世界のえーとこ見に行こう!!   

ご用とお急ぎのない方は、ごゆっくりどうぞ。

スポット: 美術館・博物館 (3ページ / 13ページ)

2日目 パリ

オランジュリー美術館

パリ、ロワール、ロンドン旅行2日目
オランジュリー美術館

チュイルリー公園の端っこにあるオランジュリーは16年ほど前、ツアーのフリータイムにモネとルノアールが大好きだった妻の後ろにくっついて見たことがあり、妻はほどなく病をえて亡くなってしまったので印象深い美術館である。
パリはその後、2回ほど訪れたことがあるが、その時にはいずれもオランジュリーは改装中であった。再開したのは2006年のことで、改装工事に6年もかかったのは、工事中に16世紀のアンリ3世時代の遺跡が見つかり調査に時間を要したことが一因らしい。この辺りはパリを防衛する城壁が築かれていたところなので、何処を掘っても遺跡が出て来るはずで、文化財となればどこの国でも無視して工事を進めるわけにはいかないようだ。

17世紀にはチュイルリーは公園として整備され、オランジュリーは公園の果樹を収容する温室の役割をしていたそうだ。オランジュは仏語のオレンジである。

さて、ルーヴルを出たのが4時前、久しぶりに頭をつかった疲労感もあり、チュイルリー公園を散歩がてら歩いて行くことにした。地下鉄の一駅間もある広大な公園であるが、平日の昼間にもかかわらず人出が切れることなく続いている感じである。パリのど真ん中にある広大な緑はパリっ子の自慢の一つらしいが、お上りさんや外国からの観光客にも憩いを提供しているようである。

親友であったクレマンソー(強権政策で知られ、首相も務めた)の勧めで、晩年のモネは睡蓮2点を描き国に寄贈することになり、展示されるオランジュリー美術館の改装も自ら手がけていたそうだ。モネの没後、ほどなく8点からなる大作、睡蓮は楕円形の部屋2室に展示され、美術館を訪れる人々に画家の集大成であり絶筆となった睡蓮を堪能させてくれている。

前回訪れた時には2階にルノアールやセザンヌなどが展示されていたが、今回の改装では2階を取っ払ったうえ、地上に出して大きなガラスの天井と窓から自然の光を睡蓮の間に取り入れるようにしたそうだ。モネの希望通り、刻々と移り変わる日中の自然光が戻ってきたわけだ。

入口に続くすっきりとした通路空間を通って睡蓮の間に入ると、縦30m、横15mもあろうかと思われる楕円形の部屋の壁をぐるっと睡蓮が囲んでいる。小舟から水面に浮かぶ睡蓮や水草などを眺めているような贅沢な空間に身を置いている感じである。


緑の反映


朝No1


夕日


睡蓮の間1は、水のエチュード ・・・ 朝No1、緑の反映、雲、夕日と題された4枚の睡蓮である。絵は見ることが好きなだけの絵画音痴、さらに視力も急速に落ちている自分には、全体を視野に入れようと離れて立ってみるとぼやけてしまい、近づいてみるとその部分しか見えず全体のつながりが分からない。少しは勉強しおくべきだと思うのだが、喉元過ぎるとすぐに忘れてしまう。

部屋の真ん中に置かれた楕円形の椅子に座ってぼんやりしていると、英語が話せますかと50~60才くらい?のご婦人に声をかけられる。聞けば、キャノンの一眼レフをノーフラッシュにする仕方が分からないので困っているとのこと。デジカメと違って一眼レフではモードダイヤルにノーフラッシュのマークがあるので慣れないと分かりにくのかも知れない。モードダイヤルを回してノーフラッシュにしてあげると嬉しそうである、ノーフラッシュにしないとここでは日本の高級カメラも用をなさない。(この後、顔を合わす度に微笑みながらかすかに頭をさげる仕草をされるので、少しは役立ったのかと気分がよい)


