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6日目 ロンドン

大英博物館 中東部門(Middle East) その4

Room55(アッシリア~新バビロン(BC1500~BC539))

洪水伝説の粘土板(ニネヴェ アシュールバニパル図書館出土、BC650年頃、縦15cm・横13.5cm、粘土)

ギルガメシュ叙事詩の第11章、このなかでウタナビシュティムは神々が人類を滅亡させるために起した洪水の話をギルガメシュに聞かせる。エア神に洪水に気をつけるよう注意されたウタナビシュティムは舟をつくり、その中に家族とあらゆる種類の動物を乗せ難をのがれる。洪水が引いた時、神々はウタナビシュティムが難を免れたことを知り、彼に不死の生命を与えたと言う。

聖書の創世記で有名なノアの方舟のネタ元ではないかとされるのが、ギルガメシュ叙事詩のこの第11章である。ギルガメシュはBC2600年頃のウルク第1王朝の伝説的な王で、死後、間もなく神格化され数多くの神話に登場し、ギルガメシュ叙事詩と呼ばれる説話にまとめられた。

物語をはしょりに端折ると、ギルガメシュは、3分の2が神で3分の1が人間と言う人物であり、暴君であった。このため、神は粘土からエンキドを造り、ギルガメシュと戦わせたが決着がつかず、結果、二人は親友となりさまざまな冒険に出かけることとなる。杉を求めた旅では森を守る怪物を殺して杉を持ち帰ったが、森の番人を殺したかどでエンキドは神に命を差し出すことになる。

エンキドが死んだことでギルガメシュは自分もまた死すべき存在であることを悟り、不死を求めて旅に出る。多くの冒険の後に、大洪水から方舟を作って逃げることで永遠の命を手に入れたウトナビシュテムに会い、不死の薬草のありかを聞きだして苦難の末に手に入れるが、蛇に横取りされ食べられてしまう。失意に打ちひしがれてギルガメシュはウルクに戻るというのである。(ギルガメシュが折角手に入れた不死の薬草を攫ったのが蛇だったのは、脱皮を繰り返す蛇が不死を暗示して興味深い)

ギルガメシュ叙事詩は、その後、アッカド語やアッシリア語など各国の言葉に翻訳され2000年以上にわたってメソポタミアの人々が最も好んだお話である。洪水伝説の粘土板はアシュールバニパル王が収集して図書館に納めたアッシリア語の粘土板の1つである。


大洪水から方舟で逃れるところが書かれている。

バビロニアの世界地図(シッパル出土、BC7~6世紀、縦12.2cm・横8.2cm 粘土)

世界を‘苦い水’と呼ばれる水の輪で囲まれた円盤であると考えていたバビロニア人の地図である。バビロニアが世界の中心に位置し、ユーフラテス川がバビロニアを通り抜けてペルシャ湾に注いでいる。円で囲まれたなかに国や都市があり、円盤の周りには伝説的生物が住む地域が8つの3角形で示されている。上部には洪水伝説のウタナビシュティムについての記述もあるそうだ。

Room56(先史時代~シュメール・アッカド、古バビロン(BC6000~BC1500))

宝石で飾られた女性の胸像(ウル王墓出土、初期王朝(BC2600年頃)、頭部の高さ63cm、金、銀、ラピスラズリ、紅玉)

マネキンが着けている宝石類はウルの王墓の玄室に通じる‘死の大坑道’から出土した。木の葉の形をした金のヘヤーバンドが髪を取り巻き、丸いワッカのような飾りが目許まで垂れ下がっている。大きなイヤリングは金製、10連のネックレスはラピスラズリなどの貴石で作られている。また、頭の上の金製の3本の花冠のようなものは櫛だそうだ。

華麗としか言いようがないが、この宝石類を着けた女性は王や王妃が死んだ時に一緒に葬られる殉死だと言う。初期王朝時代の風習が垣間見られて興味深い。

ウルのロイアルゲーム(ウル王墓出土、初期王朝(BC2600年頃)、長さ30.1cm・幅11cm、貝殻、ラピスラズリ、赤色石灰岩)

外枠の木材は腐食して無くなっているが、中の貝殻、ラピスラズリ、赤色石灰岩はそのまま残っていたのでオリジナルの形が復元されているらしい。盤には20のマスがあり、花柄模様、幾何学的な目の模様、5つの円形の点模様がそれぞれ5マスある。

残りの5つのマスの模様はいろいろである。ゲームは双六に似ているようで、両端からスタートしてサイコロを振って出た目の数だけ進み相手方に早く着いた方が勝ちとなるようだ。花柄模様のマスではオマケでいくつか進むことが出来たのかもしれない。贅をこらしたゲーム盤が5千年近くも前に作られていたとは驚きであるが、シュメールの文化がそれほど高かったと言うことのようだ。

茂みの中の子羊像(ウル王墓出土、初期王朝(BC2600年頃)、高さ45.7cm、金、銀、ラピスラズリ、貝殻、赤色石灰岩)

発掘者のレオナルド・ウーリーは‘茂みの中の子羊’と名付けたが、聖書の物語を好んだ彼はアブラハムがイサクを神に捧げようとした最後の瞬間に子羊を見つけてイサクの身代わりとした場面を連想して子羊としたようである。だが、より正しくは山羊なんだそうだ。美味しそうな木の枝の葉っぱに飛びついているポーズは通常は山羊が描かれるのだそうだ。

