アグラ城の観光が駆け足だったので、タージ・マハルの駐車場に予定より早く4時半前に着く。
ここで10人乗りくらいの電気自動車に乗り換えてタージ・マハルに向かうことになる。大気汚染対策でタージ・マハルの周囲1kmには一般車の乗り入れを規制しているらしい。

ガイドさんによれば、タージ・マハル名前の由来には2つの説があるそうだ。
1つは、王妃の名前ムムターズ・マハルが縮まったものという説で、こちらが有力らしい。もう1つは‘タージ’は王冠の意味で、‘マハル’は宮殿なので、文字通りに訳せば‘王冠宮殿’となるが、シャー・ジャハーンが、結婚前に宮殿をプレゼントする約束をしていたことを思い出して、宮殿を建てたというもの。

墓廟にもかかわらず‘マハル’(宮殿)と呼ばれているところからきているようだが、こちらはちょっとこじ付けの感じである。
因みにムムターズ・マハルはペルシャ語で‘宮廷の選ばれし者’という意味の称号で、本名はアルジュマンド・バヌゥ・ベーガム。

ムムターズ・マハルはペルシャからはるばる3千数百キロの旅をしてインドに新天地を求めてやってきたギヤース・ベーグの孫娘で、ムムターズの伯母がジャハンギールの王妃、ヌール・ジャハーンである。

ムムターズ・マハルとシャー・ジャハーンの出会いはアグラ城で年1回開かれるバザーでのこと、当時、フッラムと言った15才が黒い瞳を持つ輝くばかりの美女に一目ぼれしたのだそうだ。二人が結婚したのは5年後の1612年、ムムターズは19才であった。

フッラムは生来の武人で、その武勲によりシャー・ジャハーン(世界の王)の称号を与えられていたが、各地への遠征の時、父ジャハンギールに反抗して各地を放浪した時、また、ムガル王朝伝統の帝位継承に絡んだ争いの時にもムムターズをいつも帯同し、傍らから離さなかったという。

1631年、シャー・ジャハーンのデカン高原遠征に同行していたムムターズはブルハーンプルというところで第14子を生んだあと産褥死した。39歳であった。ムムターズの死の床での願いは4つ、その1つが彼女のために記念碑を作ってほしいというものであった。
ムムターズの死に悲嘆にくれるシャー・ジャハーンであったが、翌年には彼女の廟の造営を始める、タージ・マハルである。

タージ・マハルの造営にはインドは勿論、ペルシャ、トルコやアラブなどから2万人もの職人や技術者を集め20年あまりの歳月をついやしたという。
大理石はラジャスタンのマクナラから300km、赤砂岩はファテープル・シークリから1000頭以上もの象で運ばれてきた。
建物本体は4年ほどで立ち上がったが、20年もの歳月を要したのはタージ・マハルの象嵌のためで、黄色はジャスパル、赤はサンゴ、青はサルコワイズ、黒はオニックなど30種類以上の貴石が世界中から集められたと言う。
ペルシャなどから来た象嵌細工師は20年以上もタージ・マハルで働いたので、
故郷に戻らず、代々この町に居続ける人もでて、象嵌細工は町の特産品になっているそうだ。

さて、タージ・マハル観光、ガイドさんの注意事項は‘カメラと貴重品以外は持ち込み禁止で、カメラも建物を外から撮るのはよいが、内部の撮影は禁止されている。建物に上がるには裸足になるか、靴に袋を被せなければならないが、われわれのツアーは袋を用意している。内に入るとガイドと称して、これはジャスパル、あれはサンゴとなどと説明するだけでガイド料を要求する者がいるので無視すること’などなど。
入口のところで銃を持った係員がX線検査をしていて物々しいが、ひっかかる人はいないようだ。

高さ30m、赤砂岩の楼門のエイワンを潜ると青空を背景にしたタージ・マハルが見えてくる。写真で何度か見たタージ・マハルは、純白、シンメトリーなプロポーションは完璧でどこかとりすました感じもしないではないが、実際に目の前にするタージ・マハルはかすかに赤みがかっていて、暖かみのある優雅さが感じられる。
インドのノーベル賞受賞詩人、ラビンドラナート・タゴールは、

‘エメラルドからルビー、真珠・・・・すべて
うつろな空を彩る虹のきらめきでしかない
いずれは消え行くものよ
それでもひと雫の涙が時代を超えて、雰れ落ちる
この白亜に輝くタージ・マハルの姿をかりて’

とタージ・マハルを称えたと言う。

奥行き580m、横300mの四分庭園の真ん中に水路が通り、両脇の通路が墓廟まで伸びている。四分庭園は今は芝生だが、当時は薔薇、チューリップ、水仙などの草花が咲き、オレンジ、柘榴、葡萄などの果物が実る楽園であったという。

墓廟は葱ドームの頂きまでの高さが58m、4つのチャトリがドームの周りに配され、基壇の4隅にそれぞれ42mのミナレットが立っている。アザーンが行われない墓廟にミナレットがなんで必要なのというところだが、建物のバランスを考えた装飾と見ておけばよさそうだ。

基壇を上り、建物に入ると、真ん中に金網の蓋がしてある前室があり、その奥が墓室となっている。墓室の中央に8角形の大理石の透かし彫りがされた衝立があり、正面のところから中を覗けるようになっている。コーランの章句と草花が象嵌された棺が2つ、あくまでも中央がムムターズで、シャー・ジャハーンは横に寄り添っている感じである。
この棺はいわばレプリカで本物は真下の基壇の中にあり、前室の金網の蓋を開けると通路が繋がっているそうだ。

墓廟の左右にある赤砂岩の双子のような建物は左がメッカの方に向いているのでモスクとされ、右は集会所や宿舎として使われていたという。この後、エイワンのまわりや壁の象嵌をゆっくりと見てまわる。

それにしても、コーランでは墓廟は禁止されているはずで、イランなどでは権力者といえども聖者廟の片隅に葬られると聞いたし、ムガルの皇帝の墓廟は権威を誇示のための皇帝自身の廟であった。シャー・ジャハーンの治世4~5年目、まだ権力の安定期とは思えない時期に一人の后のために国家財政を傾けるほどの莫大な支出をすることを周囲に納得させた理由はなんだったのだろう。ムガル皇帝達は聖者廟に詣でて祈りをする慣わしがあったが、その辺りでうまく理由つけが出来たのだろうか。

タージ・マハルの絵葉書を買って、タージ・マハル観光はおわり。
きっちりスケジュールに組み込まれたショッピングの大理石の店で退屈な時間を過ごしてホテルに着く。ジャイプルのホテルと同じ系列、スーペリアクラスのようだ。