朝No2


朝の柳


2本の柳

次の睡蓮の間2には、朝No2、木々の反映、2本の柳、朝の柳など、柳の木をモチーフにしたものが多いようだ。


ルノアールやセザンヌなどの絵は奥の細長い廊下のような展示室の両側に展示されている。このコレクションは画商ポール・ギョームと実業家のジャン・ヴァルテールの妻であったジュリエット・ラカーズの寄進を基にしたものだそうだ。


ルノアール…ピアノを弾く娘たち


遊ぶクロード・ルノアール


ルノアール…2人の少女の肖像


ルノアール…風景の中の裸婦


ルノアール…足を洗う裸婦


ルノアール…横たわる裸婦


セザンヌ…セザンヌ夫人


セザンヌ…樹木と家


セザンヌ…シャトー・ルワールの公園で


ゴーギャン…風景


モジリアニ…ポール・ギョームの肖像


ローランサン…ポール・ギョーム婦人の肖像


ピカソ…赤い背景の裸婦


ピカソ…抱擁


ピカソ…大きな浴女


マチス…薔薇色の裸婦

前回2階に展示されていた作品は新しく造られた地下の展示スペースに移されている。ピアノを弾く娘たち、長い髪の浴女、風景のなかの裸婦などルノアールが10点あまり、セザンヌは静物や風景、肖像画など、このほかマティス、ドラン、モディリアーニ、ユトリロ、ピカソなどなど。(2013年、オランジュリー美術館に戻る)

2日目 パリ

ルーヴル美術館(メソポタミア&北部シリア) 展示室6

パリ、ロワール、ロンドン旅行2日目

ルーヴル美術館、古代オリエント美術部門
展示室6

釉薬煉瓦のライオン(バビロン出土、BC6世紀、幅227cm、高さ 105cm、テラコッタ煉瓦)


新バビロニア王朝のナボポラッサル王(BC625~605)と2代目の王ネブカドネザル2世(BC604~562)によってバビロンは再建され、イシュタル門からマルドゥク神が祀られたエサギラ神殿に通じるバビロンのメインストリート‘行列道路’の両側の壁は彩釉煉瓦に浮き彫りされたライオンで飾られていた。

ドイツが発掘し、イシュタル門や行列道路一部がベルリンのペルガモン博物館に復元されている。(ペルガモン博物館につては →)
ルーヴルのこの1頭のライオンは、ペルガモン博物館からの借物だそうだ。
彩釉煉瓦の浮き彫りライオンは、まず浮彫のある素焼き煉瓦を作り、その上に輪郭線を黒っぽい釉薬で描き、他の面に色釉を施してから焼成して作るとのこと。

カルディア王朝(新バビロニア王朝)第二代目の王ネブカドネザルの手によってバビロンの町の再建事業は熱心に進められた。
町には東西に主要な道が通ることとなったが,南北方向に通る行列大通りは,王宮とマルドゥク神殿とがこれに面していることからもわかるように,バピロンのメインストリートであった。

図版に見るライオンは,この行列大通りに面した壁の装飾の一部である。
彩釉煉瓦を壁面にびっしりと並べ,ライオンの姿が浮彫で現れてくるように工夫したものである。同様の技法を用い,王宮の玉座室など重要な建物やイシュタル門などにも装飾が施された。これはまず浮彫のある素焼き煉瓦を作り,その上に輪郭線を黒っぽい釉薬で描き,他の面に色釉を施してから焼成したものである。

ドイツオリエント協会の発掘隊がバビロンを発掘した際にはこれらの煉瓦はばらばらに崩れ落ちていた。それを丹念に拾い集め再構成したものである。ライオンは古代メソポタアにおいては冥界の王ネルガル神のシンボルと考えられていた。

ネブカドネザルの宮殿の玉座室の彩釉浮彫では,ライオンの列の上方に生命の樹のモティーフが並んでいる。この行列大通りのライオンも、玉座室のライオンと同様ある種の象徴性を持たされていたものであろう。