山羊像の本体は木製であるが、顔と4本の足には金箔が張られ、耳は銅である。捩じれた角と肩の毛はラピスラズリ、腹の毛は貝殻で作られ瀝青で固定されている。金の花のついた立ち木は金箔で覆われ、貝殻、赤色石灰岩、ラピスラズリのモザイクが施された台座で支えられている。子羊の肩から出る管は椀のようなものを支えるためのものではないだろうかと言われている。

ウルのスタンダード(ウル王墓出土、初期王朝(BC2600年頃)、縦22cm・横50cm、貝殻、赤色石灰岩、ラピスラズリ)

発掘者がこれは棒の上に乗せて軍旗のように使われたのではないかと言ったことから‘ウルのスタンダード’と呼ばれているが、楽器の共鳴箱の一部だとする説もあるようだ。

戦いの時に、これを例えば棒の上に乗せたとして、戦闘の激しい動きに耐えるように固定できるのか、また固定できたとしてもこれが部隊の士気高揚や団結に資するとも思えないので軍旗とするにはちょっと無理なようだ。

発掘された時には、貝殻、赤石灰岩やラピスラズリのモザイクの木製の外枠は消滅し、画面も潰れ、接着の役割をしていた瀝青も分解していたので、現在の画面はオリジナルに最も近いものをイメージして修復したものだと言う。

画面は‘戦争と平和’として知られており、戦争の画面ではシュメールの最も古い軍の様子を描いており、ロバに引かれた戦車が敵を踏みつける場面、また斧で敵歩が殺される場面、裸の捕虜が行列して王のところに連れて行かれる様子が描かれている。
反対側の平和の場面には王と廷臣たちが音楽の奏でられる中で饗宴を楽しみ、そこへ捕虜が戦利品を運んでくるシーンが描かれている。

(サムネイル画像をクリックするとフルサイズ画像になります。画面中ほどの右側矢印をクリックすると次の画像に進み、左側矢印をクリックすると戻ります。画面右下の○にペケの入ったマークをクリックするとサムネイル画像に戻ります)

6日目 ロンドン

大英博物館 中東部門(Middle East) その3

Room10

Room10はアッシュールバニパル王の有名なライオン狩やユダ王国のラキシュ攻略などのレリーフが展示されていて、アッシリア展示の白眉である。先ずはライオン狩から、

ライオン狩

アッシリアのライオン狩は王のためのスポーツであり、また、自らの力を誇示する政治的、さらに神の庇護を得る宗教的な意味を持つと何かで読んだ気がするが、Room10の入口のパネルには、‘アッシリアの王はあらゆる敵から民を守らなければならなかった。この義務は王の印章(シール)でも象徴的に表されており、そこでは王はライオンと向かい合って剣をライオンに突き刺しているところが描かれている。

前7世紀の中頃にはアッシリアは充分な雨に恵まれる年が続いたのでライオンは何処にでもいるという状態であった。アッシュールバニパルの記録によれば、民が住んでいる近くの丘でライオンの咆哮がこだまし動物たちは震えていた。ライオンは家畜を襲い、人の血を撒き散らしていた。

人や家畜、羊の死体が積み重なって、あたかも疫病が蔓延したようであった。羊飼いや牧夫はライオンのすることを嘆き、村は日夜悲嘆にくれていた。そのような疫病を退治するのが王の務めである。しかし森や原野で実際の狩をするより、ライオンを捕らえておいて狩り場(アリーナ)に運んでライオン狩をする方が便利であった’と解説されていて実利的な面が強調されていて面白い。

ライオン狩へ出発

ライオン狩のレリーフは北宮殿から外に向かう裏門に通じる廊下から出土したもので、王は多分この道を通って狩に出かけたものと思われる。そして壁のレリーフには王と従者が描かれており、一団の男たちは猟犬、ネット、棒、わな用に紐を巻いたボールなど狩の道具を携えて行進している。それぞれ期待に胸をふくらませている様子である。

鹿狩

ライオン狩と言ってもライオンだけではなく鹿やガゼル、馬なども狩猟の対象となっていた。
鹿狩の場面では、鹿の群れが勢子に追い立てられ一目散に逃げているが、逃げ道にはぐるっと網が張られ罠になっている。網の中では騎手が網に絡まった牡鹿と格闘しているようである。

ガゼル狩

ガゼルの群れが草を食みながらのどかに歩いている。そこへ突然矢が飛んでくる。近くの穴に隠れていたアッシュールバニパル王が放った矢である。ガゼルは驚いて飛び上がっているが、すぐ隣では王の放った矢がガゼルの胸を射抜いている。矢が刺さったもう1匹のガゼルはすでに息絶えようとしている。この場面は3匹のガゼルがいるのではなく、同じ1匹のガゼルが、驚いて飛び上り、胸を射抜かれ、息途絶えるところを連続して描いているようだ。

野生馬狩

アッシュールバニパル王が疾走しながら馬上から野生馬に矢を放っている。王の後ろの従者の1人が王に矢を手渡しており、他の従者は替え馬を引いている。馬たちは射貫かれたり、猟犬に噛み付かれ引き倒されている。最後に1頭の馬が投げ縄で生け捕りさるところが描かれている。野生馬は生かしておいて家畜に育てる必要もあるのだ。

