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ご用とお急ぎのない方は、ごゆっくりどうぞ。

スポット: 教会・神殿 (2ページ / 8ページ)

3日目 パリ~トゥール

シャンボール城舘 その2、 トゥール旧市街

フランソワ1世の住居

王妃の居室を出て回廊を右手に進んで行くと、王の翼塔と呼ばれるフワンソワ1世のアパルトマンに至る。
フランソワ1世はドンジョンの円塔に置かれていた住居をこの東の翼塔に移したわけだがが、回廊や中庭に面して造らせた螺旋階段から直接出入り出来ることがその理由だったらしい。

この翼塔には寝室、2つの小部屋、小さな礼拝堂と執務室が置かれた。
もっとも、フランソワ1世のシャンボール滞在は狩猟のための短いものだったので、城館は臨時的に装飾が整えられ、床にはイグサを編んだものが敷き詰められ、家具調度類は簡単に取り外しが出来るように作られていた。

この後、シャンボール伯爵のミュージアムで大砲などの玩具コレクション、銀製品やベッドなど、スタニスラス・レクチンスキーやサックス元帥の友人たちが住まいしていたとされる18世紀の続きの間に展示されている豪華なベッド、サックス元帥の陶製の大きな暖炉などを見て回り、がらんとした礼拝堂を巡回して3階に上がる。

3階と屋上テラス

3階には見るべきものは何も無いが、大広間の格子状の天井はフランソワ1世の紋章であるサラマンダーの彫刻で装飾されている。サラマンダー(火とかげ)は火に棲むと言われ、聖なる炎を養い悪の炎を駆逐するのだそうだ。もう1つは狩猟のコレクションで立派な鹿の剥製やらたくさんの鹿の角が天井からぶら下げられていたりしているが、興味をひくものはない。

屋上に上がってみると、地上ではオモチャの積み木のように見えた煙突や塔は4~5階建ての建物くらいの高さがある。これらの煙突や塔の間を巡っていると、なるほど、物陰はいたるところあるので、ひそひそ話をしたり、何人かで陰謀を企んだり、はたまた情事を語らうによろしき場所だったようだ。

また、テラスからは遠く彼方にソローニュの森が見渡せ、目の前には広大な芝生が広がっている。かっては、このテラスは狩猟隊の出発や帰還、騎馬試合などを絶世の美女たちに囲まれて見物する華やかなところであったと言う。

トゥール旧市街

6時半過ぎにトゥールに帰着。シカゴの夫妻とバックパッカーはパリに戻り、熟年の姉妹はブッキング・コムでシャトーホテルを予約されているとかで皆さんとはお別れである。
日没にはまだ少し時間があるようなので旧市街の散策に出かける。パンフレットによればトゥールはローマ時代から栄えた町で、中世には王国の首都となったこともあるそうだ。旧市街は聖ガシアン大聖堂がある東寄りと、西寄りの聖マルタン聖堂の周りの市街の2つに分かれているらしい。

聖マルタン聖堂

聖マルタンはローマ軍の兵士であったが、キリスト教に入信。慈悲深く精力的な布教を行う人であったのでトゥールの司教に迎えられた、ようやくキリスト教がローマに認められた4世紀中頃のことであった。

聖マルタン聖堂を目指して歩いていると賑やかな広場に出くわした。パンフレットを見るとプリュムロー広場らしい、まだ日が高いのにカフェのテラスには大勢の若者が楽しそうに語らっているようだ。また、広場に面した通りには木骨組の家が並んでいて中世の趣を残しているので観光客にも人気がありそうだ。

広場を少し下ると聖マルタン聖堂のシャルルマーニュの塔と時計塔が見えてくる。時計塔の1階には時計屋が入っているらしくショウィンドウには時計や眼鏡が並べられている。もともとの聖マルタン聖堂は宗教戦争や大革命で破壊され残っているのがこの2つの塔だけらしい。

しばらく進むと、19世紀に建てられた現在の聖マルタン聖堂の大ドームが聳え、その天辺には聖マルタンの像が立っている。聖マルタンの死後、墓に手を置いてお祈りをすると病気もすぐ治ると言われて巡礼が絶えることがなかったそうだが、現在の聖マルタン聖堂にもお祈りに来る人が多いらしい。