ホルスの誕生(BC8世紀末、アルスラン・タシュ(ハダト)出土、高さ8.5cm 幅9.9cm 象牙・金箔製)


シリア北部、ユーフラテス川近くのアルスラン・タシュ(旧ハダト)はアラム人の都市であったが、BC8世紀後半にアッシリアの支配下となった。その時、この地を治めるアッシリア総監の大きな宮殿が建てられたとされているが、その宮殿の跡からたくさんの象牙細工が発掘された。

これらの象牙細工は王座や寝台の木製調度品の装飾として使われていたものと考えられているが、アッシリアがシリアやフェニキアを征服した時に収奪した戦利品らしい。

この「ホルスの誕生」は1枚のパネルに貼られている12~3枚ほどの小さな象牙細工のうちの1枚である。2人の有翼精霊(羽根の縁には金箔が貼られている)が両側から、ハスの上のホルスの誕生を祝福している場面である。
象牙もそうだが、ハスの花の上でホルス神を連想させたモチーフは明らかにエジプトのものである。

シリア北部、ユーフラテス川近くのアルスラン・タシュ(旧ハダト)はアラム人の都市であったが、BC8世紀後半にアッシリアの支配下となった。その時、この地を治めるアッシリア総監の大きな宮殿が建てられたとされているが、その宮殿の跡からたくさんの象牙細工が発掘された。

これらの象牙細工は王座や寝台の木製調度品の装飾として使われていたものと考えられているが、アッシリアがシリアやフェニキアを征服した時に収奪した戦利品らしい。

この「ホルスの誕生」は1枚のパネルに貼られている12~3枚ほどの小さな象牙細工のうちの1枚である。2人の有翼精霊(羽根の縁には金箔が貼られている)が両側から、ハスの上のホルスの誕生を祝福している場面である。
象牙もそうだが、ハスの花の上でホルス神を連想させたモチーフは明らかにエジプトのものである。

牡牛像(BC8世紀末、アルスラン・タシュ(旧ハダト)出土)


ホルスの誕生などの象牙細工で有名なアルスラン・タシュ(旧ハダト)は広大な円形城壁に囲まれていた。この像はその城壁の門を守る2対の牡牛のうちの1体、体長は2mあまりである。
どっしりとしているが、彫刻としては荒削りである。「コルサバードの中庭」の人面有翼牡牛像のように5本足であるのはアッシリアの影響を受けているのだろうか。

イシュタル女神を表わす石碑(BC8世紀頃、テル・アフマル(旧ティル・バルシプ出土)高さ122cm)


愛と戦いの女神イシュタルは、この石碑では彼女の随獣の獅子の上に左手に綱をもって立ち、腰に長い剣を差し背に二本の矢筒を十字に組んで背負っていて、男の戦士の姿で表現されている。
円筒の形をした冠の上には円盤が載せられているが、これは金星を表している。
服装は短いチュニックと斜めの房飾りの肩掛けを組み合わせて脚はあらわになっているが、これはアッシリアの王宮の浮彫の精霊が着ている衣装に似ている。
アッシリアの王たちが、戦士の姿をしたイシュタルを好み、崇拝していたことのようだ。

BC2000年紀頃からカナンやシリアなど各地で豊穣を司る神として民衆に崇められていたのがバアル神で、地域によってバアル、ハダト、アダト、タルフンダ、ベールなどいろいろな名前で呼ばれていた。シリアを旅行した時にはバアル神像やハダト神像を博物館で見物したし、アレッポ城砦やアマイヤドモスクなどはハダト神殿の跡地に建てられていると説明された。また、パルミラにはバアル神殿やベル神殿があり、広く民衆に崇められた神様だと実感した。
Room6 にはこれら各地で発掘された雷雨神石碑が展示されている

