モーニングコールが3時半という強行日程でパタゴニア見物が始まる。昨夜はシャワーを浴びて寝床に入ったのが12時前であったので横になるだけであった。
ホテル出発は4時20分、集合時間の10分前にロビーに降りると、皆さん、元気にお揃いである。

ブエノスアイレスの国内線空港はラプラタ河沿いの市内にあり、ホテルから20分とかからない。バスの中で朝食用のボックスが配られる。最終日程表の注書きで、早朝のため、コンチネンタル式の朝食を用意すると書いてあり、ほんまかいな、食堂を4時前に開けさせるのと思っていたら、案の定、ランチボックスであった。

空港に着いてみると、早朝にもかかわらず混雑している。添乗員から受け取った搭乗券は真ん中の席であったのでチェックインカウンターで通路側の席にしてほしいと頼むと、満席で空きがないと言われる。何とかかならないかとねばって、22Dに変更して貰ったが、機内に入ってみると一番後ろの席である。130席ほどの席が満席になるほどパタゴニア観光は人気になっているようだ。

6時20分の出発予定が30分ほど遅れたが、10時20分過ぎにはウスアイアの上空に着く。天気予報では曇りということであったが、外をのぞいて見ると、青空に白い雲や黒い雲が幾重にも重なって漂っている。青空と雲がそれぞれ自己主張をして輪郭をくっきりさせている感じである。

ウスアイア市内観光

ブエノスアイレスから3250km、南極まで1000km、世界最果ての町、ウスアイアにいよいよ降り立つ。

ウスアイアのガイドさんは若い女性、メスティーソの感じである。早速、バスに乗り込んで市内観光が始まる。

ガイドさんの説明によれば、ウスアイアの人口は正式の統計と実際とは多少ずれがあって大体6万5千人くらい。おもに漁業関係の仕事についている人が多く、ボリビアやペルー、隣のチリなどから出稼ぎに来ている人も多いそうだ。学校は2月の下旬から始まるので、丁度この時期はブエノスアイレスやコルドバなどの私立の高校や大学に行っている学生が帰省している時でもあるそうだ。税金を納める習慣があまりなかったので、病院など公共施設が他の州より不足しているとのこと。

気温は、昨日は異常に高く22℃まで上がってとても暑かったが、今日は平常に戻って14℃くらい、でも風が強いので体感温度は10℃以下に感じるお客さんが多いのではという話である。

高台に上って市内を一望する。ウスアイアの街は少し湾曲しながら東西に細長く伸びており、海沿いがマイプー通りで、次のサン・マルティン通りがメインストリートである。町の発展につれて住宅地が山肌を上へ上へと伸びているので、けっこう急な坂道の街でもある。

街に戻る途中、道路の脇に中古車を何台か置いた小屋と言うか店が目に入る、タックス・フリーゾーンになっているので、自動車などウスアイアで通関して、少し乗ってから転売すれば儲かるので、こうした業者がけっこういるらしい。

マイプー通りにバスを止めて、観光案内所に入る。ここでは世界最果て町ウスアイアのいくつかの景色のスタンプをパスポートなどに記念に残すことが出来る。

職員にビーグル水道クルーズについて聞いてみると、案内書を出してきて、カタマラン(双胴船)のクルーズは3社が行っていて、ペンギン島まで行く5時間クルーズもそれぞれ午前と午後に出していると説明してくれ、案内書のコピーをくれた。
(旅行社の最終日程表の注書きは、おかしいと思っていたが、やっぱりという感じである)

昼食は、前菜がキングクラブ、メインはスズキのムニエル、デザートがアイスクリームである。キングクラブ(スペイン語でセントージャと呼ばれ、タラバガニの一種)は皿に大盛りで出てきた。これだけで満腹となるほどだが、さらにメインもデザートもボリュームたっぷり、日本人の許容限度を超えている。(今回のツアーの食事では一番よかったという皆さんの評判であった)

さて、次はビーグル水道クルーズである。が、クルーズ船の出る桟橋で添乗員からクルーズのパンフレットの説明を受けて、いざ乗船という段になって、風が強いとかで午後のクルーズはすべて中止となったと知らされる。午前のクルーズは催行されているので、午後になると風が強くなるらしい。だから言わんこっちゃーないとひとりごつ。