ライオン狩

檻から出るライオン

あらかじめ捕えられていたライオンが檻に入れられ狩り場(アリーナ)に運ばれる。それぞれの檻には世話係り(よく見ると子供のようである)がいて、自分の檻は自分の責任で管理している。
子供はライオンの檻の上の小さな檻に隠れている。今、子供によって檻のふたが開けられ1頭のライオンが放たれるところである。この後、ライオンは王の方向を目掛けて一目散に駆けていくのである。

ライオン狩の3つのスタイル
騎上のライオン狩

アリーナは兵士によって2重、3重に取り囲まれているのでライオンは外に逃げ出すことは出来ない。その狩り場のなかで、従者が馬を疾走させながら矢を放ってライオンに命中させており、すでに何頭かのライオンが死に絶えているようだ。

さらに、馬上から槍でライオンを仕留める様子も描かれている。前から飛び掛ってくるライオンの口に槍を突き刺して仕留めようとしているが、もう1頭のライオンが後ろから替え馬に飛び掛っている。前のライオンを突き殺して、後ろのライオンに立ち向かう余裕があるのだろうか。迫力のある場面である。

戦車によるライオン狩

戦車のライオン狩はライオン狩のハイライトであり、緊迫感と迫力満点のスペクタクルである。いくつかの戦車のシーンが描かれており、その1つはバケツを逆さにしたような帽子を被ったアッシュールバニパル王が戦車に乗って狩り場を疾走している。すでに弓で射られて死んだとして放置されていたライオンが起き上がって戦車の後ろに飛びついている。2人の従者が槍で押し止めていると、王が剣を抜いてライオンの喉にとどめを差している。

別の場面では、顔に最初の一撃を受けた1頭のライオンが戦車の車輪に噛み付いている。従者の1人は王の弓を持ち、もう1人は槍を持っている。王は従者から受け取った槍でその傷ついたライオンを突き刺しているところが描かれている。

1対1の対決

最も勇ましいのが、アシュールバニパル王が1対1でライオンと対決、ライオンを仕留めるシーンである。ライオンが後ろ足で立ち王に飛び掛ってくるが、王は剣でライオンの心臓を突き刺している。王が自らを宇宙に並ぶべき者なしと誇示するに充分なシ-ンである。また、別の場面では従者に盾で守られながら王がライオン目がけて矢を放つところが描かれている。

死にゆくライオン

アリーナにはあちこちにライオンが転がっている。それらの多くはすでに息絶えているが、中には矢が何本も突き刺さって口から血が吹き出し、静脈が浮き出ているところがリアルに描かれたものもある。ライオンの動作を注意深く角に観察し、それを写実的に繊細に描写するアッシリアの芸術家の技量の高さには驚かされる。

献酒

アシュールバニパル王の足元には3頭のライオンの死体が転がっており、ライオン狩は無事終了している。これから献酒が行われるところだが、アシュールナシパル王の献酒のシーンに比べて舞台装置が大がかりである。王の前には台の上に食べ物が供えられ、高い台では香が焚かれている。楽士が音楽を奏でるなかでお酒(ワイン)が注がれ、神に捧げる儀式が終了する。

ライオン狩からの帰還

狩に出発する様子が描かれていた壁の反対側の壁には狩からの帰りの様子が描かれている。狩り場で仕留められた獲物を抱えての帰還である。ライオンは3頭、先頭のライオンを担ぐ1番後ろの従者は左手で背中の尻尾の辺りを押さえ、右手で足を掴んでいる。ライオンの頭の描写も含めてリアルである。

(2013年4月24日から8日間、JALのマイレージを使ってロンドンとパリの旅をした。大英博物館のHPを見ていたら、メソポタミア部門のライオンルームの修復が終わり、3月31日から再開されるという知らせが載っていた。今回、ROOM10のライオン狩のレリーフは不鮮明なものもあり、なんとなく欲求不満の感があったのでライオンルームをもう一度見てみようというのが2013年4月の旅の主な目的であった。

4月25日に訪れたROOM10のメインルームにはアッシリアの写実性豊かなライオン狩りのレリーフがずらっと展示され、まさに圧巻であった。ブログの記事自体は改めて書くこともないと思っているので、画像を追加することにし、迫力満点のライオン狩りをGALLERY2として乗せていますのでご覧下さい、今回の画像と重複する部分がありますが、そのままにしております)

ラキシュの攻落

エルサレムの南西45kmにあるラキシュはユダ王国のなかで2番目に重要な都市であった。旧約聖書の時代には、ラキシュはエルサレム防衛の重要な役割を持っていた。エルサレムを攻撃する軍にとって最も容易な方法は海岸から攻めることであったが、ラキシュはエルサレムに通じる峡谷の要衝にあった。

BC701年、アッシリアの王センナケリブはエルサレム包囲攻略の途上、いくつもの都市を制圧したが、ラキシュの攻落が1番重要であった。ニネヴェの西南宮殿にはセンナケリブのラキシュ攻落の様子を描いたレリーフが飾られていた。これらのレリーフにはラキシュ攻略の様子が生き生きと事と細やかに描写だれていてアッシリア芸術の水準の高さが読み取れる。