雷を振りかざす雷雨神ハダトの石碑 (BC8世紀末、アルスラン・タシュ(旧ハダト)出土 高さ138cm幅56cm 玄武岩)


旧ハダトで発掘された雷雨神ハダトである。ハダトは隋獣の牡牛の上に乗り、両手で雷を表す三叉矛を振りかざしている。そのうなり声が雷であり、雷雨がもたらす雨が豊穣をもたらすとされているのである。
石碑をよく見ると、円筒形の冠、長くて角のあるあごひげや腰に差した長い剣、衣装などアッシリア風なので、シリアの神がアッシリアの文化と混合しているらしい。

雷雨神タルフンダの石碑(BC900年頃、テル・アフマル(旧ティル・バルシプ出土)高さ210cm 玄武岩)


この雷雨神の石碑は、トルコ国境に近いシリア北部のティル・バルシプ発掘で発見されたものである。碑文には「我はマスワのハミアタ、国王、天のタルフンダ神の僕である」とあり、碑の様式からもヒッタイトの伝統を継ぐものらしい。

左手に三つまたの矛の形の雷を持ち、右手は斧を振りかざしており、短いチュニックをまとい、ウエストにベルトを締め、そこへ剣が差されている。帽子には神格を象徴する二対の角が付けられ、頭上には、エジプトに由来する有翼の太陽円盤が、ここでは三日月と太陽盤の組み合わせになっているが、ヒッタイト様式なんだそうだ。

バアル神石碑(ラス・シャムラ(旧ウガリット)のバアル神殿出土、BC17世紀 高さ142cm 石灰岩)


右手に梶棒を振りかざし、左手の長い槍のような棒を持っている。棒の穂先は土の中に突き刺され、槍の柄からは植物の枝が生えている。嵐を引き起こし、慈雨をもたらす雷雨神の伝統的な姿でバアル神の姿が表された石碑である。
バアル神と槍の間でしゃがみ込んでいるような小さな人物は、この神を礼拝しているウガリットの王だとされているそうだ。

鬼神パズズの銘の入った小像(BC1000年紀、購入、高さ15cm 青銅製)


いかにも忌まわしいグロテスクな小像である。人間の身体に、獅子の顔、2対の翼、獅子の前足、鷲の足、 サソリの尾を生やし、先端は蛇の頭の男根をもっているという。
この小像の翼の裏面をおおう碑文には「我パズズ、ハンビの息子、猛威を振るい荒々しく山から出てくる大気の悪霊の王者、それは我である」とあり、パズズは熱風の悪霊で、西風とともにペストを運んでくるとして恐れられていたとそうだ。

一方、そのグロテスクな顔立ちは、悪の力を払いのける厄除けの力をもっているとして守護神として扱われることもあり、病人の部屋に吊り下げられていたりしたらしい。

Room6には、このほか大英博物館から寄贈された、ニムルドやニネヴェから発掘されたレリーフが壁一面に展示されている、それらは、アッシュールナシパル2世と高官、有翼精霊、アッシュールバニパル王、アッシリアの戦車などなどである。大英博物館の見物も予定しているで、もっとすごいレリーフにお目にかかれるのかもしれない。

時計をみると4時近くになってしまった。ルーヴルのメソポタミア部門は興味尽きないが、今日はオランジェリーも予定にいれているので、ルーヴルはこの辺でお仕舞い。

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2日目 パリ

ルーヴル美術館(メソポタミア) 展示室3 その2

パリ、ロワール、ロンドン旅行2日目

ルーヴル美術館、古代オリエント美術部門
展示室3の2

献酒碑の頂上部(スーサ出土、ウル第3王朝BC3000年紀後期、高さ67cm 白色石灰石)


左側に立っているのは頭部が欠けているが、多分王で、2房の実が生ったナツメヤシ椰子の木に飾られた祭壇で椅子に座った神の前で献酒の儀式を行っている場面とされている。
円錐形の冠を被り王座に腰掛けている神は、空に太陽がさんさんと輝いていることから太陽神シャマシュと推測される。太陽神シャマシュはシュメールでよく見かける権威の象徴の杖と円環を持っている。ウル第3王朝時代に建てられたものだが、BC12世紀にエラムによってスーサに持ち去られたもの。