聖ガシアン大聖堂

1日歩いて足が疲れてきて、休みやすみ20分ほどかけて旧市街の反対側に聖ガシアン大聖堂に着く。12世紀から500年もかけて建てられた言うゴシックのファサードは壮観である。内部には聖マルタンの奇跡を描いた見事なステンドグラスがあるそうだが、気力が失せているので中には入らない。
ツーリスト・オフィスの近くのレストランで定食をとって今日のお城見物はおしまい。

2日目 アグリジェント

コンコルディア神殿、ヘラクレス神殿、考古学博物館

アグリジェント観光

コンコルディア神殿

ヘラ神殿は神殿の谷の一番高い所にあるので神殿通りを下りながら神殿群を見学するので脚力の衰えた者には好都合である。
100mほど下ってアーモンドが茂っているところにくると、ヘラ神殿を撮るベストスポットですとガイドさんに薦められて皆さん交替しながらカメラに収まったようだ。

自生しているアカンサスを見たり、城壁に掘られた墓を覗いたりしていると前方にコンコルディア神殿の正面が見えてくる。

ほぼ完全な姿をとどめている神殿は堂々としたドリス式の神殿であるが、アテネのパルテノン神殿が大理石造りで紺碧の空に映えて明るく高貴な感じであったのに比べて、コンコルディア神殿は凝灰石造りのため赤茶け、曇天を背に痛々しい感じだが、2500年の風雪に耐えた暖かみも感じる。

BC430年頃の建築とされ、幅が20m、奥行きが42mの基盤を正面6本、側面13本のドリス式柱が囲んでいる。円柱の直径は1.4m、高さは6.7mありドラム4つから成っているのだそうだ。円柱には20本の溝が彫られ、当時は白い漆喰が塗ってあったと言う。

全ての柱は内側に僅かに傾けて建てられているらしい。パルテノン神殿のガイドさんが誇らしげに‘パルテノン神殿にかぎり水平な面と垂直な線はない’と言って柱は内側に7℃傾いているのだと説明していたのを思い出すが、ギリシャ人の神殿は綿密な計算に基づいて設計されているらしい。

コンコルディア神殿が完璧に近い状態で残ったのは6世紀にキリスト教の教会に転用され、柱の間が壁で塞がれていたので耐震補強の役割を果たしていたと言う説もあるそうだ。

ヘラクレス神殿

コンコルディア神殿から遠くに見える地中海の眺望を楽しんだ後、ヘラクレス神殿に向かう。
ヘラクレス神殿は神殿の谷の中では一番古くBC6世紀末に造られたとされている。

基盤は25m×67mでヘラ神殿やコンコルディア神殿より2回り大きかったらしい。カルタゴの襲撃や地震で破壊され、ローマ時代に再建されたがその後の地震で倒壊してしまったと言う。現在の8本の柱は20世紀に積み直されたものだが、ヘラクレス神殿らしくいかにも剛毅である。

ゼウス神殿

駐車場を挟んだ西側にゼウス神殿がある、と言ってもゼウス神殿は瓦礫の山である。BC480年にヒメラの戦いでカルタゴに勝利した記念に僭主テロンがゼウスに捧げるために建設を始めたとされているが、基壇が53m×110m、正面7本、側面14本の柱の直径は4mあったと言う。

あまりにも大規模であったので未完成に終わったそうだ。その後地震で倒壊したり、18世紀には港の建設に大量の石材が使われたので再建のしようがないらしい。

神殿の脇に囲いをして修復中の巨大な人像柱が横たわっている。7.5mもありテラモーネと言い、柱と柱の間で梁を支えていたものだが、ここにあるのはレプリカで本物は博物館にあるとのこと。

添乗員の説明では、ギリシャ神話でクロノスとゼウス兄弟が戦った時、クロノスに味方したテラモンはゼウスが勝利した後で、罰として天を支えるように命じられたが、腕と肩で重たいものを支える格好のこの人像柱はテラモーネと呼ばれているとのこと。

ギリシャ神話のティタノマキアでゼウスに破れ、天空を背負う罰を負わされたのはテラモンではない筈だが、ボケが進んだ頭では名前が出てこない。それに、テラモンは、たしかトロイ戦争の方だと思うのだが・・・・・

ペルガモン博物館の話をしても、添乗員が行ったことがないとかで話がかみ合わない。(帰国後、人像柱が何故テラモーネと呼ばれているのかいろいろと調べた。難渋した調査に興味のある方は→ 人像柱、テラモーネ?