攻撃開始

攻撃開始のシーンは、後方で長距離の投石砲から石が打ち放たれ、射手部隊が弓を一杯に引き絞って矢を放っており、前方では急襲部隊が突撃の準備をしている。いよいよ包囲攻撃が開始される様子である。

城壁の攻防

攻城兵器(破城槌)を先頭にアッシリア兵が傾斜路(攻城用に造られた?)を登っている。敵は城壁の上から火のついた松明を投げ付けているが、攻城兵器のなかでは柄杓を持った兵士が燃えないように水をかけている。アッシリアの芸術家は攻撃の結果を見越して、男女が町の門からあふれ出し、国外に追放されるのを待っている様子も描いている。

捕虜の観閲

立派な王座に腰掛けているセンナケリブ王は捕虜が王の前に連れてこられるのを観閲している。王の前方では捕虜の処刑が行われている。何の理由もなく、時々こうした処刑がなされたようだ。
王の後ろにはテントが張られ、護衛が王を取り囲んでいる。王の戦車は前方の下の方に止められている。王の顔はひどく傷ついているが、多分、これはニネヴェが陥落した後の時代に敵の兵士が腹いせにやったものだろうと言われている。

戦利品

ラキシュ攻落の後、アッシリア兵が戦利品を宮殿から持ち出している。戦利品には刀の束、円形の盾、戦車、王座や一対の香炉などである。下部ではユダ王国の捕虜が身の回りの物、家畜などを携え家族と共に国外追放される様子が描かれている。

捕虜

ブドウや無花果の木が生えている岩場が続く風景のなかをラキシュの捕虜の行列が延々と続いている、多分、遠くの背景はオリーブの木であろう。
高官はアッシリアへの反乱があれば責任を取らされるので容赦のない取り扱いをしており、捕虜のうち2人が生皮を剥がされている。アッシリアの王のなかでも取り分け残虐であったと言われるセンナケリブ王の高官であれば、さもありなんと言った感じである。

アッシリア軍の陣地

このレリーフがラキシュ攻落シリーズの締め括りをなすもので、ラキシュの包囲攻略を行っている前線基地の様子を表している。要塞のようになっている基地の真ん中を道路が走り、テントのなかでは従者が働いており、2人の神官が戦車の前で儀式を行っている。その戦車には神の戦旗が掲げられている。

6日目 ロンドン

大英博物館 中東部門(Middle East) その2

Room7-8、Room9

ニムルドのアッシュールナシパル2世宮殿とニネヴェのセンナケリブやアッシュールバニパル宮殿を飾っていたレリーフがそれぞれRoom7-8とRoom9の両壁に数十メートルに亘って展示されている。

ニムルド

アッシリアの時代にはカルフと呼ばれ(ニムルドは現在の地名)、それまで廃墟となっていた地にアッシュールナシパル2世(在位前884年~前859年)が壮大な宮殿や神殿を建て数万の人々が暮らす首都を造営したと言う。

王は勝ち戦を記録した碑文に、‘私は捕虜を奪いその多くを火の中で燃やした。生かしておいた者のうちいくらかは手首を切り落とさせた。残りの者からは鼻、耳、指を切り落とさせた。兵士の多くから私は目を取った。彼らの若者、娘、子供等を焼いて殺した’と刻ませるほど残忍な征服王であった。

王がアルメニア、ヒッタイトやアラムを征服、さらに軍を西に向けた時には、フェニキアの諸都市はアッシリア軍が来ると聞くと進んで朝貢に応じたと言われている。こうして得た莫大な財力で新都カルフが建設されたわけである。
その宮殿の通路や中庭の壁は守護精霊、属国の朝貢 、捕虜の観閲、戦いの場面やライオン狩などのレリーフで飾られていた。

たくさんの守護精霊のレリーフが並んで展示されているが、その幾つかを見ていくと、

鷲頭の精霊のそばに立つアッシュールナシパル2世

聖なる樹のそばでアッシュールナシパル2世が鷲頭の精霊の前後から祝福を受けているようである。鷲頭の精霊は左手の手桶から湧き出た聖水を右手の松ぼっくりから王に振りかけているのであろうか? 王座の間の前には鷲頭の精霊と聖樹ばかりのレリーフが飾られたところがあったと言う

聖樹の前のアッシュールナシパル2世

権威の象徴である王杖を持ち、儀式用のローブを着たアッシュールナシパル2世が聖樹を挟んで両側に描かれている。王が2度現れるのは聖樹の周りを回っている王を動的に表したということなのかも知れない。王は有翼円盤のなかの神を拝む姿勢をしている。神は多分、太陽神シャマシュで、手にリングをつけているようだ。

子鹿を抱く守護精霊

小鹿を抱いた守護精霊、北西宮殿の王座の間に通じる門の1つを守っていたのだそうだが、魔術を使って建物の入口を守ることは古くからのメソポタミアでの習慣であった。有翼の守護精霊はアプカルと呼ばれた超自然の創造物であるが、抱かれている子鹿と手に持った小枝がどのような意味を持つのかは良く分かっていないらしい。

王の即位の場面のレリーフ

アッシュールナシパル2世の宴会の間から出土。このレリーフは特にすばらしい出来とされ、着物に施された繊細な切れ込みは刺繍のようである。アッシリアでは通常被っている冠で王と分かるようになっているが、バケツを伏したような型の帽子に巻かれた2条の頭環が背中に垂れ下がっている。王の後ろには多分宦官と思われる従者が王の武器と蝿たたきを持って立っている。

