世界のえーとこ見に行こう!!   

ご用とお急ぎのない方は、ごゆっくりどうぞ。

スポット: 教会・神殿 (6ページ / 8ページ)

7日目 クスコ

太陽神殿、カテドラル、サクサイワマン

メキシコ、アルゼンチン、ペルー旅行7日目

ペルー観光

リマ~クスコ

今日のモーニングコールは2時30分、厳しい。
リマ~クスコは45分ほどだが、クスコは今雨期、上空に着いても有視界飛行のため雲が厚いとリマに引き返すこともある。

ピストン輸送なので遅れは後になるほど影響が大きくなり、ツアーはどうしてもクスコに行かなければならいので朝1番のフライトとなると添乗員の説明。で、クスコの天気が良くなくて出発が遅れ、どうなるのかと心配していたが幸いにして、7時半にはクスコの空港に着陸する。

クスコ観光

クスコのホテルはサボイ。ロンドンで1度は泊りたいと思っているホテルと同じ名前なのだが・・・・。


クスコ地図…街はピューマの形に造られた。

クスコは標高3400m、高地に慣れるため午前中は部屋で休息し、昼食のあと市内観光のスケジュールとなっている。まず、添乗員に勧められるままにコカ茶を飲む。

インカにつての予習

スペイン人が1533年にクスコに入った時に目にしたものは神殿や歴代の皇帝の宮殿、地方首長の館、太陽の処女の館などが聳える壮観な都であった。さらに帝国の各地から集積した厖大な量の生産物などを保管する大倉庫群が立ち並んでいたとも言われている。

小部族に過ぎなかったインカをエクアドルからチリに至る4000kmの帝国に拡大させたのは9代皇帝パチャクティと10代皇帝のトゥパック・インカで僅々50年間のことであった。

インカは新たな支配地について、それまでの地方首長と共同体の土地から皇帝と神殿の土地を割譲させ4つに分割した。農民は家族の数に応じて共同体の土地から割り当てられた土地で自らの生活の糧を稼ぎ、皇帝と神殿の土地や首長の土地で働くことで納税する仕組みであった。エジプトのファラオの取り分は50%程度と言われているが、クスコの栄華を支えるインカ皇帝の税率はどうだったのだろう。

エジプトの6割くらいと言われる耕地面積に人口は3倍、ナイルの賜物もない段々畑の農民の暮らしはどうだったのだろう、旅行中にヒントが得られるだろうか?

急激に膨張した版図を治めるためには皇帝の権威をより高めなければならいので、皇帝は‘日の御子’とされ、だれであっても皇帝の目をみることはできず、皇帝の前では裸足になり、通訳を介して話さなくてはいけない。
また、皇帝の足が地面に触れると災いが起きると信じさせ、皇帝が外出する時にはさまざまな色の羽で飾られた黄金の輿で運ぶようになるなど神聖化していった。
勿論、精神論だけで権力の維持は出来ないので、宮殿や道路の建設に徴用した農民には労働の対価として倉庫に蓄えられた食料や衣料などを十分に支給したり、たびたび行われる祭典では奉納したリャマやパンなどを農民に分け与えることなど、再分配をおこなって皇帝の権威の経済的な下支えをしている。

皇帝の聖なる都、クスコは(インカ人はタワンティンスーユと呼んでいた、4つの地方の意味、)4つの部分に区画され、セケという放射線状に拡がった想像上の線の上に神殿や聖所が造られ、そのセケが収斂する中心が太陽神殿であった。神殿は帝国の各地から運ばれた黄金で飾られ、コリカンチャ(黄金の場所)と言われた。

ざっと、こんなところがエジプト旅行の時に読んでいたインカの予備知識?である。

コリカンチャ(太陽神殿)

クスコとマチュピチュのガイドさんは若い日本人女性、横浜の近くの出身とか。
クスコとプーノの観光にはお医者さんも同行して皆の症状を観察し、必要があれば声を掛けてくれるそうだ。

