松江城見物2日目、由志園見物

昨日、松江城見物後ホテルにチェックインする前に駅前の観光案内所に寄り、松江のお勧めスポットについて教えて貰った。松江城見物は二ノ丸周辺を残しているだけなのなので30分ほど、帰りの出雲空港出発は16時過ぎという条件なら、バスが往復2時間ほどかかるが中海の真ん中に突き出た大根島の由志園がお勧めだとのこと。薔薇が有名だが、いまの季節はチューリップがいっぱい咲いているし、日本庭園も一見の価値がありますよ、と言うことであった。


由志園行きのバスの出発が11過ぎなので、遅めにホテルを出る。レイクラインは松江大橋ではなく、2つ東の「くにびき大橋」で大橋川を渡り、京橋川を戻るルートになっている。京橋川(外堀?)沿い満開の桜並木眺めながら走り、幸橋の交差点を左に折れ官庁街らしき通りを進むとすぐに大手門前のバス停に至る。桜の季節のお城見物は最高、よく見ると亀も水から出て甲羅干しをしている。
桜が満開、天気も良いがお城見物の人はちらほら。二ノ丸東面の石垣と復元された太鼓櫓。

石垣の拡大…築石の表面が丸みをおびているので切込接ぎではなさそうだが、石と石の間に隙間がない。大手門から天守に向かう登城口なので石材を厳選して積んだ打込接ぎのようだ。松江城散策マップの二の丸の付近の拡大図…東西約100m、南北約90mの広さがあり、茶色の道路(往時はなかった)の右側が少し低くく、藩の政務を司る御広間があった。左側の現在、松江神社や興雲閣のあるところに藩主の私的な生活の場の御書院があった。
三ノ門跡…大手門跡から階段を上り、突き当りの道路の手前を左に折れたところに三ノ門跡があり、道路を少し進んだところに二ノ門跡、さらに右手の階段を上がった入場門前に一ノ門跡がある。


二ノ丸番所跡…立て札の説明によれば、二ノ丸は2代藩主綱隆の時代まで藩主の居住した御殿があった場所で、その御殿入口の警護する藩士が詰めていたのが二ノ丸番所である。東西に23m、南北6mほどの建物であったそうだ。


太鼓櫓跡の立て札の説明…太鼓櫓は二ノ丸の北東隅に建てられた櫓で、中櫓とほぼ同じ規模だが入口に庇が付いているのが異なっているそうだ。城内に時刻や号令を告げる太鼓が置かれていた。
復元された二ノ丸の塀…二ノ丸東面から太鼓櫓をはさみ南面の塀が復元され、中櫓、南櫓も復元された。塀には5mごとに支え柱が立てられている。よく見ると縦長、横長の狭間が交互に開いている。縦長は矢狭間、縦長は鉄砲狭間のようだ。
二ノ丸跡…立て札の説明によると松江城二ノ丸は2代綱隆公の時代まで藩主の居住した御殿があった場所とのこと。その御殿の入口を警護する人たちが詰めてのが二ノ丸番所であり、東西23、南北6mの建物があった。

二ノ丸は本丸の南側に位置する南北142m、東西122mの曲輪である。江戸時代の二ノ丸は藩主の公的な儀式や政務を司る御広間や生活をしたり私的な接客や面会などを行った御書院はじめ御台所、御式台などの御殿が建ち並び周囲には時打ち太鼓を置いた太鼓櫓や城下の監視や倉庫に使われた南櫓、中櫓を始めとする5つの櫓があった。これらの櫓、御殿などは明治維新とともに無用の施設なり、明治8年に取り壊されその後公園として利用された。
平成5年に策定した史跡松江城環境整備指針に基づき江戸時代の遺構復元整備することになった事業は発掘調査の成果をもとに、古写真、絵図、文献資料を参考にして南櫓、中櫓、太鼓櫓、井戸屋形など建物および塀を実物大に復元し、御広間跡、下御台所跡、御式台跡を平面整備し平成13年(2001)に完成したそうだ。