考古学博物館

神殿の谷の見物が終わって博物館に向かう。
小ぶりな博物館であるがアグリジェントだけでなくこの地方から出土したものも展示されているそうだ。

アグリジェントの歴史が説明されているパネルを見て驚いた、3本の足を伸ばしたトリナクリナ陶器の写真がある。トリナクリナはシチリアがイタリアに統合された後、コンペか何かで当選したシンボルマークではないかと思っていたらBC430年頃からある由緒正しいものらしい。

黒絵や赤絵の壷、ライオンの頭の形をした雨水を落とす樋、アテナ神の頭部像などを見て回っていると、1、2階をぶち抜いた部屋に問題のテラモンが展示されている。
テラモンではないのでは?・・・・ 頭の隅に刺さった棘のように気にかかって仕方がない。

博物館の至宝とされる大理石の青年像はミュンヘンの展示に出張して留守とかで写真が貼ってある、残念だがよくあることなので諦めるしかない。

で、シチリア観光の最初の1日が終わる。ホテルに着いて近くのスーパーに行ったら、さすがに現地の人々が生活する物価が安い。いつもお土産にしているピスタチオはギリシャなんかの土産物屋の半値くらいで品質もよさそうだ。ミネラルも500mlのペットボトルが0.2€ と格段に安い。

2日目 パレルモ

マフィア、クアットロ・カンティ、マルトラーナ教会、プレトリア広場

モンレアーレ~パレルモ

マフィアの起源など

マフィアと言えば、ゴッドファーザーの衝撃が忘れられないし、最近でもナポリの街中のゴミの山の処分が進まないのはマフィアの利権が絡んでいるからだと報じられている。そのマフィア発祥の地はシチリアと言われているので、ここはひとつシチリア人にマフィアについて説明して貰う。(ホテルを出発する時、添乗員にガイドさんの話を聞きたいと頼んでおいたものだが、ガイドさんの話なのか、添乗員が自分のポケットから出したものか、定かでない)

マフィアの起源はシチリアの貧しい農村からと言われており、スペインの支配が弱まった18世紀末の頃だそうだ。
当時、大土地保有の地主や貴族はパレルモやナポリなどの都市に住み、ガベロットという農場管理人に年貢の取立てや農場の管理を行わせていた。

彼らは雇い主の無関心さを利用して年貢をごまかしたり、農地を又貸したりして農村を仕切り私服を肥やしていった。また、山賊や家畜泥棒から農地や財産を守る代償に用心棒代を上納させていた。このガベロットがマフィアの母体となったと言われているが、この時代はまだ1つの農村での親分的な存在で、どちらかと言えば牧歌的なものであったとのこと。

マフィアが今のように変質したのは20世紀に入り議会制民主主義が導入されてからで、普通選挙制度が始まるとマフィアは保守政党と結び、集票を請け負うようになり、中央政治権力と繋がりが深まっていった。ただ、この時点でもまだ農村を基盤とした暴力団的な存在であった。

ムッソリーニの時代には弾圧されていたが、第2次世界大戦でのシチリア上陸作戦ではアメリカのマフィアとシシリアのマフィアが協力したと言われ、マフィアが劇的な変化をとげるのは戦後、中東のヘロインをパレルモで精製しアメリカに送るルートを確立するなど麻薬取引に進出し莫大な収益をあげるようになってからだと言われている。

この資金はスイスやルクセンブルグで洗浄されてきれいなお金となって合法的な投資を装いさらなるマフィアの資金源となっている。さらにマフィアは土木工事などの公共事業も取り仕切るようになった。

国家がマフィアの壊滅作戦を始めると、マフィアは作戦指揮の将軍や判事を暗殺して抵抗した。その後も撲滅運動は続けられているが、何度も首相になっているアンドレオッティがマフィアとの癒着を疑われるなど、マフィアの裏での支配はいまでも続いているそうだ。