市内観光は、まずホテルから近いコリカンチャから。


太陽の神殿に向かう入口、左側はレプリカ


カミソリの刃も通さぬ石組み


こちらもカミソリの刃も通さない


中庭

中に入ると中庭の周りを太陽、月、星、雷、虹などの神殿が囲んでいる、太陽と月の神殿は教会を建てるときにスペイン人が壊してしまい太陽の神殿の1部と入口が残っているだけ。入口は2重になっていて、大切な場所であることを表している、インカ当時の石組みでカミソリの刃も通さないと言われる精巧さを味わって下さいとガイドさん。


星の神殿の窓

続いて星の神殿、星は天候、農耕や健康など天体観測や予言に重要で、ある星の輝きが良いと次の農期は旱魃になるとも言われていた。
星の神殿はほぼ完全に残っていて、壁は銀で飾られ、壁の20以上もある壁龕には宝石などが納められていたそうだ。半分壊されたような窓はスペイン人が皇帝の玉座があったところと聞いて宝石を捜した跡らしい。

神殿の横の壁の石組み壁はすこしふくらんでいる感じだが、正面の壁は1枚石のように精緻に仕上げられ、インカの石工の真髄をみせられた感じだ。


雷の神殿


虹、雷の神殿、内側に少し傾いている

反対側には雷や虹の神殿があり、星の神殿に比べると少しこぶりである。


雷の神殿の横の壁面の窓は次の部屋、その次の虹の神殿と同じ大きさ、同じ高さに造られていて見通すことができる。


虹の神殿の壁には指先ほどの太陽神殿で1番小さい石組みがある、石工がユーモラスに自分の技術を誇示したのだろうか。
2つの神殿の壁は内側にすこし傾斜しており、対震構造の技術が使われていた。


湾曲したカーブが見事な外壁

各神殿の入口や壁龕も台形になっていて安定度がよいのだそうだ。さらに石組みは、でっぱりとへこみを組み合わせたり、突起と穴を接合したり高度な技術が使われていて、2度の大地震で上の教会は壊滅してもインカの土台はびくともしなかったという。
神殿の中庭には、砂金が敷き詰められ、金で作られたトモロコシやリャマなどが置かれていたそうだ。


この後、カテドラルの外観や12角の石など見物してクスコの市内観光は終わり。

この頃から高山病で苦しそうな表情の人が3~4人でてくる、皆さん大なり小なり高山病に罹るが、自分は頭の後ろにすこし鈍痛があるだけで軽いほうだ。

サクサイワマン

バスが15分ほど走ったところにあるのがサクサイワマンの遺跡。クスコの地形はピューマの形をしていてここは頭の部分に相当するのだそうだ。サクサイワマンとは、‘鷹よ、腹いっぱい食べろ’という意味らしい。


サクサイワマン…360mのジグザグの石組み


巨大な石が積み上げられているが、何処からどのように運ばれてきたのか
がよく分かっていないらしい。

遺跡は大きな石を3層に積み上げて造られていて、最大の石は高さ4.9m、120トンもある。正面の幅は360m、頂上には3つの塔が建っていたと言われ、クスコの守りを固める軍事要塞であったとも言われている。


サクサイワマンからクスコ市街の眺め

ただ、地形的にみると、クスコを攻めるにはクスコ盆地の南から攻撃するすると思われるので、北西の高台に位置している要塞ではクスコを守りようもないと思われるがどうなんだろう。実際、クスコがスペイン人に占領された後、マンコ・カパクがここで戦ったと言われているが所詮、占領後の反乱でしかなかった。

宗教施設とするにはあまりにもデカ過ぎるし、観光客としてはサクサイワマンは皇帝の権威を誇示するための政治的、宗教的、軍事的な儀式の場所だったと解釈して納得することでどうだろう。