二ノ丸御広間御殿の拡大図…御広間、御殿、御式台、下御台所などの御殿が建ち並んでいた。


松江神社…二の丸跡の上段にある松江神社は立て札によると松平直政を祀る神社として明治10年に創建され、明治32年にここ松江城二の丸に移された。昭和6年に7代藩主の不昧公と松江開封の堀尾吉晴が合祀されたとある。
明治23年に本丸一帯が陸軍省から松平家に払い下げられている。松平家としても祖先を祀る神社を二の丸跡に建てることに異存はなかったと思われる。

興雲閣…この洋館風の建物は天皇陛下の山陰への行啓を切望し、やっと実現の見通しが立ったことで明治36年に宿泊施設として建てられた松江市工芸品陳列所(後に興雲閣と命名された)である。実際には皇太子が巡幸され、宿泊されたようだ。


史跡松江城は江戸初期に築かれた天守や石垣、堀など歴史的見地から、また、世界文化の見地からも特に価値の高い遺構が現在に至るまで継承保存されているのが特に貴重なものとして平成27年に国宝に指定された。

ところで、松江神社は明治32年にここ二ノ丸跡に移され、興雲閣は明治36年に建てられたとされている。
昭和26年に文化財保護法委員会が「史跡松江城の面目を保持すること」、「原状回復については、出来る限り速やかに着手し、天守の修理竣工までに全部完了すること」と現地指導しているが、このことは文化庁になっても引き継がれていると考えられる。

興雲閣や松江神社は松江市にとって貴重な文化財的建造物であろうが、史跡松江城の本質的価値とは無関係な施設であり、史跡松江城の面目が保持出来るように原状回復せよ、とする文化庁の方針にはそぐわないと思われる。松江神社はまだしも、きんきらきんの興雲閣は史跡松江城の二の丸とは相容れないものと考えられる。

史跡松江城の国宝に指定にあたって松江市は築城年の証拠を提出したようだが、姫路城、犬山城、松本城、彦根城の国宝指定で築城年の直接的な証拠が必要だったわけではない。築城年代の物的証拠は解体修理時における調査や自治体の特別調査で得られたものもあるようだが、これらはずっと後になってからのものである。

ボケ老人の勝手な邪推であるが、松江神社や興雲閣を城郭内に残したまま国宝指定の申し出をされて文化庁は困惑したのではないだろうか、そこで何か特に価値の高い遺構であることを証明するものを求め、応じて松江市が築城年の証拠を提出して妥協がなったという事はないだろうか???

由志園 見物

松江駅出発が11時過ぎ、13時半のバスで戻ることにしていて、出雲そばか何かの簡単なお昼をするにして、庭園の見物時間は30~40分ほどしかないが、なんとかなると計算している。由志園については観光案内所で聞いたこと以外に何の知識もない。バスの中で由志園の検索をしたら40000㎡(甲子園グランド面積の3倍)もある相当な規模な庭園のようだ。
ホームページには次のような紹介記事がある。
(由志園の庭園は昭和45(1970)に第一期工事を開始し造成を重ね、
現在では約1万2千坪(4万平米)の池泉廻遊式日本庭園となりました。
奥出雲の鬼の舌震、斐伊川の豊かな流れ、宍道湖の水面、中海の岩礁や水面に映る霊峰大山など、庭園各所で出雲の風景を模した出雲の國の箱庭です)


終点のバス停から7、8分歩くと田んぼの中に造られた由志園に着く。

よちよち歩きの子供もおかーさんに連れられて、お散歩に出発。

庭園案内図…庭園を斜めに横切るように池泉を配し中ほどに赤橋を架け、雌滝、雄滝、築山、竜渓流、溶岩庭園や枯山水庭園など盛りだくさんに配置している。イベント用のスペースは左手奥に設けてられているいるようだ。
それにしても、料亭など5つの食事場所があるが、入園料でこれだけの庭園を管理維持するのは難しく見物客の食事代がカギを握っている気がする。
池の流れはゆったりとし、深山を思わせる木立の間を散歩する贅沢な気分になる。

田んぼに囲まれた中にこんな別世界があるとは。


チューリップは何千種類もあるらしいが、全く疎い。


この牡丹の絵の側にある竹りんで出雲そばを頂き、シジミの佃煮など土産を買って由志園見物はお終い。
田植え前の田んぼが広がり農家が並ぶ遥か遠くに大山が見える。

大根島を繋ぐ道路…中海は少し波立っている。