飯盛山

会津武家屋敷から飯盛山へは会津駅前に戻るルートになるので「ハイカラ」さんに乗って飯盛山下で降りる。飯盛山は高さ300mほどだが歩いて上るのはきついので蛇腹のような覆いをしたスロープコンベアーに乗る。


チケット売り場でもらった飯盛山案内チラシ、分かり易い案内図となっている。

さざえ堂

スロープコンベアーを降り、少し下ったところにあるさざえ堂に寄り道をする。
さざえ堂は高さ16m、6角3層のお堂であるが、螺旋階段状に上り下りが別の通路になって一方通行の造りなっているので観光客はすれ違うことがない。

10年ほど前にフランス、ロワールのお城巡りをしたときシャンボール城の螺旋階段で上り下りが別の通路になっていてすれ違いが起こらないのを経験した。レオナルド・ダ・ヴィンチが考えたものだと言うことであったが、さざえ堂の設計者はレオナルドを参考にしたのだろうか。


階段はなくスロープに桟が貼ってある

6角形の天井には千社札がいっぱい貼ってある

 

さざえ堂の前にある白虎隊霊像

白虎隊隊士の墓所

さざえ堂をちらっと見た後、頂上付近の白虎隊の跡を見る。先ずは白虎隊自刃の場を見るために順路標識に従って右手の細道を少し進む。

白虎隊自刃の側に最近立てられた立て札によれば、慶應4年(1868年)8月23日、年令16~17才で構成された士中2番隊の白虎隊は猪苗代から十六橋を越えて進撃した西軍と戸の口原で交戦するも敵の軍事力に圧倒されて退き、戸の口洞門をくぐってこの地に着いた。
炎上する城下を前に玉砕か帰城かを巡って激論を交わした。最終的に敵に捕らえられ屈辱を受けることがあれば主君や祖先に申し訳ない。この際は潔く
自刃し武士の本分を明らかにすべきとの決断にぜんいんが同意し、自刃した。なお隊士の内、飯沼貞吉が蘇生した。

隊士像が指さす方向に鶴ヶ城がある。隊士像の左には白虎隊隊士自刃の跡の碑が立っている、白虎隊隊士はここで自刃した。
白虎隊自刃の場所から会津若松市内を望む、鶴ヶ城は右手の隅にある。


白虎隊自刃の場所から会津若松市内を望む拡大図、よく見ると白いポールの向こうに鶴ヶ城が見える(白いポールは鶴ヶ城から飯盛山を眺めた時にも目じるしであった。)

白虎隊の自刃の地から戻り、隊士が眠る墓所に入る。


白虎隊の兵士が眠る墓所

16、17才で自決した少年たちには慰めの言葉もない。隊士に対し松平容保が弔歌を送ったらしいが、空々しい。

会津戦争時の政府軍は75000、会津側の正規軍は16、17才の兵士300人を入れて3500、農民など入れても10000人に満たなかった。その上、火縄銃に対し連発銃など兵器の差が比べものにならなかった。勝敗の行方は端から決しており、死者は城下の町民、婦女を入れると一説には数千名とも言われている。籠城1ケ月は自慢にも美談にもならない。江戸城が無血開城した以後の東北の戦いは避けるべきであったし、町民を含めた死者は無駄死にであった。仙台や米沢が仲介、降伏を勧めても会津は受入なかったと言われている。冷静に時代の先を読むことが出来ず、また目前の彼我の戦力の差も考えず、精神論がまかり通って主戦に走ったとすれば、容保を中心とした会津の上層部の責任は万死に値する。

七日町

会津若松見物の最後は七日町をぶらぶら。みそ田楽を食って会津若松見物はおしまい。


外観は和風造り、フランス料理をベースにした創作料理の店。


寛成年間創業の酒蔵、鶴の江酒造が会社の名前。会社によると中将は純朴な味わいの中に刻まれた歴史を感じるた確かな一品なんだそうだ。


定食食堂:奥会津食彩蔵、蔵造りの建物がレトロな感じである。奥会津の食材を使った料理を出すそうだ

創業嘉永年間の和菓子屋


もめん糸:会津伝統の木綿製品を扱っている


工房鈴蘭:伝統工芸品の漆器


渋川問屋:ひときわ大きい建物、郷土料理と宿を営んでいる


満田屋:元禄時代に創業した味噌専門店、豆腐生揚げ、まる餅、里芋など味噌田楽を美味しく頂いた(食い気に走って写真を撮ことを忘れたので会津若松観光ナビ(https://aizukanko.com/gourmet)の画像を借りた)


阿弥陀寺


御三階:鶴ヶ城本丸にあったのを明治3年に戦火で焼失した阿弥陀寺の本堂として移設したもの。御三階の外観は3階であるが中は4階となっており、2階と3階の間に低い部屋があり密談に使われてた言われている。


新選組の斉藤何がしの墓があるらしい。