この後、タンボ・マチャイというインカ時代の沐浴場に向かう。年間、同じ量の水が湧き出る泉があり、サイホンの原理を利用して水を引いていると言われている。

今日の観光はこれでお仕舞い。わがガイドさんは、‘ハイ、これがインカの人たちの石組み、でっぱりとへこみをうまく組み合わせています’、‘この壁のへこみにはインカの各地から運ばれてきた金、銀や宝石を保管していました’などと目の前にある物を説明するだけ、太陽神殿がどのような意味を持つのか、インカがどのような時代であったのか、その匂いを嗅ぎ、想像する手助けをしてくれると思っていたが、就労ビザをとって3年の日本女性に期待するのが無理なのかも知れない。

6日目 イスタンブール

トプカプ宮殿、ブルーモスク、グランドバザール

トルコ旅行6日目 イスタンブール観光 その1
いよいよトルコ旅行も終わりに近づき、今日はイスタンブールに入ることになっている。

マルモナ海
チャナッカレのホテルを6時40分に出発、ダーダネルス海峡をフェリーで渡り、マルモナ海沿いを4時間、イスタンブール向かう。

イスタンブール

文明の十字路とも東と西の出会う場所と言われるトルコ。とりわけ、イスタンブールはボスボラス海峡を挟んでアジアとヨーロッパにまたがる街で、かってローマ帝国、ビザンチン帝国、オスマン帝国という3代続いた大帝国の首都であった。

ビザンチン帝国は地中海をローマの湖にした栄光の時代、第4次十字軍ではキリスト教徒に征服される屈辱など浮沈に翻弄されながらコンスタンティノープルを1000年も都とした帝国であった。

他方、アナトリアにたくさん存在した小さな地方勢力の一つ、オスマン・ベイの後裔、メフメット2世がコンスタンティノープルを陥落させ、ビザンチン帝国が滅亡したのが1453年である。
オスマン帝国は16世紀半ばには地中海のほぼ全域を支配し、500年近くイスタンブールに君臨していた。

トプカプ宮殿

アヤ・ソフィアの見学は明日の予定となっていて、今日はアヤ・ソフィア以外の市内観光である、で、先ずははトプカプ宮殿へ。

メフメット2世がボスボラス海峡と金角湾がマルマナ海と出会う三角地帯に新たに宮殿の建設を始めたのが1470年頃と言われ、スルタンが今まで住んでいた宮殿に対して、当時は新しい宮殿と呼ばれていた。
トプカプ宮殿と言われるようになったのは19世紀の中頃からで、海側のサライブルヌにあった門の名前、大砲門からトプカプ宮殿と呼ばれるようになったとのこと。


トプカプ宮殿 敬礼の門…第1の門(総門)をくぐり、第1中庭をぬけて敬礼の門
に進む。
敬礼の門の上には、コーランの最初の、’アッラーは唯一であり、ムハンマドは預言者である‘が掲げられている。

広大なトプカプ宮殿には3つの庭園があり、第1の庭園は祝賀、葬式などが行われたので儀式の広場、2番目の庭園への入口が敬礼の門である。


第2の中庭


塔の下の建物には政庁が置かれている。


厨房棟
第2庭園のよく手入れされた芝生と花壇を囲み左手にハレム、右に厨房棟が並んでいる。
480人もの料理人が毎日、5000~7000人分の食事を作っていたと言われている。

中に入ると現在は陶磁器の博物館になっていて中国の陶器が何部屋にも展示され、日本の伊万里の展示も一部屋ある。

厨房を出て向かいの部屋は銀の装飾品やクリスタルが展示されている。

 

銀の装飾品やクリスタルが展示を見た後、幸福の門をくぐると第3の中庭。
謁見の館、図書館、宝物舘、聖なる遺物室などガイドさんの説明を聞いた後、45分のフリータイム。


幸福の門


第3の中庭


謁見の館
謁見の間、玄関館


アフメット3世の図書館

別料金の宝物館は4部屋あり、甲冑、鉄砲、刀などの武具、ルビーやエメラルドの装飾品、純金製の象のオルゴール、スプーン屋のダイヤモンドと言われる86カラットのダイヤモンドなどを見て回る。


