オルセー美術館 2日目
日本語音声ガイドを借りる。
西洋美術集、印象派特集などの美術本、日本で開催された特別展やテレビ、ビデオなどで見聞きしてきた絵を目の前にするのは本当に楽しい。

モネ 
庭の女たち:正装した女性たちが庭で花を摘んでいる。モネの若い頃の作品で、目で見た通りに描いたもの、画面中央の後ろ姿の女性と手前の屈んだ女性に陽があたって華やかである。平面的な感じもするが上品な作品である。

ひなげし:手前には日傘を肩に掛けた女性と摘んだひなげしの束を胸に掲げた男の子が描かれ、丘の上にも同じような二人の姿が描かれている。二人はモネの妻と息子だと言われているが、動画のようにひなげしを掻き分けてモネの妻と息子が丘を下りてきたところを温かく描いている。

日傘の女:下から見上げるように女性の全身像を白い雲の広がる空だけを背景に描かれている。女性はたった今こちらの存在に気づいたようである。

ルーアン大聖堂:ゴシック建築のファサードだけを構図として描いたもの、太陽の動きとともに絶え間なく変化する光と影の交差のなかで、ファサードは深い青色から黄色までいろいろな変化を見せている。

睡蓮の池 バラ色の調和(太鼓橋)購入した牧草地に川から水を引いて池を造り睡蓮を咲かせ、岸には柳などを植え、日本風の橋を架けたりしている。
イングリッシュガーデンやフランスの幾何学的庭園では池を見ることは殆んどなく、せいぜい水を噴水として取り入れているに過ぎないが、モネの庭園では池が主役のとなっていて、四季よって移り変わる表情をみせる日本の庭園に近い気がする。
モネが庭園の睡蓮をテーマに描いた絵は300点もあるそうだ。

ルノアール
ムーラン・ド・ラ・ギャレット:モンマルトルの丘の上にあった戸外のダンスホール、労働者たちの週末の幸せ感溢れる情景が、にぎやかな音楽、あちこちではずむ会話、人の触れ合いや熱気、風のそよぎなどを青紫と黄みがかった白の斑点を散りばめることによって揺れ動く木漏れ日の下で描かれている。

ピアノに寄る娘たち:ルノアールほど人々にに親しまれている画家はいないと言われているが、そのルノアールの作品の中でも最も愛されているのがこの「ピアノに寄る娘たち」である。ピアノ前に座り真剣な表情で楽譜を読む妹、その妹にこまやかにアドバイスする姉、二人の少女の表情や頭髪、衣服衣服の動き、やわらい肌の質感などが愛くるしく表現されている。

田舎のダンス、都会ダンス:素朴な田舎娘と洗練された都会の娘、田舎の娘は朗らか、都会の娘はすまし顔でで踊っている。2作がペアーとなっている。

ドガ
カフェにて:カフェで二人並んだ男女がお互いに無関心でそれぞれの思いにふけっている様子である。でも、よく見ると男は一筋縄ではいかないいかつい面構えをしており、女は浮かぬ顔で投げ遣りな感じである。売春宿の亭主の小言に稼ぎが無かった娼婦がふてくされているようでもある。

ダンス教室:ドガと言えば踊り子の画家と称されるが、ドガは長年にわたってオペラ座に通い、踊り子たちのさまざまな動きや表情をつぶさに観察し続けた。「ダンス教室」は踊り子のステップを見つめる老練なダンス教師が主役で、斜め横から描かれている。彼の前面にはかれの指導を待つ踊り子たちがさまざまなポーズをしている。

マネ
すみれの花束をつけたベルト.モリゾ:ベルト・モリゾは印象派の女流画家、モネと交流があった。喪服姿の女性は美しいと言われるが、このすみれの花束をつけたベルト・モリゾは大きな黒い目でまっすぐ正面を見つめ、かすかに笑みを浮かべている。知性に溢れ、気品が感じられる女性の肖像画となっている。見る者を惹きつける「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」は女性の肖像画としては群を抜いている。

オランピア:画家たちはビーナスなどの神話や歴史、寓意にかこつけて女性の裸体を描いてきた。このオランピアはティツィアーノのウルヴィーノのビーナスをヒントにしていると言われているが、神話や寓意などのヴェールを剥いで生身の裸体の美しさを直截に表現したものと言える。オランピアは当時、娼婦を意味した。

草上の昼食:あっと度肝を抜かれる作品である。都会に暮らす人たちが憩いの場をもとめて森にピクニックに出かけたりしたのだろうが、この「草上の昼食」ではそうした木陰のピクニックの場で、正装した男たちが連れ出したと思われるヌードの女性が、あっけらかんとこちらに顔を向けている。
「オランピア」は神話のヴェールを剥いで生身の裸体の美しさを描いたものと納得的であるが、こちらは森のピクニックという憩いの場にいきなりヌードが現れた感じで、絵の素養はなく、ただ絵を見るのが楽しいと思ったりしている輩は困惑、混乱してしまう。