 

メリシバク王のクドゥル(スーサ出土、BC12世紀初期、高さ65cm、幅30cm 黒い石灰岩)


この碑もスーサから発見されたが、エラムがバビンから持ち去ったもの。
クドゥルは土地所有の権利を明示するために所有地の境に立てた境界石で、カッシート王朝時代に盛んに作られるようになったと言う。
黒い石灰岩の一枚岩からなる碑は、表面を平坦にならし浮彫りを施し、裏面にはメリシバク王(BC1186~1172年)が子共たちに土地を与えたことを記してある。
表面は5段に仕切られ、各段に様々な神のシンボルが並んでいる。最上段には月神シンのシンボル、太陽神シャマシュのシンボルとイシュタル女神のシンボルの金星が刻まれている。その下は、解説によれば、左から天の神アヌ、神々の王エンリル、水の神エア、母神ニンフルサグそれぞれのシンボルなのだそうだ。
2段目には冥界の王ネルガルなどのシンボル、3段目にはバビロンの主神マルドゥク、書記の神ナブのシンボル、4段目には雷の神アダトのシンボルなどバビロンのパンテオンがおどろおどろしく表されている。
これらの神々は保証人として、碑に述べられている王の贈与を守護する役割をしているのだそうだ。

未完成のクドゥル(スーサ出土、BC12世紀初期、高さ54cm、幅36cm 白い石灰岩)


この未完成のクドゥルもスーサで発掘されたものだが、完成したもの未完成の状態のものなどカッシート王朝時代にたくさん作られたことが窺える。
このクドゥルでは、上の「メリシバクのクドゥル」と違って、1番上の段にパンテオンの最高位の天空神アヌなどのシンボルが刻まれ、2段目に月神シンなどの天体神のシンボルが表されている。メソポタミアの最高神のパンテオンを1番上の段にするか、天体神を1番上の段に表わすのか、決まりはないようだ。この未完成のクドゥルでは天体神のシンボルの獣や神の従者が楽器を演奏しているようであり、興味深い。
碑文が書かれるところは空白となっており、このクドゥルが未完成であることを示しているが、底部には2本の角を持った蛇がクドゥルに巻きついているところが刻まれている。角を持った竜はバビロンで最も人気のあったマルドゥク神のシンボルである。‑

ラルサの礼拝者(ラルサ出土、BC1800年代前半、高さ19.5cm 青銅、金箔)


ターバンに似た帽子をかぶった男が右膝をつき、メソポタミアの慣習に従って右手を顔の高さに挙げ祈りを捧げている。男の顔には礼拝者らしい真剣な表情に加え、王者の風格が備わっている。
礼拝者像は台座の銘文には、ハンムラビ王の長命を願って奉納したものと記されており、この像はハンムビ王そのものを表している可能性が高いと言われている。
ターバンに似た帽子をかぶった男が右膝をつき,右手を顔の高さに挙げ祈りを捧げている。男の顔と両手先には金箔がかぶせられている。台座の側面には一面に小さな羊の姿が、清めの水を受けるとろであろうか。また他面に奉納者のアウィル・ナンナルを含む二人の人物が見られ,前方に小さな受け皿がついている。金箔を貼った男の顔には礼拝者らしい真剣な表情に加え,王者の風格が備わっている。

野生ヤギ像(ラルサ出土、BC1800年代前半)


3頭の野生山羊が背中合わせに立ち上がっているブロンズ像。カップ・スタンドだと説明されているが、どのように使用されたのかよく分からない。
この像と上のラルサの礼拝者像の2つはバビロニア南部の都市ラルサの遺跡から盗掘された作品だそうで、ルーヴル美術館が購入して収蔵している。