トプカプの短剣
3つの大きなエメラルドと先端に時計が付いたトプカプの短剣はトプカプ宮殿のシンボルと呼ばれているが、昨年初め大阪の歴史博物館で開かれたトルコ三大文明展で、その豪華さに息を飲んだものだ。

86カラットのダイヤモンド

スルタンの肖像画の部屋、ムハンマドの墓地の土や足跡を納めた箱などが展示されている聖なる遺品の部屋を見た後、イブラヒムの東屋で金角湾と新市街の眺望を楽しむ。


新市街の眺望

トプカプ宮殿は建物ではヨーロッパの豪華絢爛な宮殿には比べようも無いが、かって、地中海を支配した代々のスルタンが収集したコレクションの豊かさと豪華さは瞠目に値する。

(格安ツアーなのでトプカプ宮殿観光のハイライトの1つ、ハーレムは残念ながら見学すること能わず)

ブルーモスク

ブルーモスク…
6つのミナレット(尖塔)を持つブルーモスクは17世紀にスルタンアフメット1世により建てられたことから正式名称をスルタンアフメット・ジャミィと言われ、荘重なドームと鋭利なミナレットが調和し、均整のとれた美しさはイスラム建築美の水準の高さを物語っている。

アッラーは偉大なるかな、・・・・、いざ礼拝に来たれ・・・。
このミナレットから呼びかけるアザーンはさぞかし迫力のあるものではないだろうか。


中に入ると、中央にある大ドームは高さ43m、直径24m、4本の巨大な柱で支えられており、その4方を半円ドームが包み、さらにその半円ドームを3つの小さいドームが囲んでいて、宇宙に誘い込まれる感じである。
床に敷かれた絨毯は四角形の模様になっていてメッカに向かって祈る時に1人分のスペースになっている。壁が2万枚もの青色のタイルで飾られていることから一般にブルーモスクと言われているとのこと。

ガラタ橋から見るブルーモスク

オベリスク


ブルーモスクの西隣の広場はローマ大競技場の跡、かってニカの乱などあった場だが、現在はオベリスクが立っている。
このオベリスクはエジプトのルクソール、カルナック神殿にあった4本のうちの1本を持ってきたと言う。

グランドバザール


貴金属の装飾品から衣料、食料など小さい店がそれこそ無数に集まっている中東最大の屋内市場。迷路のように広がっているので横道に入ったら、必ず元のメインストリートに戻ってから、次の行動をとって下さいとガイドさんに釘をさされてフリータイム。

日本人の観光客がやたらと多いので、物売りの子供も色んな日本語を教えられているようだ、 ‘トシヨリ オカネナイ’、などなど。
グランドバザールのおすすめは入口にある両替屋、一番有利なレートが出るとガイドさんも太鼓判。

グランドバザールを見物して今日の観光は終わり、ハギヤ・ソヒアは月曜日が閉館のため、明日午後の観光予定になっている。
イスタンブールの宿はコンラッド、中心地から少し離れているが、5星のボスボラス海峡ビューの部屋と豪勢だ。

夕食がついていないので、ガイドさんおすすめのトルコ料理店、ハジュ・ババに名古屋から参加のご夫婦と行くことにしていたら、金沢の新婚さんも乗っかって5人でタクシィム広場へ。トルコ料理店だからアルコールは出ませんよと言われていたが、ビールもワインもOK。ただし、名古屋のご夫婦も新婚さんもアルコールはだめだったが、5人が食べて7千円ほどなのでこれもびっくり。食後、イスティクラール通りをぶらぶらする。

5日目 ベルガマ

ペルガモン遺跡、トロイア(トロイ遺跡)