属国の朝貢

北西宮殿の王座の間の正面を飾っていた各国の朝貢団の一場面である。貢物を運ぶ2人の使者が描かれていて、1人目は北西シリアでみられるターバンのようなものを被っていて、両腕を胸の前に上げているので服従を表していると言う。2人目のフェニキア人は2匹の猿を貢物として連れている。猿はエジプトか南部アラビアのもので、フェニキアはこれらの地域と活発な貿易を行っていた。アッシリアの王達は珍しい外国の動物や植物を収集するのを好んだと言う。

戦いの場面

アッシリアの王たちは治世のほとんどを軍事遠征で過ごしたと言われているので戦いの場面のレリーフには事欠かない。その幾つかを拾ってみる。

戦車攻撃

アッシリアの高官が戦車に乗って敵の騎兵を川の方に追い詰めている。討ち取られた敵を見るとターバンを被っているので北西シリアあたりのようである。

さらに、聖なる戦旗を掲げたアッシリアの戦車が敵の戦車を圧倒しながら前進しているレリーフもある。辺りはブドウ畑が広がる景色である。戦旗の1つはアダト神を表し、他はネルガルだろう言われている、アダトは雷雨と豊穣、ネルガルは地下世界の支配者らしい。

アッシュールナシパル2世が有翼円盤の庇護のもと戦車攻撃の先頭に立っている場面では、王は敵を川のそばから敵の都市を囲む果樹園の方に追い詰めているようだ。8本のスポークの敵の戦車は王の前で破壊され、上部では敵兵が仲間を安全なところに引きずっているところも描かれている

渡河

戦いの局面では川を渡って攻めていくことになるが、渡河の様子が描かれたレリーフもある。
馬丁に引かれて馬が泳ぎ、一方戦車やベッド、ジャーなどが小舟に載せられて運ばれている。長丁場の遠征ではベッドなども運ばれていたらしい。

アッシリアの高官が軍の渡河(多分、ユーフラテス川)を指揮している、いく人かの兵は毛皮の浮き袋につかまっており、他のものは舟に戦車を載せようとしていて臨場感がある。

野営陣地

野営陣地が描かれている興味深いレリーフもある。
円形の兵舎は真上から見ると4つの部屋があり、それぞれの部屋は横から眺める格好で食事の用意をしてところや、平たい帽子を被った僧が動物の内臓を検分して戦いの行方を占っているところなどが描かれている。垂直な視点と水平の視点が1次元で表現されていて面白い。中央には馬の手入れをする馬丁、右手の王の兵舎のそばでは囚人が前に連れ出され、兵士は勝利を祝うためにライオンの毛皮を着ているようだ。

都市攻撃

足首までの長いうろこのよろいを着た高官が敵の都市をめがけて矢を放っており、後ろには戦車が控えている。禿げ鷲が敵の死体を貪っている。
また、別の都市攻撃ではアッシリア軍が敵の城壁に迫っており、いく人かの兵士が壁の下部を破ろうしているが、攻撃の主力である破城兵器が攻撃を続行中である。敵は破城兵器のレバーのデェーンを掴んでいるが、アッシリアの兵士はフックを正常な状態に保っている。敵が松明を投げつけているが破城兵器から出る水が炎を消している。

さらに、アッシュールナシパル2世が敵の城をめがけて矢を射ており、一方兵士は城壁に梯子を登って城内に乱入しようとするもの、城壁の下部を破って侵入しているものなど。敵の兵士が城壁から落ちていたりするので落城は真近のようだ。
また、王が楯持ちに守られながら遠くから矢を放ち、その前では攻城兵器がさらに多くの射手を運んでいる。攻城兵器が槌を機械で城壁に打ち付けている。敵の何人かは射返しているが、降伏している兵もいる。 戦場の様子がリアルに描かれていて面白い。

勝利の行進

アッシュールナシパル2世が有翼円盤の神に守られて勝利し陣地に帰還している、御者が王の買え馬を引いて続いている。また、アッシリアの神々の戦旗を掲げた戦車が陣地へ勝利の帰還をしている。彼らの前方を進む兵は敵兵の首を振っており、禿げ鷲が兵の首を掴んで飛び去っている。

捕虜の観閲

このレリーフはアッシリアの戦いの典型的な結果を表していると言われ、捕虜と戦利品の検閲の様子が描かれている。アッシリアは戦利品をすごく正確に記録したと言われているが、これは貢物が軍事遠征の重要な要素であったことを示しているのだそうだ。アッシリアの兵士が捕虜を王の処に連れてきており、幅広のヘッドバンドをしている男は何か気になることがあって引き出されているらしい。戦利品が空中に表されているのは余白の利用か?
また、アッシュールナシパル2世が戦車から降り、廷臣と捕虜の行進を観閲している場面も描かれている。1人のアッシリア兵が王の足にキスしている。多分、この兵士は戦いで目ざましい働きをしたのであろう。

ニネヴェ

ニネヴェはセンナケリブやアッシュールバニパルなどが都を置いたところである。

センナケリブ

サルゴン2世の息子のセンナケリブ(在位704~681BC)は即位すると父親が造営したドゥル・シャルキン(コルサバード)を捨て古くからの都市であったニネヴェに遷都した。勇猛な若者であったが、父に似ず我が儘で思慮に欠けていたらしい・

