リマ~クスコ

今日のモーニングコールは2時30分、厳しい。
リマ~クスコは45分ほどだが、クスコは今雨期、上空に着いても有視界飛行のため雲が厚いとリマに引き返すこともある。

ピストン輸送なので遅れは後になるほど影響が大きくなり、ツアーはどうしてもクスコに行かなければならいので朝1番のフライトとなると添乗員の説明。で、クスコの天気が良くなくて出発が遅れ、どうなるのかと心配していたが幸いにして、7時半にはクスコの空港に着陸する。

クスコ観光

クスコのホテルはサボイ、ロンドンで1度は泊りたいと思っているホテルと同じ名前なのだが・・・・。

クスコは標高3400m、高地に慣れるため午前中は部屋で休息し、昼食のあと市内観光のスケジュールとなっている。まず、添乗員に勧められるままにコカ茶を飲む。

インカにつての予習

スペイン人が1533年にクスコに入った時に目にしたものは神殿や歴代の皇帝の宮殿、地方首長の館、太陽の処女の館などが聳える壮観な都であった。さらに帝国の各地から集積した厖大な量の生産物などを保管する大倉庫群が立ち並んでいたとも言われている。

小部族に過ぎなかったインカをエクアドルからチリに至る4000kmの帝国に拡大させたのは9代皇帝パチャクティと10代皇帝のトゥパック・インカで僅々50年間のことであった。

インカは新たな支配地について、それまでの地方首長と共同体の土地から皇帝と神殿の土地を割譲させ4つに分割した。農民は家族の数に応じて共同体の土地から割り当てられた土地で自らの生活の糧を稼ぎ、皇帝と神殿の土地や首長の土地で働くことで納税する仕組みであった。エジプトのファラオの取り分は50%程度と言われているが、クスコの栄華を支えるインカ皇帝の税率はどうだったのだろう。

エジプトの6割くらいと言われる耕地面積に人口は3倍、ナイルの賜物もない段々畑の農民の暮らしはどうだったのだろう、旅行中にヒントが得られるだろうか?

急激に膨張した版図を治めるためには皇帝の権威をより高めなければならいので、皇帝は‘日の御子’とされ、だれであっても皇帝の目をみることはできず、皇帝の前では裸足になり、通訳を介して話さなくてはいけない。また、皇帝の足が地面に触れると災いが起きると信じさせ、皇帝が外出する時にはさまざまな色の羽で飾られた黄金の輿で運ぶようになるなど神聖化していった。

勿論、精神論だけで権力の維持は出来ないので、宮殿や道路の建設に徴用した農民には労働の対価として倉庫に蓄えられた食料や衣料などを十分に支給したり、たびたび行われる祭典では奉納したリャマやパンなどを農民に分け与えることなど、再分配をおこなって皇帝の権威の経済的な下支えをしている。

皇帝の聖なる都、クスコは(インカ人はタワンティンスーユと呼んでいた、4つの地方の意味、)4つの部分に区画され、セケという放射線状に拡がった想像上の線の上に神殿や聖所が造られ、そのセケが収斂する中心が太陽神殿であった。神殿は帝国の各地から運ばれた黄金で飾られ、コリカンチャ(黄金の場所)と言われた。

ざっと、こんなところがエジプト旅行の時に読んでいたインカの予備知識?である。

太陽神殿

クスコとマチュピチュのガイドさんは若い日本人女性、横浜の近くの出身とか。
クスコとプーノの観光にはお医者さんも同行して皆の症状を観察し、必要があれば声を掛けてくれるそうだ。

市内観光は、まずホテルから近いコリカンチャから。
中に入ると中庭の周りを太陽、月、星、雷、虹などの神殿が囲んでいる、太陽と月の神殿は教会を建てるときにスペイン人が壊してしまい太陽の神殿の1部と入口が残っているだけ。入口は2重になっていて、大切な場所であることを表している、インカ当時の石組みでカミソリの刃も通さないと言われる精巧さを味わって下さいとガイドさん。

続いて星の神殿、星は天候、農耕や健康など天体観測や予言に重要で、ある星の輝きが良いと次の農期は旱魃になるとも言われていた。
星の神殿はほぼ完全に残っていて、壁は銀で飾られ、壁の20以上もある壁龕には宝石などが納められていたそうだ。半分壊されたような窓はスペイン人が皇帝の玉座があったところと聞いて宝石を捜した跡らしい。

神殿の横の壁の石組み壁はすこしふくらんでいる感じだが、正面の壁は1枚石のように精緻に仕上げられ、インカの石工の真髄をみせられた感じだ。

反対側には雷や虹の神殿があり、星の神殿に比べると少しこぶりである。雷の神殿の横の壁面の窓は次の部屋、その次の虹の神殿と同じ大きさ、同じ高さに造られていて見通すことができる。

虹の神殿の壁には指先ほどの太陽神殿で1番小さい石組みがある、石工がユーモラスに自分の技術を誇示したのだろうか。
2つの神殿の壁は内側にすこし傾斜しており、対震構造の技術が使われていた。

各神殿の入口や壁龕も台形になっていて安定度がよいのだそうだ。さらに石組みは、でっぱりとへこみを組み合わせたり、突起と穴を接合したり高度な技術が使われていて、2度の大地震で上の教会は壊滅してもインカの土台はびくともしなかったという。
神殿の中庭には、砂金が敷き詰められ、金で作られたトモロコシやリャマなどが置かれていたそうだ。

この後、カテドラルの外観や12角の石など見物してクスコの市内観光は終わり。

この頃から高山病で苦しそうな表情の人が3~4人でてくる、皆さん大なり小なり高山病に罹るが、自分は頭の後ろにすこし鈍痛があるだけで軽いほうだ。

サクサイワマン

バスが15分ほど走ったところにあるのがサクサイワマンの遺跡。クスコの地形はピューマの形をしていてここは頭の部分に相当するのだそうだ。サクサイワマンとは、‘鷹よ、腹いっぱい食べろ’という意味らしい。

遺跡は大きな石を3層に積み上げて造られていて、最大の石は高さ4.9m、120トンもある。正面の幅は360m、頂上には3つの塔が建っていたと言われ、クスコの守りを固める軍事要塞であったとも言われている。

ただ、地形的にみると、クスコを攻めるにはクスコ盆地の南から攻撃するすると思われるので、北西の高台に位置している要塞ではクスコを守りようもないと思われるがどうなんだろう。実際、クスコがスペイン人に占領された後、マンコ・カパクがここで戦ったと言われているが所詮、占領後の反乱でしかなかった。

宗教施設とするにはあまりにもデカ過ぎるし、観光客としてはサクサイワマンは皇帝の権威を誇示するための政治的、宗教的、軍事的な儀式の場所だったと解釈して納得することでどうだろう。

この後、タンボ・マチャイというインカ時代の沐浴場に向かう。年間、同じ量の水が湧き出る泉があり、サイホンの原理を利用して水を引いていると言われている。

今日の観光はこれでお仕舞い。わがガイドさんは、‘ハイ、これがインカの人たちの石組み、でっぱりとへこみをうまく組み合わせています’、‘この壁のへこみにはインカの各地から運ばれてきた金、銀や宝石を保管していました’などと目の前にある物を説明するだけ、太陽神殿がどのような意味を持つのか、インカがどのような時代であったのか、その匂いを嗅ぎ、想像する手助けをしてくれると思っていたが、就労ビザをとって3年の日本女性に期待するのが無理なのかも知れない。