トルコ旅行5日目 イズミール
ペルガモン遺跡、トロイ遺跡観光

今日はモーニングコールが6時半、8時の出発で、いつもより30分遅い。疲れ気味なので助かる。

宿泊のホテルからの眺め…イズミール港に軍艦が停泊している。

今日はモーニングコールが6時半、8時の出発で、いつもより30分遅い。疲れ気味なので助かる。アレキサンダー大王の東征により、ほぼトルコ全土が支配下に入っていたが、紀元前323年に大王が急死した。
トルコ西海岸の地では12将官の一人リシマコスが大王の遺産を運んで来たがイズミールで戦死、その後、遺産を管理していたフィレタイロスがペルガモン王国を築いたと言われている。ペルガモン王国は小アジアなどとの交易で繁栄し、ヘレニズム文化がアクロポリスに開花したのだそうだ。

紀元前129年、ローマ人はアッタロス3世の遺言だと偽り、小アジアの全ての領土をローマ皇帝に寄進させたと言われ、以後この地はローマの属州となるが、ヘレニズム都市として繁栄が続いたらしい。

ペルガモン神殿の想像図

アクロポリス

ペルガモン遺跡
バスがベルガマの町をくねくねと抜け、300mほどの丘を登ってペルガモン遺跡に着く。

アテナ神殿


アクロポリスで最も古い遺跡、紀元前4世紀に造られた。現在は回廊の礎が残るだけだが、当時は瀕死のガリア人などヘレニズム芸術で飾られていたと言う。

トラヤヌス神殿

ローマ皇帝トラヤヌスに捧げられたこの神殿はすべて大理石で正面6柱、側面9柱でコリント様式。現在残っている遺跡からも建設当時の壮麗さが容易に想像される。

図書館

アレキサンドリアの図書館に比肩する20万巻の蔵書を誇った図書館で、脅威を感じたエジプトがパピルスの輸出を禁じたと言われている。

劇場


山の南西斜面を利用して造られた扇形の劇場だが、高低差が100m近くあり1万5000人を収容できたらしい。舞台はなく演劇などが催される時には木で組まれたとのこと。

ゼウス大祭壇


劇場の最上段からすぐ近いところにゼウスの大祭壇の礎が残っている。ガリア人に勝利した記念にゼウスに捧げられた祭壇で、神と巨人族との戦いを描いた全長120mのレリーフで飾られていた。ヘレニズム芸術の傑作の一つと言われるが、トルコにはなくドイツによって持ち出されベルリンのペルガモン博物館に展示されているそうだ。一度は訪れて見たいものだ。(ベルリン、ペルガモン博物館へ)

アスクレピオン


アクロポリスから川をへだてた対岸の丘の上にたつアスクレピオンは総合医療施設で紀元前4世紀から800年近く営まれていた。
遠くローマあたりからも治療に訪れ、700人くらいを収容していたと言われる。治療は暗示による精神療法、投薬、リハビリ、観劇などレクレーションなど当時の先端医療が行われていたとか。


入口を入り石畳の聖なる道を150mくらい進んだ広場にへびとお椀の彫刻がされた円柱が残っている、ガイドさんによれば重病人が絶望してへびの毒をのんだら逆に病気が治ったという言い伝えを表しているのだそうだ。広場の中央には聖なる泉があり、患者はここで身を清めてから地下道を通って治療棟に向かったとのこと。


昼食の後、1時間半ほど走って、シュリーマンが神話を史実として発掘し世界を驚かせたトロイの遺跡へ。

トロイ遺跡


トロイ想像図
ギリシャ神話のなかで最も美しい女性といわれるヘレナをトロイアのパリスが略奪したことから始まるトロイア戦争はホメロスの叙事詩でよく知られているが、このギリシャ神話がお話ではなく歴史であることを発見したのがドイツのシュリーマンである。歴史としてはパリスの略奪から戦いが始まったわけではなく、エーゲ海を挟んで繁栄していた二つの勢力が経済的政治的覇権をかけて争ったということになる。
トロイ戦争があったのは紀元前1200年頃のことであるが、トロイは紀元前3千年からローマ時代まで戦火で滅んでは、また新しくその上に建設したので第1市から9市(9層)の遺跡が複雑に絡んでいる。


