会津若松見物

昨春の弘前の桜見物に続いて、次の桜見物は会津若松にしようとわりと早くから決めていた。お城の桜のほかに会津若松には白虎隊があり野口英世が生まれたところでもあったりするので見どころはたくさんありそうだ。
会津若松の桜の満開は弘前より10日くらい早いらしいので、4月の19、20日の予定である。伊丹空港出発は10時45分過ぎ、この時間帯には出発便が少ないのかほぼ定刻の出発である。福島空港への飛行時間は1時間ちょっと。


伊丹空港を出発して30分ほど、去年は慌ててスマホで撮ったりしたのでもうひとつであったが、今回はあらかじめカメラの用意している。エリマキのような雲から白雪を抱いた頂上が顔を出している富士山は神々しく、ゆったりとすそ野を広げる富士山はあくまで雄大である。

手前のまだ雪をかぶった北アルプス連峰は恐竜のようである。


福島空港から郡山を経由して会津若松に向かう、途中車窓から磐梯山を拝む。
2時間ほど掛けて会津若松に到着。バスターミナル近くのビジネスホテルにチェックイン後、市内循環バスのハイカラさんで会津若松見物に向かう。

野口英世青春館

先ずは野口英世青春館:野口英世と言っても、猪苗代の生まれで刻苦勉励、アメリカに渡り梅毒や黄熱病などの研究をして成果をあげたが、アフリカで黄熱病の研究中、その黄熱病に罹り死んだ。千円札に肖像が載っている。と言うくらいしか知らない。

せっかく野口英世の故郷を訪れるのでウィキペディアで野口英世について調べてみた。類まれな才能に恵まれていたのは勿論であるが、それぞれの年代でよき理解者に恵まれていたことがよく分かる。その辺を頭に入れながら年譜を眺める。

1876年(明治9年) 猪苗代に生まれる、清作と名付けられる。1歳半の時、囲炉裏に落ち、大やけどで左手の指が癒着する
1889年(明治22年) (明治16年小学校入学)、成績優秀のため、教頭先生の小林栄の計らいで猪苗代高等小学校に入学。明治中期、高等小学校に上がるのは医者か村長など有力者の子息に限られていた
1892年(明治25年) 先生や同級生達の募金により、アメリカ帰りの医師・渡部鼎の手術を受け、不自由ながらも左手が使えるようになる。この手術に感激、清作は医師を目指すことになる
1893年(明治26年) 高等小学校を卒業後、渡部先生の会陽医院に書生として住込み、3年間医学の基礎や語学を学ぶ。渡部先生の友人の血脇守之助(高山高等歯科医学院の講師)と知り合う
1896年(明治29年) 小林先生等から40円と言う大金を借りて上京、医術前期試験に合格するも、放蕩のため金を使い果たし、下宿も退去させられる。血脇の一存で学院の寄宿舎に泊まり込んだり、血脇に策を授けて院長と交渉させ病院経営を任せて貰うなどして、ドイツ語の学習や後期試験の予備校など費用を血脇に捻出させる。
1897年(明治30年) 後期試験では臨床試験の打診が必須であることから、血脇の計らいで帝大で左手の再手術を受け、後期試験に無事合格する。開業資金や左手を患者見られたくないなどの理由で臨床医を諦め医学研究の道を歩む。血脇の計らいで高山高等歯科医学院の講師、順天堂医院の助手となる
1988年(明治31年) 順天堂医院長の紹介で伝染病研究所に勤める。「当世書生気質」を読み、改名を決意、小林から「英世」を与えられる。当時改名は認められていなかったが、策を練って改名に成功する。
1899年(明治32年) 来日したアメリカのフレクスナー博士の案内役を務める。清国のペスト対策班に選ばれるが、支度金96円を放蕩に使う、またも血脇に工面して貰う。
1900年(明治33年) 医師を目指す女性の婚約持参金でアメリカに渡航、北里柴三郎の紹介状でフレクスナー博士のもとでペンシルバニア大学で助手の職を得る。後に婚約持参金は血脇が返済する
1901年(明治34年)~ ロックフェラー医学研究所で梅毒、黄熱病などのの研究に従事。アフリカで黄熱病の研究中、黄熱病に罹り1928年死去、享年51。

こうしてみると、猪苗代時代の小林栄先生、会津時代の会陽医院の渡部先生、東京時代の血脇守之助先生、アメリカ時代のフレクスナー博士などなど周りには熱心な理解者がいて、温かい救いの手を野口英世に差し伸べていたことが分かる。とりわけ6歳年上の血脇先生には足を向けて寝れないのではないだろうか。


野口英世青春館:野口英世がやけどの手術を受けた会陽医院、2階に英世が刻苦勉励した部屋がそのまま残り、思い出の資料が展示されている。(野口英世記念館は猪苗代町にあり、こちらは言わば英世の青春編)

会陽医院の2階、この部屋で野口清作は医学の基礎や英語、ドイツ語など寝る間を惜しんで必死に勉強したお馴染みの穏やかで思慮深そうな表情。


小学校の試験成績表、大試験とあるが8名しかいない。清作の名が1番に載っている。
一緒に勉強した会津中学の卒業生達、清作は会津中学に通っていないはずなので、何かの縁で会津中学と繋がっていたのかも。


野口清作がキリスト教徒だっと初めて知った。英語の勉強の目的で教会に通ったのではないかと邪推する。
手術後の野口清作、左手首を布で覆っている。この手術で左手が動くようになり感激、医者を目指す。
会津女学校に通う山内ヨネに初恋、青春の淡い思い。山内ヨネは会津若松の医者と結婚する。


母シカの手紙、英世に手紙を出すためにシカは必死なって字を覚えた。誤字や書き間違いがあるが、英世は母が字が書けることを知らず、感激。1時帰国を決心する。
母と再会を果たすために帰国した時の書。