大聖堂(続き )

フランシスコ修道院とこの大聖堂が入場観光である。ガイドさんの後について中に入ると、紫の大理石の祭壇やキリストの彫刻、祭壇画などで飾られたいかにもバロックらしい豪華な祭壇がいくつもある。

それら中で、中央祭壇には聖母マリアの昇天の様子が描かれた大作がある。地上の人々が驚き、うろたえる中、青い衣装をまとった聖母マリアが天使に導かれて昇天する様子が躍動感のある筆致で描かれている。ガイドさんによればヴェネツィア派の巨匠、ティツィアーノの作なんだそうだ。

(1550年頃の作と云われているが、その頃、ティツィアーノは60才前後で、スペイン王に招かれたりして長期滞在、その間‘ダナエ’などを描いたりして超多忙であったはずである。なので、ドゥヴロブニクからの‘聖母被昇天’の依頼が好条件だったとしても、ティツィアーノ自身が筆をとることはなかったと思われる。多分、彼の工房が制作したものではないだろか。

もう1つ、1667年の大地震で、昔のロマネス様式の大聖堂は崩壊したのに、この‘聖母被昇天’は無傷で助かったのだろうかと云う疑問だが、後でちょっと調べたらプロチェの聖ラザルス教会にあったものを移したのだそうだ、納得)

総督邸

大聖堂の斜め向かいの建物が旧総督邸、正面は6連のアーチが連なるロッジオである。柱頭には人物や植物の細やかな彫刻が施されている。それぞれ意味のあるものらしいが、何を表象しているのか分からない。

旧総督邸は、もともとは、15世紀にオノフリオによって建てられたゴシック様式であったが、火薬庫の爆発や1667年の大地震があったりしてルネッサンス様式やバロックの装飾が融合したものとなっているそうだ。

建物は共和国の時代、総督の住いであったが、議会や元老院なども置かれ政治の中心であった。総督の任期は1ケ月だけだったと云うから、共和国は権力は腐敗することを敏感に感じ取り名誉職のように扱っていたようだ。総督はその任期の間、公用以外では邸の外に出ることは出来なかったらしい。毎晩、儀式に則って市の鍵を受け取って厳重に保管し、翌朝、また儀式に則って返還するのも総督の役目であったと言う。

ルジャ広場

総督邸から少し進むと、メインストリートのプラツァ通りの東端と交差する、この辺りがルジャ 広場と呼ばれ、スポンザ宮殿や聖ヴラホ教会、時計塔などに囲まれた旧市街観光の中心である。

聖ヴラホ教会

大聖堂によく似た感じの聖堂である。それもそのはず、大聖堂と同じく、元々あったロマネスクの経堂が1667年の大地震で損壊し、18世紀の初めにバロック様式で再建されたものだそうだ。

聖ヴラホはディオクラティアヌス帝の迫害によって殉教したのだが、その後、10世紀になって、ある夜、大聖堂の司教の夢枕にヴラホが立ち、ヴェネツィア軍の夜襲を告げた。で、ドゥヴロブニクは来襲に備えることが出来たと言われ、以後、聖ヴラホはドゥヴロブニクの守護聖人とされたのだそうだ。

ファサードの屋根の上にはドゥヴロブニク市街の模型を抱えた聖ヴラホ像が立ち、ドゥヴロブニクを見守っているようである。

聖ヴラホは現在でもドゥヴロブニクの市民に讃えられており、毎年2月には盛大な祭で賑わうらしい。

(蛇足ながら、カソリックの教会の入り口は西に、聖なる場所がある内陣などは東側に置かれるのが普通だが、ここドゥヴロブニクの正面入り口は、大聖堂では東に、聖ヴラホ教会では北に置かれている。カソリックの南の端っこのドゥヴロブニクでは、その辺は大らかと云うか、あまり詮索されなかったらしい)

オルランドの柱

聖ヴラホ教会の少し前、広場の中心に国旗を掲揚する石柱が立っており、その下部に剣と盾を持った剣士の像が刻まれている。ガイドさんによれば、オルランドの柱と呼ばれ、オルランドの肘から手首まで、約51cm、がドゥヴロブニクの長さの尺度になっているのだそうだ。

(オルランドはカール大帝の12剣士の筆頭で、ドイツの旧自由都市にはオルランドの柱像がよく立てられていると聞いたことがあるが、バルカン半島にまで柱像が建てられているとは驚きである。ドゥヴロブニクを庇護下に置いていたハンガリー王と何か関係があるのだろうか)

スポンザ宮殿

ルジャ広場に面した3階建ての建物、1階正面は5連アーチのロッジオとなっている。1667年の大地震でも倒壊しなかった建物なので、ゴシックとルネッサンスの混合した当時の建築様式がみられるとのこと。

共和国の時代、ここには税関や保税倉庫、さらに銀行や財務省なども置かれていたそうだ。現在は古文書館となっていて12世紀頃からの文書が保管されていると言う。

このほか、オノフリオの小噴水や時計塔の説明を聞いて、スルジ山に向かう。