4月25日橋

バスがリスボンの中心に向けて出発してすぐに見えてくるのが全長2278mの4月25日橋である。

ガイドさんのお話、「この橋は1966年に造られた吊り橋で、かっては、サラザール橋と呼ばれていましたが、1974年4月25日に起きた若手将校の無血クーデターによる革命後は4月25日橋と改名されました。また、4月25日は自由の日として国民の祝日となっています。

サラザールは蔵相として経済を短期間に建て直し、国民的人気を得て1932年に政権についたのですが、第2次世界大戦後も30年に亘って独裁政権を続けました。このためポルトガルはヨーロッパの国々から孤立し国民は自由を奪われ近代化が遅れたと言われています」

お隣のスペインでも有名なフランコ総統の独裁政権が同じように続いていたが、フランコ総統が根っから軍人だったのに対してサラザールはコインブラ大学の教授であったとは驚きだ。人間、権力の座に長期に亘って座ると腐敗に至ると言うことは古今東西の真理のようだ。

ついでに、対岸に十字架のように見えるものは、十字架ではなく高さ110mのキリスト像で両手に広げてリスボンを向いているそうだ。

サン・ロケ教会

リスボンの中心部に戻る。リスボンは7つの丘の町と言われるそうで、西側の丘のバイロ・アルト地区の坂の途中にサン・ロケ教会がある。

サン・ロケ教会は16世紀の後半に建てられた教会で、修道院が併設されていたが イエズス会が18世紀後半に追放され修道院部分はなくなり、教会部分がサン・ロケ教会として今も残っているのだそうだ。建物は16世紀のものだが、内部の装飾は17世紀後半から18世紀前半のものだという。

サン・ロケ教会といえば、伊藤マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの天正遣欧少年使節団がヨーロッパで最初に宿泊した所としても知られている。彼らはキリシタン大名の名代としてローマ法王に拝謁するために1582年に長崎を出て2年半後にリスボンに着き、サン・ロケ修道院に26日間滞在したと言われている。

さて、サン・ロケ教会、平日も毎日ミサが行われているが、ミサは12時からなのでガイドさんの後について中に入る。

この教会の最大の見ものは左側奥にある洗礼者ヨハネの礼拝堂である。1742年にローマで作られた後、解体してリスボンに運ばれ再び組み立てられたと言われ、翡翠、アメジスト、めのう、ラピス・ラズリ、金、銀など当時の最高の材料をふんだんに使った絢爛、豪華な祭壇である。

ガイドさんに近づいて見ないと絶対に分からないからと促されて、正面の洗礼者ヨハネがキリストに洗礼を行っている場面が描かれている絵に近づいてテンペラ画かなと思っていると、「これは油絵ではありません、モザイクなんです」とガイドさんの解説がある。
えっえっと、もっと近づいて見るが、種明かしされても情けないことに油絵のようにしか見えない。

この後、話し上手の聖アントニオの足元に魚が集まって耳を傾けている様子が描かれている聖アントニオの礼拝堂、色彩豊かな天井画などを見てサン・ロケ教会の見物は終わり。

リスボンの中心部

リスボンは西側のバイロ・アルト地区と東側の丘のアルファマ地区に挟まれた平坦な地形にバイシャ地区があり、その北側にリベルダーテ通りがつながっている。

バイシャ地区はテージョ川に面したコメルシオ広場とロシオ広場に広がる繁華街で碁盤の目のように区画整理されている。
ガイドさんによれば、1755年11月1日、日曜日のミサが行われている時に大地震がリスボンを襲ったのだそうだ。マグニチュード8.5と言われ、リスボンは壊滅状態になり死者が3万~4万人にのぼったと言う。

リスボン復興の指揮したポンバル公爵はバイシャ地区を碁盤の目のように区画整理したのだそうで、真ん中にアウグスタ通り、両側にアウレア通り、プラタ通りなどがある。

コメルシオ広場やフィゲイラ広場などを車窓に見た後、ロシオ広場でバスを降りて金細工の店に連れて行かれるが買い物タイムとなるが、商売にはならなかったようだ。近くにサンタ・ジェスタのエレベータが見える。