パレルモ観光

パレルモに戻って旧市街に入るとノルマン王宮が右手に見えてくる、旅行社のパンフレットではノルマン王宮のパラティーナ礼拝堂が観光予定となっていたが、最終日程表では、修理中とかで、マルトラーナ教会に変更になっている。

クアットロ・カンティ

パレルモの大聖堂を左に見ていると、添乗員が間もなくバスはクアットロ・カンティを通ります。車窓観光になるのでちらっとしか見られないので、前もって少し説明しておきます、「クアットロ・カンティは4つの角という意味でマエクダ通りとヴィットリオ・エマヌエル通りが交差する地点で、17世紀、スペイン支配の時代に造られたものです。

4つ角に面した建物の角を丸く切り取り、1階には四季を表す4つの泉、2階にはスペイン提督、3階はパレルモの守護聖女の像が配置されています、右に曲がりますがあっという間ですからよく見ていて下さい」

バスがカーブする瞬間に車窓からシャッターを押すので、クアットロ・カンティをうまくカメラに納められたかどうか分からない。

マルトラーナ教会

ベッリーニ広場の近くでバスを降りると、広場に面して2つの小さな教会が並んでいる、右は赤いドームが乗ったサン・カタルド教会で、左が観光予定のマルトラーナ教会である。

この教会のもともとの名前は海軍提督の聖母マリア教会(Santa Maria dell’Ammriraglio)と言って、ルッジェーロ2世の右腕だったシリア生まれのアンティオキアのジョルジュが1143年に建設を始めて聖母マリアに捧げた教会であった。が、12世紀末に隣に建てられたベネディクト派の修道院に接収されてマルトラーナ教会と呼ばれるようになったそうだ。

教会はローマ時代の城壁の上に建っているので、サン・カタルド教会との間の階段を上って鐘楼の下の扉から中に入るようになっている。バロック風のファサードは18世紀に増築されたものだが、現在は使用されていないとのこと。

入口のすぐ側にルッジェーロ2世がキリストから直接王冠を授かっている金地のモザイクがある。モンレアーレにあったものと同じというか、逆に、グリエルモ2世がノルマン王朝の信条に倣ったと言うことのようだ。

この後、内部を見回すとファサードの部分と後陣のところが、中央部分と一見して違うのが分かるが、創建時にギリシャ正教の正十字だったプランが縦長に増築されバロック風に装飾されたためのようだ。

中央に集まってガイドさんの説明を聞きながら天井を見上げると、4大天使に囲まれた全能のキリスト、キリストの誕生と聖母マリアの昇天、使徒などモンレアーレで見たのと同じ金色燦然としたモザイクがびっしりである。
このマルトラーナ教会のビザンチン様式のモザイクがシチリアでは一番古いのだそうだ。

聖母被昇天が描かれた主祭壇をちらっと眺めて、左側に移ると聖母マリアの足下にひれ伏する提督、ジョルジュのモザイクがある。添乗員によればこのモザイクが教会の中で一番有名なんだそうだ。

若くしてルッジェーロ2世の宰相に抜擢され、シチリア王国を築くために地中海を縦横無尽に駆け巡ったアンティオキアのジョルジュも頭髪やあご髭が白くなっているのが印象的であり、ひれ伏している姿が亀のように描かれているのがユーモラスである。

このあとトイレ時間の間に隣のプレトリア広場に行って、大理石像がたくさん並んだ円形の噴水をカメラにおさめる。

これでパレルモの観光はお仕舞い、ちょっと物足りない。いつも思うのだが、個人旅行は自分の足で歩くことが多く面から面に移動する感じだが、ツアーは点と点を線で動くので効率はよいが現地の実情にふれることがあまりない。今回はシチリアから南イタリアまでを6日で回る駆け足なので、その点と点をさらにつまみ食いする感じである。

4日目 ポルト

リベルダーテ広場、大聖堂、サンフランシスコ教会、サンデマン

ホテル出発はゆっくり目の9時半。
ポートワインのサンデマン見学が11時15分の予約がとなっているとかで、この時間に合わせてポルトの市内観光のスケジュールが組まれている。まずは10分ほど走ってリベルダーテ広場に着き、写真ストップ。