センナケリブは父の時代に抑えられていたバビロニアがエラムの支援を得て離反の動きを見せたので何度も遠征するなどバビロンに悩まされ続けることになる。一方、西方ではユダ王国がエジプトと結んで反抗しようとしたので、ユダ王国のラキシュなどの諸都市を蹴散らしてエルサレムに迫るが、陥落させることなく撤退している。聖書にもこのセンナケリブの遠征が触れられていて、エルサレムを包囲した18万5千のアッシリア兵はヤハウエによって皆殺しにされたそうだ。

王が‘並ぶものなし’と豪語した南西宮殿のたくさんの部屋はアラバスタのレリーフ壁で飾られていた。有翼人面牡牛像の制作場面も刻まれていて興味深い。

有翼人面牡牛像の制作場面

有翼人面牡牛像は石の巨大な角材を宮殿まで運んで来て彫刻加工したものと思っていたが、石切り場で粗制作された後、船に乗せて宮殿まで運んで仕上げの彫刻をしたようだ。少しでも軽くして運搬しようとするアッシリア人の知恵が感じられて興味深い。
石切り場の作業、王の検閲の様子、川への運搬、宮殿への輸送などの場面が様子が5つのレリーフに物語風に描かれている。

王の検閲

王が2人の従臣に引かれた戦車の上に立って作業を見守っている。王に日傘をさしたり、扇いだりする従臣もいる。王の検閲の後、像はバラタイからニネヴェに輸送されるのである。3匹の鹿と子供を連れた野生豚が茂った葦の茂みに隠れている。

川への運搬

莫大な数の捕虜がソリに結び付けられたロープを引っ張っている。親方が轍の上のコロの位置を調整している。上部には川(多分、ティグリス川)が流れ、堤防には木が並んでいる。川では2隻の舟と大量の木材を組んだ筏がきしみ合っている。多分この木材は宮殿の屋根材になる。

宮殿への運搬

巨大な有翼人面牡牛像は未だソリの上である。有翼人面牡牛像の仕上げの彫刻は宮殿の入口に据えつけられてから行われる。高官が牡牛像の上に立って角笛で指図をしており、牡牛像は長くて太い丸太を梃子にして少しずつ前に進んでいる。
周りには木材やロープなどの資材を運んだ荷馬車が何台も見える。また、職人がのこぎり、手おの、つるはし、シャベルなどの道具を持ってきている。上部の川では舟がさらに多くの資材を運んでいる。

センナケリブ王の戦いの場面

・・・・アランムへの攻撃開始

アランム(王の碑文にはThe city of ‘・・・・alammu’I attacked and capturedと述べられていて
アランムで終わる名前の都市であることは分かっているが‘・・・alammu’が何処なのかはっきりしていないらしい。エルサレムと関連づける向きもあるらしいが、描かれているブドウやザクロの木からアッシリア北部の山岳地方という見方もあるようだ )

アッシリアの兵士の大軍団がアランムの町に向かって行進している、たいていの兵士は大、小の丸い盾と槍を持っている。攻撃は敵に向けて石を投げつけることから始まるが、行進の先頭の辺りではすでに矢を放っていたり、高官が剣を振り上げて攻撃命令をしているようである。足元には川が流れ、上部には木々やブドウが実っているところが見られる。

アランムの町を征服した後、捕虜がアッシリアの王の前に連行されている場面では、アッシリアの兵のなかには敵兵の首を持ち運んでいるものもいる。センナケリブ王は多分戦車に乗っているのだろうが、この部分は欠落しているらしい。

南部バビロンへの遠征

沼地での戦いの場面では、カルディア人の部族と思われる敵は沼地に住んで葦の束でつくった舟を操り、彼らの何人かは葦の茂みに隠れるか、あるいは逃げようとしているようだ。しかし、多くは捕えられ家畜と共に連行されることになる。アッシリアの係員によって記録された後、王の検閲を受けるのである。

沼地の戦いで捕虜となった敵兵が家族や持ち物と一緒に椰子の森のなかをアッシリの本部に向かって行進しているところでは、敵の首をいくつも持ったアッシリア兵は褒美にブレスレットを貰っている らしい。

アッシュールバニパル

アッシュールバニパル(在位668~627BC)は最盛期のアッシリアの最後の王である。
アッシュールバニパルはアッシリアの王のなかで読み書きが出来、アッカド語やシュメール語にも通じたアッシリアきってのインテリ(メソポタミア広しと言えども読み書きの出来る王は2人しかいなかった)であるが、他方、エラムと戦った時には敵のテウマン王の首を刎ね、王妃と庭で開いた祝宴で周りの木にその首をぶら下げたていたと言われているのでアッシリアの残忍な血は脈々と流れていたようだ。

即位後、父エサルハドンのエジプト遠征の継続、アッシリア王に従属する地位のバビロニア王に就かされた兄の反乱、エラムの鎮圧など治世41年の前半は軍事遠征に明け暮れたが、後半は記録が乏しいので大きな征服戦争はなかったのではと言われている。(アッシリアでは征服戦争が毎年のように行われていたので、この年はどの国を攻めたかを記録することで年代記になっていた)