クルーズが中止となった代替として、追加負担なしで船舶博物館と元監獄の観光をしますと言うことで、海軍基地の1部となっている元監獄に向かう。

船舶博物館

元監獄の端っこの部屋が船舶博物館である。簡単なフェゴ島の歴史についての展示もあるが、この部屋は船舶の模型を展示しながらヨーロッパ人が世界航海をめざして南米大陸の先っぽに殺到した様子が語れている。
船の模型は30隻あまり、実寸の100分の1のスケールに作られ、年代順に展示されているそうだ。

(フェゴ島はティエラ(大地)・デル・フェゴ(火)=「火の国」である。岩波文庫の「マゼラン世界一周航海」にはスペイン王の秘書のトランシルヴァーノが航海で生き残って帰還した18名の乗組員のうち3人から聞き取った報告書も載せてあり、「さて、船隊はこの海峡(マゼラン海峡)の中を進んでいって一方の端から他方の南の海まで通過し終わるまで22日を要した。

その期間中に、その沿岸地帯のどこにも、ただの1人も人間の姿を見かけなかった。ただし、ある夜、海峡の左側の陸地に、すなわち南の方におびただしい数の火が見えた。このことから船隊の一行は自分たちがこの地方の住民にみつけられて住民たちたがいに合図の烽火をあげているのだろうと推測した」と述べられていて、これがティエラ・デル・フェゴの=火の国と言われるようになった元とされている。

もっとも、草稿にはティエラ・デル・ウモ(煙)となっていたのを国王が火のない処に煙は立たぬと言ったかどうか、ウモをフェゴに変えさせたとも言われているらしい。)

トリニダード号

マゼランの世界一周の旗艦で、110トンのカラック帆船である。カラック帆船はポルトガルのカラベル船を発展させた船で積載能力が大きく船員を多く乗せることが出来るうえ、前甲板と後甲板が戦いの時にはタレットとして使えるようになっているそうだ。

1919年にスペインを発ったマゼラン艦隊は4隻の帆船と265名の乗組員からなっていたが、世界一周航海をして無事にスペインに帰還したのは、ヴィクトリア号と18名の乗組員だけだった。マゼランはフィリッピン諸島で殺され、トリニダード号は香料諸島で香料を積み過ぎて浸水してしまったらしい。

次の100年間には、多くの船乗りたちがマゼラン海峡を通過したが、女王陛下の海賊、ドレークもその1人で、1580年に史上2番目の世界一周航海をした。

17世紀の初めには、マゼラン海峡は東インド会社所属の船しか航行出来なかったので、多くの商人は太平洋に抜ける新しい航路を発見するのにやっきになっていた。そうした中でオランダのショーテンとメールが1616年にホーン岬を発見、太平洋に出た。当時、マゼラン海峡の南側は南極に続く大陸だと信じられていたので、島だと述べた彼らは嘘をついているとして投獄されたとか。なお、ホーン岬は彼らが出航したオランダの港に因んで名付けられそうだ。

デスクビエルタ号

イタリア人の船長に率いられたコルベット艦、当時の最新鋭の装備で建造された。スペインの植民地での科学的な探検を行うためであった、最も重要な仕事は海図をつくることであった。デスクビエルタ号はフェゴ島海域の調査に没頭していたが、当時、1775年はアメリカ独立戦争などが進行していた時代である。

ビーグル号

イギリス海軍のバーク艦(最後尾が縦帆でそれ以外は横帆)、1830年と1832年の2回、フェゴ島を探検した。最初の航海でビーグル水道を発見、2回目の調査には23才のダーウィンが乗船した。

ビーグル号の航海のもう1つの目的は伝道所を作ることであった。ナバリノ島のウライアに立った乗組員の1人、マシューズは原住民の攻撃にあって探検隊に救助されて、探検隊員に戻ったそうだ。

ロマンチェ号

フランス海軍の探検隊に所属、1882年にはホーン岬で各国の研究者が日食と金星の日面通過を観測した。科学的調査だけでなく人類学にも重要な貢献をしたという。

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