ハンムラビ王の頭像(スーサ出土、BC2000年紀初期、高さ9.7cm 閃緑岩)

高さ10cmにも満たないこの頭像は古代オリエントでも最も有名な彫刻の1つとされ、すぐれて高品質な彫刻であること、年配の人物が表されていることからハンムラビ王の像ではないかと言われていた。しかし、丁寧に整えられた頭髪や首に巻かれた髭などはBC2000年前後の彫刻にみられるものでハンムラビ王より時代的には少し遡るものらしい。
リンカーンのような面長の風貌、少しそげた感じの頬、何段にも重ねられた巻き毛など、思慮深い年長者の表情のように思われるが、目が心なしか少しうつむいているようで優しさも感じられる。

メソポタミでは現在の意味での個人の肖像と言われる概念はなかったとされるので、写実的なものではなく熟年者の威厳と優しさを理想化したものかも知れない。


高さ10cmにも満たないこの頭像は古代オリエントでも最も有名な彫刻の1つとされ、すぐれて高品質な彫刻であること、年配の人物が表されていることからハンムラビ王の像ではないかと言われていた。しかし、丁寧に整えられた頭髪や首に巻かれた髭などはBC2000年前後の彫刻にみられるものでハンムラビ王より時代的には少し遡るものらしい。
リンカーンのような面長の風貌、少しそげた感じの頬、何段にも重ねられた巻き毛など、思慮深い年長者の表情のように思われるが、目が心なしか少しうつむいているようで優しさも感じられる。

メソポタミでは現在の意味での個人の肖像と言われる概念はなかったとされるので、写実的なものではなく熟年者の威厳と優しさを理想化したものかも知れない。

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2日目 パリ

ルーヴル美術館(メソポタミア) 展示室3 その1

パリ、ロワール、ロンドン旅行2日目

ルーヴル美術館、古代オリエント美術部門
展示室3の1

シュメールの世界からいきなりRoom4の新アッシリアの「コルサバードの中庭」に行ってしまったが、この後、Room3に入る。歴史的には時計の針を1000年ほど戻す格好になる。

Room3の真ん中に展示されているのが有名な「ハンムラビ法典」である。
傍にハンムラビ法典についての、いくつかの言語の解説パネル(日本語版もある)が置いてあり、詳しい解説を手にしながら見学することが出来る。(→ 日本語版解説パネル)

先ずはハンムラビが活躍した時代背景などについて;
BC2000年紀の前半はシリア辺りからメソポタミアにやって来た西セム系の遊牧民族、アモリ人が活躍した時代で、 ウル第3王朝滅亡後にメソポタミア各地に成立したイシン、ラルサ、バビロン、マリなどの都市国家が互いに覇権を争っていた。
ハンムラビはバビロン王朝の6代目の王(BC1792年~1750年頃)である。ハンムラビが王位に就いたころのバビロン王国(のちの新バビロン王朝と区別するために古バビロン王朝と呼ばれる、バビロン第1王朝とも言う)は強国に周囲を囲まれた弱小国であった。そのため治世の始めは防御壁の補強、神殿の拡充、潅漑網の整備や小作、徴税などの制度改革を進めて国の基礎を固めていった。エラムがメソポタミアに攻め入った時には、ラルサなど諸国と同盟を結びながら、機を見て同盟相手を征服してしまうなど外交手腕も発揮して、治世29年の後にはメソポタミアを手中に納めた。

ハンムラビ法典(スーサ出土(元々はシッパル)、BC1750年頃、高さ225cm幅65cm 玄武岩)


さて、ハンムラビ法典は「目には目を歯には歯を」で知られているが、高さ225㎝、幅65cmの玄武岩の石碑である。スーサ出土であるが、もともとは太陽神シャマシュの都市シッパル(あるいはマルドゥク神の都市、バビロン?)に建てられていたものを、BC12世紀にエラムが戦利品として持ち去ったためである。

