松江城見物1日目 その1

今年の春のお城見物は松江城、国宝のお城見物の最後となった松江を訪れることにした。当初は松江城と福知山城を見ようと思っていたが、時刻表を調べてみるとちょっとタイトなスケジュールになるようなので、福知山城は諦めてゆっくり目に松江城だけを見ることにした。
スケジュールは、
4月4日 伊丹(JAL10.25)ー出雲(11.10)
4月5日 出雲(JAL16.05)ー伊丹(16.55)

搭乗後、出雲空港までちょっと時間ほどあるようなので、印刷して持ってきたウィキペディアを拾い読みする。
それによると、関ヶ原の戦功により堀尾忠氏は隠岐・出雲24万石を得て月山富田城に入城した。富田城は山城のため、城下町の形成や運送に有利な新城地を父親の吉靖と共に探して目途がついた時、28歳で亡くなる。嫡男の忠靖は幼く吉靖が後見として藩政をみることになり、忠氏の遺志を継ぎ宍道湖畔の亀田山に築城することに決めた。
慶長11年(1611)に築城を始め、4年を掛けて石垣や堀を備えた4重5階の天守や二の丸が完成した。前後して吉靖が死去、その後、寛永10年(1633)に忠靖も没するが嗣子なく、堀尾家は3代で改易となる。代わって入封した京極忠高(三の丸を造営し松江城を完成させた)も嗣子なく没し、松平直政が入封してくる。将軍家光を饗応するために松本城に月見櫓を造営したあの松平直政である。松平家は明治維新まで続くことになる。


さて、全国に数多くあるお城のうち国宝に指定されている天守は5城、姫路、松本、犬山、彦根と松江である。戦後、文化財保護法の制定によって、それまでの国宝は一旦解除されて重要文化財となり、その中から特に優れたものとされる条件を満たすものとして姫路城は昭和26年、犬山、松本、彦根など3城も翌年に国宝に指定されている。
それから63年、平成27年になってやっと国宝になったのが松江城である。なんで松江城は60年以上もたな晒しにされたのか、他の4城と比べて何が足らなかったのか……

戦前、国宝に指定された当時以降、松江城は城郭史跡としての価値の拡充を目指すよりも遊戯、運動施設を拡充し、総合運動公園に変わっていったようである。
つまり、松江市は戦前から戦後にかけて松江城跡に公共施設や市民のための娯楽、スポーツ施設を整備してきていて、城郭史跡としての拡充活用には目を向けていなかったと言うことになる。当時の状況としては市民の健康増進に市政が向くのはのそれなりの選択であったと思われる。
そんなことから姫路城などが国宝に指定された当時の松江城跡には遊戯施設や運動施設ななどがあって、国宝に、というのはちょっと無理な話しであったようだ。

昭和25年から5年かけて松江城天守は解体修理されたが、当時の文化財保護委員会は、「史跡松江城の面目を保持すること」、「原状復帰を急ぐこと」を指導していて国としても松江城をたな晒しにしたのではないようだ。
松江市が松江城を城郭史跡としての拡充活用に方針転換した後、現状復帰のための公共施設の移転はまだしも、民家や茶屋など私権が絡んでいて現状復帰は遅々として進まなかったようだ。

昭和から平成の時代になって、庶民も旅行に出かける余裕が出来、世は旅行ブームとなりお城見物も盛んになって、殊に国宝のお城は観光資源として脚光を浴びるようになってきた。
松江市民も開府400年祭を契機に松江城を国宝にという機運が盛り上がり、行方不明だった祈祷札が見つかり松江城の築城が慶長16年であることが証拠付けられて、平成27年に松江城の天守が国宝に指定されたという事のようだ。


出雲空港から松江市内へは30分ちょっと、昼前に駅前に到着する。
松江城周辺や宍道湖岸を周回するバス「ぐるっと松江レイクライン」の1日券を買って松江城見物に向かう。


バスを大手門前で降りて、堀沿いを松江城に向かう。堀沿いの桜、二の丸跡の石垣の上の桜も満開で松江城見物に期待がふくらむ。
大手前広場に立つ堀尾吉晴像・・・堀尾吉晴は藩主ではなかったが松江城を築き、城下町を形成したのが吉晴なので松江の開祖とされている。指揮杖を掲げ築城工事の人夫を鼓舞しているのだろうか、それとも天守の晴れ姿を誇らしげに見上げているのだろうか。