ゴッホ
ローヌ川の星月夜:一度見たら忘れられない絵である。夜空に北斗星が輝き、川面にはガス灯の灯りが長く伸びている。自然の澄んだ星の光と川面に映るガス灯のけばけばした光の帯、夜の風景が昼よりも色彩豊かに表現されているのが印象深く感じさせる。

自画像:ゴッホは自画像をたくさん描いているが、この淡い青色を基調とした自画像はゴッホが死亡する1年前、36才のものだが、西洋人の年令は分かりにくく50才代に見える。青色は冷たさ、寂しさを表すとも言われるが、淡い青色の衣服や背景のうねるような青い曲線はゴッホの不安な内面を反映しているかのようだ。

カイユボット
鉋をかける人々:裕富な邸の床を仕上げるために鉋で削る作業をしている上半身裸の3人の職人たちを描いており、並んで作業をしている職人は何か話しかけているような様子である。部屋、大工道具、鉋の削りかすなども写実的に丁寧に描かれている。
のこぎりもそうだが鉋のかけ方も西洋と日本では随分違うようで面白い。
裕富な出のカユボットは印象派の仲間たちの絵画展の援助をしたり、仲間たちの絵を収集したりした。ルノアールのムーラン・ド・ラ・ギャレットもそうした絵に1つである。

セザンヌ
リンゴとオレンジ:リンゴとオレンジが食器に盛られた静物画。絵を見て楽しむでけの素人目には、言われなければ分からないが、真ん中のオレンジを盛った柄の付いた皿は正面から見る角度からは奥の縁が見え過ぎる気がする。
上からのぞき込むようにオレンジを描くために違った角度に変えて描いているように見える。また、リンゴが盛られた皿はこのままではずり落ちて仕舞いそうだが、左り上から見下ろす角度から見たがリンゴが一番生命力溢れる表現となるのかも知れない。

シスレー
ポール・マルリの洪水と小舟:セーヌ川の大氾濫後のポール・マルリの風景を描いた作品である。画面の左手には川が氾濫して往来が行き来出来なくなり、交通手段となった小舟が商家の裏手に近づいている。中央には栗林が、遠くにはかすかに並木が描かれている。下の方には水面に反射してゆらめく太陽の光が、上方には青い空に真っ白な雲が浮かび何事もなかったように穏やかである。

ミレー
落穂拾い:オルセーで是非とも見たいと思っていたのが、この落穂拾いと晩鐘である。落穂拾いは貧しい農婦が収穫の終わった麦畑で収穫漏れとなって打ち捨てられた落穂を拾っているところである。背景には大勢の農民が刈入れ作業をしており馬に乗った男が見張っていたりして、広大な農地の豊かな収穫風景が見て取れる。
晩鐘:夕方、時を告げる教会の鐘が鳴り始めると、農作業の手を休め、敬虔な祈りを捧げる夫婦が描かれている。解説によると、ミレーは子供の頃、畑で農作業をしていた時、いつも夕方の鐘がなると祖母が仕事を中断させ、帽子を脱いで、あわれな死者のためにアンジェルスの祈りをするように言われた、それを思い出して描いたとされる。(アンジェルスは天使のこと)

クールベ
画家のアトリエ: 縦3.6m、横が6mもある大作である。’私のアトリエの内部、わが7年間の芸術的な生涯を要約する現実的寓意’という長い副題が付いている。寓意とは、信仰や死などの抽象的な事柄を具体的な物事に託して表すことで、日本の比喩に似たものと思える。
画面はクールベのアトリエで、真ん中でクールベが風景画を描いていて、右側にはクールベの絵を理解し支持する友人たちが生き生きとしている、左側は商人と金持ちの物売のかけひきを周りが覗いたり、猟犬を連れた資本家やその日その日を生きる労働者たちが描かれている。クールベは右側のひとを生によって生きる人々、左側の人たちを死によって生きる人たちとと言っていたそうだ。
左右に描かれた人たちは「寓意」を表しているのだろうが、何の「寓意」なのか絵画音痴の自分には何を表しているのか分からない。下賤な興味からすればクールベはこの大作をどこに掲げられると思っていたのだろう。

ルソー
戦争:一見、漫画のような作品だが、これは戦争の寓意を描いた作品とされている。画面の下の方には戦争で死んだ人たちの死体が転がり、カラスが死肉を貪っている。中央には白い服をまとった少女が髪をなびかせ、炎と剣を手に、黒い馬と共に死体の上を駆け巡っている。
戦争の擬人化の少女、山積みされた戦死者、死肉を食うカラスなどなど、これらすべてが戦争の寓意と言うことなんだろうが、画家が出展に際して書き添えた、’戦争は到る所に恐怖と絶望を残し、そして涙と廃墟を後に通り過ぎてゆく’と言う文章を読むと、戦争の寓意がなんとなく分かる。

カバネル
ヴィーナスの誕生:悩ましい表情の美の女神ヴィーナス。甘美で官能的であるが、神話になぞって海の白い泡がわきだち、天使が祝福している構図となっている。
カバネルは印象派の画家たちと同世代であるが、印象派の思想や表現とは真反である。印象派全盛期にアカデミズムの孤塁を守っていたとは驚きだ。

ピサロ :白い霜

(画像は4日目のオルセー美術館(1)にまとめています)