リベルダーデ広場

広場は南北に長く、中央にはドン・ペドロ4世の騎馬像が立っている(もっとも今は修復中とかでのため4角のカバーで覆われている)。

広場の両側の通にはポルトガル銀行など銀行や会社の建物が並んでいる。建物は花崗岩で造られ、硬い石に繊細な装飾が施されているのだそうだ。

広場にはジャングルジムのような骨組みが作られており、クリスマスツリーの準備をしているそうで、ヨーロッパで1番高いクリスマスツリーになるとガイドさん。右手のマクドナルドはエレガントな建物でマックのイメージとは似つかないが、もとはカフェだったと聞かされて納得。

ジャングルジムのはるか北方に市庁舎、広場の西方にはクレリゴス教会の塔、すぐ南にはサン・ベント駅があり、リベルダーテ広場に立って周囲を眺めると19世紀ポルトの落ち着きを感じる。

大聖堂

リベルダーテ広場から曲がりくねった坂道を5分ほど上っていくと大聖堂がある。

12世紀から13世紀、レコンキスタの最中に建てられ要塞の役割もしていたのでどっしりと堅固な形である。建物全体はロマネスク様式で建てられ、2本の塔など壁は厚く窓も小さいが、17世紀~18世紀に改修されゴッシックのバラ窓やバロック様式の入口が付け加えられたのだそうだ。

教会の中に入ると、身廊は飾りもなく簡素であるが、翼廊にはバロック様式のサクラメント祭壇がある。17世紀から19世紀にかけて段階的に作られたという銀製の祭壇で、表面は酸化のため黒光りしていて壮麗な感じである。

アズレージョの装飾がある回廊は日曜日のため閉鎖されているとかで、聖母マリアの化身という聖ヴァンドーマ像の金箔の祭壇をみて大聖堂の見物はおしまい。

前庭に立つ鉄柱のようなものはペロニーニョといって罪人を吊り下げるものそうだが、キリスト教の一面を垣間見る思いである。

サン・フランシスコ教会

大聖堂からドウロ川の方に5分ほど下ってサン・フランシスコ教会に。
この教会は14世紀に建てられ、内部は17世紀末から18世紀初頭にバロック様式に装飾されたそうだ。

今日は10月14日(日)、サン・フランシスコ教会は通常は博物館として使用されていて、年に1度だけミサが行われる丁度その日だとかで、入口を入ったところで見学。

内部をちらっと眺めるだけでも、天井、柱、壁、一面にやたら装飾で溢れている感じである。つる草や鳥、いろいろな動物などが木彫りされ、その上に金箔を貼った金泥細工なんだそうだ。正面の主祭壇や側面に並んでいる祭壇は絢爛豪華そのもの、キンキラキンでここまでやるのと言った感じである。

教会は静かにお祈りをして神と出会う場所であり、ましてサン・フランシスコ教会と言えば、清貧を旨とした聖フランシスコの流れをくむ教会の筈なんだが。

聖職者達はど派手な装飾に恐れをなし、この教会で礼拝が行われることは2度と無かったらしい。
現在では、年に1度だけミサが行われるようになっており、たまたまそのミサに出くわしたと言うわけだ。

写真禁止なので、中央祭壇とジョッセの木というキリストの家系図の絵葉書を買って、サン・フランシスコ教会の観光はおしまい。

サンデマン

ドウロ川の対岸にはポートワインのワイナリーが軒を並べていて、その内のサンデマンを見学する。案内人は母親が日本人、父親がポルトガル人とかで背が高く彫りの深い顔の若者で日本語がうまい。おばあちゃんがいる大阪に住んでいたことがあるそうだ。サンデマンの商標にもなっている黒いマントを纏った彼の案内でポートワインの種類や大樽やビン詰めなどで熟成されている工場を見た後、ドウロ渓谷で収穫された葡萄がポルトに運ばれポートワインが出来るまでのビデオを見る。

ポートワインは発酵の途中でブランデーを加えて発酵を止める酒精強化ワイン、特にヴィンテージは好天に恵まれた年の上質の葡萄から作るんだそうで、樽で2年間熟成させた後、ビン詰めして10年以上ねかせる最高品質のワインだそうだ。