碑の頂上部には、浅浮き彫りで王と神が向かい合っているところが表されている。王はグデアと同じように支配者を象徴する帽子を被り、右手を顔の前に上げ祈りの姿勢をとっている。神の方は両肩から炎が出ているので、正義の守護神である太陽神シャマシュだとされている。太陽神シャマシュは神の力を象徴する権杖と環を手にして王の方に差し伸べているが、与えてはいないとのこと。

碑文は楔形文字で刻まれ、全体で3500行の大部である。その構成は叙情的で格調高く謳われた前文と後文、そして282条からなる条文は日常的な言葉で、「もし人が・・・・したならば」、「その者には・・・・が起きるであろう」という条件法で悪事を行った者への制裁が示されている。
「目には目を」、「歯には歯を」は196条と200条に定められており、同害復讐法と言われているが、ハンムラビ法典より300年以上も前のウル第3王朝の「ウルナンムの法典」では傷害罪は賠償で償うべきとされていたと言われているので、シュメール社会とは違って砂漠の民のセム族の厳しい掟がハンムラビ法典に反映しているのかも知れない。

ハンムラビ法典が詳しく取り扱っているのは、農業・畜産、商業や家族などで、なかでも家族に関するものが70条近くあると言う。なかには不倫や夫を拒否する妻など現代でも身につまされるものもあり興味深い。

碑文

続いて、マリ出土品3点、マリはシュメール初期王朝時代に栄えていたが、BC2400年頃に滅びている。マリを再興したのはアルム人で、BC1900年頃から黄金期をむかえ、ジムリ・リムの宮殿には300以上の部屋があったと言われている。そのマリもBC1759年にハンムラビ王によって破壊され滅亡した。

王権を授かるマリ王ジムリ・リム (BC2000年紀初頭、マリ出土、高さ1.75m、幅2.5m 白い漆喰上の壁画)


宮殿の王座の間の前室の広間の壁を飾っていたもので、レリーフではなく漆喰のうえに絵画のように描かれているので、劣化が進み判然としない。解説を見ながら近づいてみると、中央部分の上段に手を挙げ礼拝の姿勢をとり、左手で女神(イシュタル?)の差し出す笏とリングに触っている人物が描かれている。この人物がジムリ・リム王らしい。
この二人を挟んで更に外側に女神が二人ずつ、そして下段にも水壷を持った女神2人が見える。下段の女神は水の流れる壷を持っており、魚や植物らしきものが描かれているが、水も魚も植物も生命のシンボルとされていたようだ。
右側には、想像上の植物と人面獣身の動、翼をはばたかせている鳥、ヤシの木とそれに登る人、そして木の外側に立つ女神の姿などが描かれており、空想の世界が広がっている。
左側の牡牛の1頭はオレンジ色が残っているので、このジムリ・リム王の叙任の図は鮮やかに着色されていたのだろうか。

犠牲の牛を引く人々(BC2000年紀初頭、マリ出土、壁画、高さ76cm 幅1.75m)


王座の間の中庭の壁を飾っていたとされている。ごく断片的にしか残っていないので全体の姿は分からないが、特別大きく描かれた人物に率いられて人々が牛を引いて行進しているところが描かれている。大きく描かれた人物が王で、丈の高い白い帽子をかぶった男たちに引かれている牡牛は神殿に供物として捧げられるのだろうか。
従者は彫りの深い顔をしており、その表情は現代の軍人のように冷徹な感じである。

獅子像


マリのダガン神殿の入口に置かれ、建物を悪霊や外敵から守る役割を持っていたブロンズ製のライオン像である。入口の左右に対になって置かれていたもので、もう一方の片割れはシリアのアレッポ国立博物館に展示されている。ダガン神はマリでは最高神として崇められた神である。
このライオン像は頭部から肩、前足にかけての部分しか残っていないが、なにかを見つけて身体を起し、大きく口を開けて威嚇しているように見える。
大きく見開いた両眼は、白色の石と青味がかった片岩とを使った象嵌細工、口から一部のぞいている歯は白色石の断片を並べたもので、細部の表現も工夫されている。(むしろ、トノサマガエルに見えるのだが)