入口を入って東の塔と城壁が第6市の遺構で、しっかりとした石積みが残っている。6市かその上の7市あたりがトロイ戦争時代のものだといわれている。

シュリーマンがトロイの宝を掘り出した悪名高い第2市、 聖域、石畳の坂、年代層の入組んだ遺構、劇場などを見て回る。入口の横に作られている木馬はお愛嬌と言うべきか。

4日目 アブシンベル

大神殿、小神殿

エジプト旅行4日目 アブ・シンベル観光
ヌビア地方、アブ・シンベルはアスワンの南約280kmにあり、飛行機で45分、シャトル便で荷物は機内に置いたままの観光となる。

アブ・シンベル大神殿

神殿はアスワンハイダム建設時に水没する危機にみまわれたがユネスコのキャンペーンによって救済され、もとの位置より60m上に移設されたことがよく知られている。

この神殿を造ったのは建設王と言われたラムセス2世だが、それにしてもカイロから1200km、テーベからも500kmも離れたヌビアの地に巨大な神殿をつくったのは何故だろうか?

古王国時代のカフラー王が岩山をくり抜いてスフインクスを造った故事に倣って、この地の岩山に自分の権力をエジプト人やヌビア人に見せつけるために巨大な彫刻作品を作ったとも言われているが、ヌビア地方が鉱物と原料の宝庫でエジプトへの供給地であったために巨大な神殿を作り人々に権力を誇示する必要があったのではないだろうか。

岩山をぐるっと回って大神殿の正面にでると、ラムセス2世の坐像が神殿の入口を挟んで2体づつ4体並んでいる。おうっ・・、これは何だと言う感じで、エジプトに入って3日目、大きいものにも慣れてきている筈だが、この22mをこえる巨大な像には圧倒される。
また、王の顔が生き生きとしており古代エジプトの美術水準の高さに感心する。
入口の上にはハヤブサの頭を頂いた太陽神が彫られ、一番上にはヒヒたちが並んで太陽を拝んでいてユーモラスである。
神殿内に入ると列柱室があり、オリシス神の姿をした柱が4本ずつ8本並んでいる。

列柱室の壁には有名なヒッタイトと戦ったカディシュの戦いの場面が描かれている。
鉄器と青銅器の差で大敗を喫したにも拘らずエジプト軍の大勝利として描かれているのは宣伝上手のラムセス2世のお愛嬌なのかもしれない。

列柱室を抜けると前室を経て、至聖所に入る、4体の像があり、右からラー・ホルアクティ、ラムセス2世、アメン・ラーとプタハ神である。
至聖所は普段は薄暗い部屋だが、年2回、春分の日と秋分の日の夜明けだけに太陽の光は坐像のうち右の3体を照らすように設計されていたと言うからその緻密な計算にはびっくりさせられる。

ただ、移設する時にわずかなずれが生じたために1日遅れになっているらしい、現代技術がおくれをとったのだろうか。

小神殿

大神殿を北に少し歩くと、ラムセス2世が王妃ネフェルトイリのために造った小神殿がある。エジプト3大美女の1人とはいえ、神殿をプレゼントされるとはどんな気がするのだろう。


小神殿
正面にはラムセス2世とネフェルトイリの立像6体並んでいて、左右の端から2人目がネフェルトイリで2本の羽根、雌牛の角、太陽円盤を戴いたハトホル神として表されている。

入口の壁には王妃の前でアメン神とホルス神のために敵を殺す王が描かれていて、部屋の壁にはハトホル女神とイシス女神が王妃に戴冠しているところなど、奥の至聖所の壁にはラメセス2世を守護するハトホル女神が描かれていて保存状態もよい。