アッシュールバニパルが造った図書館は全土から集めた2万5千以上の粘土板からなり、メソポタミアを研究するうえで貴重な資料となっている。今日われわれが西洋史を読むようにメソポタミアについて知ることができるのはアッシュールバニパルの図書館が果たした役割が大きいと言われている。

守護精霊

向かい合った獅子頭の2人の人物は争っているように見えるが、そうではなく何処からやって来るか分からない悪魔から攻撃を守っているのである。この種の精霊はウガルー、あるいは大ライオンと呼ばれていたと言う。獰猛なライオンの頭が写実的に描かれている。

アッシュールバニパルがエラム軍を打ち破りテウマン王の首を取った‘ティル・トゥーバの戦い’と、その首を近くの木の枝につるして王宮庭園で宴を催した‘庭園での饗宴’のレリーフは傑作との評判であるので是非見たいと思っていたが、どうやら見逃したようだ。

獅子頭の精霊、争っている訳ではない

6日目 ロンドン

大英博物館 中東部門(Middle East) その1

大英博物館のフロアーマップ

(British museum のパンフレットより)
1階、茶色がエジプト室。紫色のギャラリーが中東部門の展示である。エジプト室の左奥の隅っこにあるRoom6から始まって、Room7・8とRoom9がエジプト室の裏側に回廊のように伸び、ニムルドやニネヴェから出土した彫刻やレリーフが展示されている。また、Room7の横手にでっぱったかたちのRoom10aではライオン狩、Room10b、cにユダヤ捕囚のレリーフなどのが展示されてる。

Room6

Room6から見物を始めると最初に目に入るのが巨大なライオン像である。
身長2.24mのこのライオン像はニムルドから出土した、BC883~859頃の作品である。

怒り狂って咆哮しているようであり、巨大さと相まって怖さを感じさせる。頭部は丸彫りであるが、胴体部分は半丸彫りされバックが壁となっている。
ニムルドのアッシュールナシバル2世宮殿に隣接した小さなイシュタル神殿の門に置かれていたと言う、イシュタルは言うまでもなく戦いの女神である。メソポタミアでは神殿の入口や都市の門の脇にライオンや牡牛像を据えるのが慣わしであり、またライオンそのものもこの地には19世紀まで生息していたらしい。

同じ役割をした人面有翼獅子像は高さが4mを超えるものもあるが、人の顔をした合成獣であり寓話的な感じもあるので怖さはあまり感じさせないが、このライオン像は現代の彫刻家の手になるように写実的でど迫力がある。

黒いオベリスク

アッシリア部門で最も有名なものの1つが、この黒石灰岩で高さ19.85cmの黒いオベリスクである。ニムルド出土でBC858~824頃のものと言う。
シャルマネゼル3世(在位858~824BC)の輝かしい戦績を一般に知らせる

めに建てられた記念碑で、王の31年に及ぶ軍事遠征やラクダ、猿、象や犀などの近隣諸国から略奪した貢物などが描かれている。アッシリアの王達はエキゾチックな動物や植物を彼らの力を誇示するために収集したと言う。

オベリスクの4面のそれぞれ5段に合わせて20の貢物献上の場面が描かれ、下段に楔形文字で貢物についての説明が加えられているのだそうだ。それらは北西イラン、古代北部イスラエル、エジプト、ユーフラテス中流のシリアとイラク、トルコである。

オベリスクにはイスラエル王の貢納の場面もあり、現存する最古のイスラエル人を描いたものと言われている。イスラエル第4代王朝のエヒウ王がシャルマネゼル3世の前でひれふしている場面が有名らしい。
碑文にはイスラエル王、オムリの息子のアハブがダマスカスとの戦で戦死、後継のヨラムから王位を簒奪したエヒウがフェニキアとユダとの同盟を破棄してアッシリアの支配下に入ったと書かれていると言う。

白いオベリスク

黒いオベリスクと並んで立っているのが白いオベリスク。ニネヴェのセンアケリブ宮殿とイシュタル神殿の間から出土した、BC1050頃のもの。

未完成の碑文にはアッシュールナシパルとあり、多分アッシュールナシパル1世だろうと言われている。王は上段では戦車に乗って戦い、下段では狩と儀式に参加、中段には戦利品と貢物が描かれているそうだ。これはアッシリアでの物語風の初期の例であり、後の世代に宮殿を飾ったレリーフの先駆けとなるものと言われている。

アッシュールナシパル2世の石碑

高さ2.94m、石灰岩で造られたこの石碑はニムルドのニヌルタ神殿から出土した。BC883~858頃のもので、重さが4tあるそうだ。神を崇拝すると共に自らの業績を記録するためにアッシリアの王は石碑を造った。
多くの石碑はこの石碑のように、王の主な神々の前に立つ姿で表されている。王は丁度指をピッシと鳴らした後の人差し指を伸ばしながら右手を上げている。これアッシリアの王が神を敬い、嘆願する典型的な姿勢なのだそうだ。

王の頭上には神々がそのシンボルで表されており、角を付けたヘルメットは最高神、アッシュール、有翼円盤は太陽神シャマシュ、三日月は月の神シン、熊手は雷神アダト、そして金星は愛と戦いの神イシュタルである。 碑文は神への祈りから始まり、この石碑を破壊しようとする者への呪で終わっているらしい。