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2日目 パリ

ルーヴル美術館(メソポタミア) 展示室4 その2

パリ、ロワール、ロンドン旅行2日目

ルーヴル美術館、古代オリエント美術部門
展示室4その2

レバノン杉の輸送図

新アッシリアの歴代の王たちはシリアやレバノン、パレスティナ方面を盛んに攻略し、これらの地域を支配下に収めようとしたが、それはこの地方が交通の要所であるとともに、メソポタアはない貴重な物資の供給地であったからだと言われている。
王たちはシリアや地中海沿岸地方を征服すると貢納させて物資を調達、アッシリア本土に新都、新宮殿を建設していた。
特に、森林のないアッシリアでは、レバノンの山岳地帯に生育する良質の杉材は宮殿造営には欠かせないものであったと言う。

このレバノン杉輸送図はレバノンの山から切り出した木材をアッシリアに運ぶ様子を4つの場面に表している。

最初は山から杉の木を切り出している風景、次いで海岸で船に木材を積んだり、結び付けている様子が仔細に描かれている。(船は、のちヴァイキング船のように船首と船尾が高く巻き上がり、舳先には馬首の飾り、ともには魚の尾っぽの飾りが付けており、アッシリア人の装飾感覚が興味深い)

海上輸送では場面いっぱいに何隻もの船がオールを漕いで進んでいる様子が描かれており、船の間では魚、亀、海蛇、カニなどが泳いでいて何とも賑やかである。

最後は船が港に着いて荷下ろしをしているところ、さらに要塞に向けて運搬している場面である。
このレバノン杉輸送図はアッシリア文明を最初にヨーロッパに紹介した有名なものだそうで、ヨーロッパ人はさぞ驚いたことだろう。

山羊を抱いた高官

王座室を挟んで「栄誉の中庭」の反対側の「中庭m」のファサードを飾っていた浅浮き彫りで、サルゴン2世の宮殿を飾っていた浅浮彫のなかでも最も出来の良い作品の一つとだと言われているそうだ。

高官は右手に蓮の花を持ち、左手で子山羊を抱いている。子山羊はこれから犠牲として神に捧げられるのだろうか。前を歩く人物は左手にけしの枝を持ち、右手を挙げて祈りの姿をしている。髪の毛やひげの規則正しい渦巻文の配列、縁に縫い取りのある衣服と毛皮の上衣、花飾りの付いたヘアバンドなどの細部がていねいに彫られていて、なるほど最も出来の良い作品だと言われているのが納得できる。

狩猟図

宮殿の北西の隅にあった小さな建物の壁からはたくさんの浅浮き彫りが出土したが、狩猟場面を表す浮彫もその1つである。

サルゴン2世が馬車に乗り従者を従えて野外に狩りに出かけ、森の中で野生鹿や鳥、兎などを矢で射たり、獲物を運んだりする様子が刻まれている。

この浅浮き彫りは、森の中でサルゴンの従者が鳥に向かって矢を放とうとしているところである。

けしの花を持つ精霊

この浅浮き彫りも狩猟図と同じ小さな建物の壁に刻まれていたもので、様式化された木を挟んで2人の精霊が向かい合うように立っていた。精霊は左手にけしの花を持ち、祈りを捧げるように右手を上げている。様式化された木は王に与えられた神の支えによって成就された世界の調和を表わすものと言われている。慈悲深い精霊は生命の木を守護するものであった。

貢ぎ物を運ぶメディア人

サルゴン2世に征服されたメディア人が、自国の服を身に付け、模型で象徴される城砦を明け渡し、貢物としてりっぱな馬を連れて行くところである。

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