バスを降りて赤砂岩の城壁に近づくと、高さ22m、銃眼付き胸壁や高楼などを備えた稜堡は豪壮で、近づき難い雰囲気がある。
ガイドさんによれば、濠をめぐらし2重壁の2.5kmにわたる現在の城壁はアウラングゼーブ時代に築かれたものだそうだ。
アマー・シング門を通り、もう1つの門を抜け100mほどのゆるいスロープの通路を出ると、そこは城内である。

アグラ城の案内板によれば、‘アグラ城はインドで一番重要な城塞で、バーブル、フマユーン、アクバル、ジャハンギール、シャー・ジャハーン、アウラングゼーブなどムガル帝国の歴代皇帝が住み、帝国はここから統治されていた。
デリーの北、パニパットでロディ軍を破った後、バーブルの命を受けてアグラに向かったのはフマユーンで、アグラ城とロディ朝の莫大な財宝を手中にするが、そのなかにはコイヌールと呼ばれる186カラットのダイヤモンドも含まれていた。このコイヌールはナーデル・シャーなどの手を経た後、イギリスが持ち去りビクトリア女王の王冠を飾ることになった。(現在はロンドン塔で展示されているが、たしか100カラットくらいにカットされたと記憶している)
ヤムナ川沿いに半円形に広がるアグラ城は、1565年から常時4000人が働き、8年かかって築かれ、城内には500もの建物があった。しかし、1803年~1862年にかけて、イギリス軍が兵舎を作るために殆ど壊してしまい、現在は東南の地区に30あまりの建物が残っているに過ぎない。(一部はシャー・ジャハーンなどが自分好みの宮殿を作るために壊した)
このうちアクバル時代のものはアマー・スウィング門、デリー門とジャハン・ギールマハルだけだある’
ガイドさんの説明を付け加えると、赤砂岩はアクバル、赤砂岩と大理石はジャハン・ギールで大理石がシャー・ジャハーンのものと思えばいいらしい。もっとも、ジャハン・ギールは建築に興味がなく、アクバルの血筋を継いで建築狂となったのはシャー・ジャハーンだという。

ジャハンギール・マハル(Jahangiri Mahal)

四分庭園となっている前庭の右手、赤砂岩の美しい建物がジャハンギール・マハルである。アクバルが息子ジャハン・ギールのために建てたと言われている。
ジャハンギール・マハルの正面は左右対称になっていて、小さいドーム(チャトリ)が両端に乗っている。壁にはアーチ型の模様が連なっていて、白大理石の象嵌なのだそうだ。
宮殿の内部は、中庭を囲む建物、半ドームのアーチなどのイスラム様式と、木造のように見える石造りの柱や梁、繊細な彫刻が施された庇や腕木などのヒンドゥー様式が融合した構造になっているようだ。
アクバルの建築技術者の大半は現地調達のインド人で、アクバルは慣れない様式の作品を作ることを強制しなかったのでこうしたイスラムとヒンドゥーの混合様式の傑作が出来たという。

カース・マハル(Khas Mahal)

ジャハンギール・マハルとカース・マハルの繋ぎのような感じのシャージャハニマハルを通ってカース・マハルに。
カース・マハルは赤砂岩と大理石造りの宮殿で3つの部屋が繋がっていて、1637年にシャー・ジャハーンが自らの居室と、愛娘のジャハナラとロスハラナのために建てたと言われている。宮殿の外側からはヤムナ川を見下ろすことができ、内側は四分庭園のブドウ園に面している。宮殿の白大理石造りの床や壁は花や草をモチーフにした装飾で覆われているが、かって貴石で象嵌されていた繊細な細工は略奪されてしまったらしい。
ブドウ園の3方はハーレムが囲んでいる。

ムサンマン・ブルジ (Musamman Burj)

カース・マハルの続きにあるのがムサンマン・ブルジ。シャー・ジャハーンが后のムムターズのために建てたと言われる8角形の塔で、ヤムナ川に突き出るように建っている。
立ち入り禁止なっているが、部屋の真ん中に蓮の形の噴水が見え、ヤムナ川からの風と相まって涼をとる工夫がされているようだ。
花をモチーフにした柱の象嵌は美しく繊細であるが、内壁や外壁にはくぼみが沢山あり、かつては貴石で象嵌されていたものが奪い取られた跡だそうで、無残である。
ムガル王朝には長子相続制度がなかったので、帝位継承にあたっては、血で血を洗う凄惨な争いが伝統になっていたが、シャー・ジャハーンの3男アウラングゼーブも弟2人と組んで長男軍を破り、長男に肩入れをしていた父親シャー・ジャハーンをアグラ城で降伏させている。
弟を謀殺、斬首した長子を市中引き回し、父親を投獄してアウラングゼーブは第6代皇帝に即位する。
シャー・ジャハーンは死ぬまでの7年間、愛娘のジャハナラの世話をうけながらこのムサンマン・ブルジでタージ・マハルを眺めて暮らしたという。

このあと、貴賓謁見の間、一般謁見の間、などを見物してアグラ城の観光はおわり。