この後、試飲となるが、せっかくのヴィンテージも残念ながら下戸には豚に真珠、うまさが分からない。

2日目 リスボン

4月25日橋、サン・ロケ教会、ロシオ広場

4月25日橋

バスがリスボンの中心に向けて出発してすぐに見えてくるのが全長2278mの4月25日橋である。

ガイドさんのお話、「この橋は1966年に造られた吊り橋で、かっては、サラザール橋と呼ばれていましたが、1974年4月25日に起きた若手将校の無血クーデターによる革命後は4月25日橋と改名されました。また、4月25日は自由の日として国民の祝日となっています。

サラザールは蔵相として経済を短期間に建て直し、国民的人気を得て1932年に政権についたのですが、第2次世界大戦後も30年に亘って独裁政権を続けました。このためポルトガルはヨーロッパの国々から孤立し国民は自由を奪われ近代化が遅れたと言われています」

お隣のスペインでも有名なフランコ総統の独裁政権が同じように続いていたが、フランコ総統が根っから軍人だったのに対してサラザールはコインブラ大学の教授であったとは驚きだ。人間、権力の座に長期に亘って座ると腐敗に至ると言うことは古今東西の真理のようだ。

ついでに、対岸に十字架のように見えるものは、十字架ではなく高さ110mのキリスト像で両手に広げてリスボンを向いているそうだ。

サン・ロケ教会

リスボンの中心部に戻る。リスボンは7つの丘の町と言われるそうで、西側の丘のバイロ・アルト地区の坂の途中にサン・ロケ教会がある。

サン・ロケ教会は16世紀の後半に建てられた教会で、修道院が併設されていたが イエズス会が18世紀後半に追放され修道院部分はなくなり、教会部分がサン・ロケ教会として今も残っているのだそうだ。建物は16世紀のものだが、内部の装飾は17世紀後半から18世紀前半のものだという。

サン・ロケ教会といえば、伊藤マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの天正遣欧少年使節団がヨーロッパで最初に宿泊した所としても知られている。彼らはキリシタン大名の名代としてローマ法王に拝謁するために1582年に長崎を出て2年半後にリスボンに着き、サン・ロケ修道院に26日間滞在したと言われている。

さて、サン・ロケ教会、平日も毎日ミサが行われているが、ミサは12時からなのでガイドさんの後について中に入る。

この教会の最大の見ものは左側奥にある洗礼者ヨハネの礼拝堂である。1742年にローマで作られた後、解体してリスボンに運ばれ再び組み立てられたと言われ、翡翠、アメジスト、めのう、ラピス・ラズリ、金、銀など当時の最高の材料をふんだんに使った絢爛、豪華な祭壇である。

ガイドさんに近づいて見ないと絶対に分からないからと促されて、正面の洗礼者ヨハネがキリストに洗礼を行っている場面が描かれている絵に近づいてテンペラ画かなと思っていると、「これは油絵ではありません、モザイクなんです」とガイドさんの解説がある。
えっえっと、もっと近づいて見るが、種明かしされても情けないことに油絵のようにしか見えない。

この後、話し上手の聖アントニオの足元に魚が集まって耳を傾けている様子が描かれている聖アントニオの礼拝堂、色彩豊かな天井画などを見てサン・ロケ教会の見物は終わり。

リスボンの中心部

リスボンは西側のバイロ・アルト地区と東側の丘のアルファマ地区に挟まれた平坦な地形にバイシャ地区があり、その北側にリベルダーテ通りがつながっている。

バイシャ地区はテージョ川に面したコメルシオ広場とロシオ広場に広がる繁華街で碁盤の目のように区画整理されている。
ガイドさんによれば、1755年11月1日、日曜日のミサが行われている時に大地震がリスボンを襲ったのだそうだ。マグニチュード8.5と言われ、リスボンは壊滅状態になり死者が3万~4万人にのぼったと言う。

リスボン復興の指揮したポンバル公爵はバイシャ地区を碁盤の目のように区画整理したのだそうで、真ん中にアウグスタ通り、両側にアウレア通り、プラタ通りなどがある。

コメルシオ広場やフィゲイラ広場などを車窓に見た後、ロシオ広場でバスを降りて金細工の店に連れて行かれるが買い物タイムとなるが、商売にはならなかったようだ。近くにサンタ・ジェスタのエレベータが見える。

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