アブ・シンベル神殿はその後、長く砂に埋もれてしまい、小神殿はイスラムの時代から知られていたらしいが、大神殿が発掘されたのは19世紀になってからのことらしい。

3日目 アスワン

エドフ神殿、コムオンボ神殿、アスワン観光

エジブト旅行3日目
エドフ、コム・オンボ、アスワン観光

今日はバスでルクソールを出発し、エドフとコム・オンボの観光をした後、アスワンに移動することになっている。
警察の車に前後を警護されながらの走行なので、7時にホテルを出る。警察署の前で10台ほどの大小のバスが隊列を組み7時半にアスワンに向けて出発する。

エジプトにとって観光は国家収入の30%を占める重要産業なので、97年に起きた原理主義者による観光客の殺戮がまた発生するとエジプト経済への打撃が大きいのでピリピリするほど警戒しているようだ。

ナツメヤシの林や砂糖キビ畑の広がるのどかな農村地帯を2時間ほど走ってエドフに着く。エドフはグレコローマン時代には上エジプトの州都とされた町だ。

エドフ神殿

ホルス神殿はなぜかナイル川の西岸にある。

エドフ神殿 第1門塔…保存状態が屋根が残っている


第1門塔のレリーフ…ホルス神が上エジプトの冠をつけている。

プレトマイオス朝時代のもので巨大な門塔には王がホルス神の前で敵を打ち負かす様子が描かれている。
第1列柱室の前には二重王冠を被ぶりハヤブサの姿をしたホルス神像が佇んでいて写真撮影のスポットとなっている。

第1列柱室に入ると、柱にはコリント様式の装飾がされている、この列柱室には天井も残っていてエジプトの神殿のなかでは最も保存状態がよい神殿とされている。

壁にはあちこちにホルス神のレリーフが刻まれている。


至聖所

第2列柱室の奥には前室、至聖所が続いている、前室の天井は黒くすすけているが、後にキリスト教徒が台所にしていたためらしい。

コム・オンボ神殿

エドフを出発して1時間あまりでコム・オンボに到着。
コム・オンボ神殿はプトレマイオス時代に建てられ、ローマ時代に完成した神殿でギリシャのパルテノン神殿を思わせる様式である。
この神殿の最大の特徴は塔門の入口、通路、至聖所もそれぞれ2つあり神殿全体が二重構造になっていることで、ハヤブサの頭を持つハロエリス神とワニの頭を持つソベク神の2つの神に捧げられたものと言われている。
神殿の壁には太陽の運行をもとにした暦に1年の行事が詳しく刻まれていた。

手術の器具、骨を切るノコギリ、歯の治療器具などの医学、出産の様子などレリーフがあり興味深い。

ガイドさんが指差しているのが出産の様子

また、神殿の右手のハトホル神礼拝堂にはワニのミイラが保存されている。


コム・オンボ の観光を終え、40分ほどでアスワンに着く。昼食の後は切りかけのオベリスクのある石きり場に向かう。
古代エジプトで巨大なオベリスクをどのようにして切り出したのか興味深いが、切りかけのオベリスクをみるとその技術が分かる。
まず石に切り込みをつけてそこに木のくさびを打ち込み、次にくさびを水でぬらす、そうするとくさびが膨張し、自然に石が割れてくる。
滑らかな切り口になりますとガイドさんの説明。

岩の亀裂が原因で切り出しが中止となったオベリスクは長さ41.75m、重さ1152tあり最大のオベリスクになる筈であった。
アスワンの石切り場からテーベに運ぶには筏を組んでナイル川の増水を待ったとのこと。
石切り場…切り出し途中のオベリスク。

石切り場を見た後、バスはアスワンハイダムへ。
ハイダムは幅3,600m、高さ111mの巨大なダムで1970年、ドイツとソ連の協力で完成した。
海のような人造湖でナセル湖がはるか南に300kmも続いている。このダムによってナイル川の氾濫をコントロールすると同時にエジプトに電力を供給している


アスワンハイダム

Page 6 of 8

© 2017-2026 世界のオモロイところ見に行こう!!.