入口脇の松江城散策マップの拡大図…天守に向かう道順は分かり易いようだ。お城に向かう内堀に架かる橋が5つもある。往時からあったのか分からないが防御面ではどうかと思われる。また、天守の後ろ側(搦手)の護国神社や稲荷神社周辺には石垣などは築かれておらず無防備のようだが、城普請の名手と言われた堀尾吉晴が搦手の防御を疎かにする筈はないと思われるのだが・・・馬留(外曲輪)…大手門前広場から柵門を通ると正面には二の丸の高石垣、左手に内堀の石垣、右手には大手門があって方形の広場となっている。広さは東西それぞれ50m以上あって、いわゆる枡形門の形をしているが、馬留と呼ばれていたようなので出撃の際に勢揃いして鬨の声をあげたところのようだ。枡形門は防御のための最も完成度の高い門と言われていが、大手門の櫓や二の丸の多聞櫓(?)から射撃出来たのかも知れない。

高石垣の前には桜まつりか何かのステージが作られ椅子も準備されていてイベントが開催されるようである。

大手門跡…どっしりとした石垣が両方から中央に向けて伸びている。石垣と石垣の間の幅は14~15mありそうだ。この石垣の上に2階造りの櫓門が乗っかっていたそうだが、壮大な櫓門だったことが想像できる。
二の丸下の段…解説板によれば東西100m、南北210mの広さがあり、北側には米蔵が並んでいた。南側には城や寺社などの修理する事務所があったらしい。

松江城は桜も満開、雲一つない青空のもと孫と一緒に天守に向かうおばあちゃんの足どりも軽そうだ。

天守に向かう階段を10段ほど上った右手にテラスのような細長い広場がある。ベンチも置いてあり、ゆっくり満開の桜を愛でるのに都合がよいが、お城見物は始まったばかり、腰を下ろしてはおられない。
二の丸下の段の石垣の上にこの広場はある。
上を見上げると杉の大木の向こうに隠れるように天守が見える。石垣と土手の間に二ノ丸下の段の奥から松江神社に至る道路が通じている。

上り階段から下を見ると大手門の石垣の構造が良く分かる。手前の石垣の方が長いようだ。石垣の上にのぼる階段が見えるが、大手門櫓にはこの階段を上がって出入りしたらしい。松江城の解説板…松江市教育委員会の解説なので、この解説が最も信頼できる情報である。堀尾氏の入封や松江城の築城のいきさつなどが説明されているが、ウィキペディアで得ている情報と大差はないようだ。城地の広さは東西360m、南北560mだそうだ。松江城解説板の拡大図…標高28.1mの頂上部に本丸を置き、荒神櫓をはじめ6ヶ所の櫓をそれぞれ繋ぐ細長い多聞を巡らせていたとある。(櫓は祈祷櫓、武具櫓、弓櫓、坤櫓、鉄砲櫓、乾ノ角櫓の6つが確認出来る。十二支で坤は(ひつじ、さる)で西南、乾は北西なので天守から見てそれぞれ西南と北西を防御する櫓のようだ。荒神櫓は祈祷櫓のことらしい)
天守は本丸の東北隅に築かれており、二の丸は本丸の南側に一段低く隣接し御書院や御広間などがあった。
本丸の周辺には腰曲輪、中曲輪、外曲輪、後曲輪があったようだ。城山の南には三の丸(今の県庁付近)があり藩主の御殿があった。
明治8年、無用の長物と化した櫓や多門など多くの建物はことごとく壊されたが、天守だけは旧藩士や豪農の懇請により保存された。


二ノ門跡脇の階段を上り右に折れ、短い階段を上ると本丸入口が待っている。天守にやって来た。真っ青な空に4重の天守が映える。

彦根城と似たような感じだが、確か彦根城は3重3階であったので松江城の方が一回り大きい。彦根城は切妻破風、入母屋破風、唐破風や華頭窓で飾っている上に、漆喰壁が白く輝き、華やかな感じであったが、目の前の松江城は東西面に入母屋破風、南北側には入母屋破風を出窓風に飾っているが、壁は漆喰塗より板張が目立って黒っぽく、彦根城と比べると華やかさは劣るが落ち着いた感じである。