神と怪獣のレリーフ

Room6の主に彫刻が展示されている一角の中でのレリーフである。
ニムルドのニヌルタ神殿の入口に並べられていた1対のレリーフの1枚だそうで、ニムルドの最高神であるニヌルタを表すものだと言う。神は両手に雷を持った有翼の姿で表され、鎌の形をした剣を背中にさげもう1つの剣を腰に差している。ニヌルタ神がおどろおどろしい獅子面をした怪獣を追っている場面であるが、この怪獣の属性ははっきりしないらしい。

バラワート門

アッシリアの彫刻が展示されているRoom6の対面にバラワート門 が復元されている。
見る角度によっては一見、バラワート門を人面有翼獅子像が守護しているような展示になっているが、人面有翼獅子像はニムルドの北西宮殿のアッシュールナシパル2世の王座室に通じる門に据えられていたものであり、バラワート門はニムルドから北東16kmにあったイムグル・エンリル(現在のバラワート)の宮殿の神殿の門なので両者に関連はない。

展示されている木製のバラワート門は原寸大に復元さされたレプリカだが、高さは約6.8mもある。発掘された時には木材は消失して青銅の帯の破片しか残っていなかったが、当時はレバノン杉の門を青銅の帯が被っていて、シャルマネセル3世の遠征の様子が青銅の帯に細かく描かれていた。

人面有翼獣像(lamassu)

大英博物館にはRoom6とRoom7、Room10の入口に3対の人面有翼牡牛・獅子像が展示されている。Room6の人面有翼獅子像とRoom7の入口の人面有翼牡牛・獅子像はニムルドの宮殿の門を守護していた。人面有翼獅子と人面有翼牡牛の違いは足の先だけで、獅子の爪に対して牡牛は蹄をもっているので、爪と蹄で獅子と牡牛を判別するのだそうだ。

Room7では向かって左が人面有翼獅子像で右が人面有翼牡牛像である。ニューヨークのメトロポリタンも同じく獅子像と牡牛像が左右対になっているらしい。
Room10の人面有翼牡牛像は他の像より高さも長さも1mくらい大きく重さも16tもある巨大なものである。あまりにも重くてフランス隊がコルサバードからルーヴルへの輸送をあきらめた後、イギリスの知恵者が何個かに切り分けて運搬する方法を思いついて大英博物館に運び入れたそうだ。

ニムルドなど発掘したヘンリー・レヤードはこうした合成獣は、ライオン(又は牡牛)の力強さ、翼が表す鳥の敏捷さ、人面の知恵を合わせ持つものを表していると言う。

5日目 パリ~ロンドン

オルセー美術館

今日は午前中にオルセー美術館を見て、午後にはユーロスターでロンドンに行く予定である。テレビは一晩中、火山噴火の様子やヨーロッパの空港の閉鎖の情報を流していた。もし、ユーロスターではなく飛行機のスケジュールを組んでいたらパリで足止めになり旅行中止とせざるを得なかったかも知れない。もっとも、ヨーロッパの空港の再開の見通しは全くたっていないのでロンドンから日本に何時帰れるのかも分からない、行き当たりばったりの旅になりそうである。

フロントに下りると、マダム、デリア(Derya?)が、パーティの予定でもあるのかオメカシをしている。3日間、しょっちゅう顔を合わせて、軽口もたたいたりしていたので、今日は特別に綺麗だと煽てると、カメラに向かって満面の笑みを浮かべてくれた。ついでにと言って朝食をご馳走してくれる。いずこの国も同じようで・・・・・

ルーヴルの対岸のバス停で降りて時計をみると開館には少し早いので、セーヌ川にかかるカルーゼル橋で時間をつぶす。西をみると右手にチュイルリー公園の緑が続き、正面には遠くグラン・パレのドームが見える、その右手の高い塔のような建物はコンコルド・ラファイエットのようである。
16年前にツアーで泊まったことがふと思い出される。
東を向くと朝靄にサント・シャペルがかすんで見える。パリ市庁舎は何処だろうと目をこらしても、それらしきものは見えない。

オルセー美術館

オルセー美術館は撮影禁止となっている。改装中で来客に不便をかけるなら自由に撮影させることくらい考えてくれてもよさそうだが、オルセーにはオルセーの言い分があるのだろう。
前回、牛が畑を耕している力強い絵に惹かれたが、作者名を失念してしまって気になっていた。今回やっと確認することができ、その絵の題名は‘ ニヴェルネ地方の耕作、初の鋤き入れ’、画家の名前はローザ・ボヌールだと分かった。画家は名前の通り女性だったのでちょっとびっくり。題名のニヴェルネはロワール川の上流地方らしい。

オルセーは巨額の改装費用を賄うために、ドガ、ゴッホ、モネ、セザンヌ、ゴーギャンなどの重要作品をスペイン、アメリカや、勿論日本などに地方巡業させているらしい。スペースが半分ほどになっているのでルノアールやマネ、モネなどが廊下のようなところ展示されていて、えぇこんなところにという感じである。ルソーの‘戦争’を見たいと思っていたが、地方巡業中なのか、場所が分からず見逃したのか、限られた展示スペースのため倉庫行きになっているのか分からない。

オルセー美術館 ローザ・ボヌールの「ニヴェルネ地方の耕作、初の鍬入れ」。オルセー美術館のWEBサイトより

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