす天津おとめも思い出ずや吉野の宮の昔かたりを  後醍醐天皇


予定していた中千本、下千本の桜の見どころは何とか見物出来たが、足はもう上がらない。

3時過ぎにロープウェイで千本口駅に下りる。お疲れお疲れ。