屋根は本瓦葺きで、大棟の両端には鯱が乗っている。付櫓・・・渡櫓を介さず直接天守に繋がっているのが付櫓である。彦根城もそうだが、天守の4隅などに付櫓を備えるのはよく見かけるが、付櫓が天守の正面玄関となっているのは珍しい。とって付けた感じがしないでもない。


鉄板板張の入口から入る。

入口から入り左手の数段ほど階段を上ったところが地下1階。太い格子の窓武者が取り付けられている。支え棒で外の突き上げ窓を開けている。
敵が攻めてきた時の防御のためあちこちに石落としが備えられている。
祈祷札…慶長16年正月祥日の銘があり、松江城の完成時期を示す資料。
この祈祷札は長らく行方不明になっていたが、国宝指定に向けての松江市民の調査・運動が活発となり、懸賞を掛けて史料を探していたところ松江神社で見つかった。祈祷札には慶長16年正月の日付があり、さらに祈祷札の釘穴と柱の釘穴が一致したことから、この祈祷札が松江城のものであることが判明し、松江城の完成時期が慶長16年正月であることが証拠付けられて国宝に指定されることになった。この祈祷札はレプリカであり本物は松江歴史館に保存されているそうだ。

祈祷は神社仏閣にお詣りして自分の願いを伝え、その加護を受けられるように祈ることで、この祈祷札には「奉?讀大般若経六百…」とあるので般若経を読誦し、堀尾家の末長い繁栄を願ったものと思われる。一対の鯱…高さ2m、長さ1m、頭部の幅が42㎝。寄木造りで彫刻を施した後、銅板を貼り合わせている。昭和の大修理で地上に下ろして調べたところ内部の腐敗が激しいことが分かった。鯱は新しく製作し、旧来の鯱はこうして天守地下に展示されている。井戸…天守の内部に井戸があるのは珍しい。かって、これは抜け穴だとか、井戸だとかいろいろ言われていた。昭和の大修理の時に掘って調べたところ、抜け穴ではなく、24mもの深い井戸があったことが分かった。現在は半分ほど埋めている。籠城に備えて井戸を掘ったようだ。
穴蔵の間…塩などを備蓄する貯蔵倉。階段を上って1階に向かう。
天守最大柱…地下1階から1階に貫く東西2本の通し柱。松江城の柱は柱の四方を包板で巻き、帯鉄で締めているのが多いが、これは用材不足でひびや割れ目のあるものも使っているのでそれらを隠すためのものだが、強度補強にもなったようだ。ただこの東西の大柱にはそんな細工はいらないということのようだ。番付は木造建築建築で建物を組み立てる時、どこの部分の部材かが分かるように付ける符号のことで墨で書く場合と部材に彫り込む場合がある。この柱の節と節の間に文字らしきものが見えるが、彫込番付が十ノ九下と彫り込まれているらしい。月山富田城富田城の柱を運んできて松江城に再利用した。築城には大量の木材を使うので廃物利用が多々行われた。彦根城でも天守の用材は大津城のものを転用しているし、天秤櫓は長浜城の物であった。2階に上がる。2階の平面図…見どころが写真付きで解説されている。通し柱の解説…「望楼型に区分される松江城天守は2階分を貫く通し柱を各階に交互に配置することで長大な部材を用いずに4重5階地下1階の大規模天守の建築を可能にした。「互入式通し柱」と呼ばれるこの方式と4階の隅の梁から立ち上がる柱にみられるように、上階の荷重を下階の柱が直接受けず横方向にずらしながら下に伝える2つの構法を駆使したもので…」
要は姫路城のように地階から6階床にまで貫く大柱を手に入れることが出来ないので、2つ階の階にまたがる通し柱をずらして配置することで、上階の荷重を下階の柱が受ける圧力を分散させる技法を考案したということのようだ。
2階の展示…説明書きによれば、この甲冑と槍は後藤又兵衛のものだそうだ。後藤又兵衛の弟が所持し、のちに後藤家の親戚で松江藩士の土岐円太夫家に伝来したもの。?
二の丸にあった太鼓櫓で使用されていた太鼓。

2階から3階に上る階段。この階段の脇に立っているのが2階から3階に貫く通し柱、城内で通し柱が見られるのはこの柱だけだそうだ。3階 潜戸

城内を見物した後、西側の広場のベンチで一休みしながら天守を眺める。あらためて見ると天守台の石垣の高さがすごい、6、7mはありそうだ。