クトゥブ・ミナーレ

11時半過ぎにデリーに着き、昼食後、まずクトゥブ・ミナーレへ。
高さ72.5m、5層からなるクトゥブ・ミナーレはインドで1番高い石造りの塔である。ガイドさんによれば、もともとは90mあったが雷で崩れて今の高さとなっているのだそうだ。
塔の直径は基部が15m、最上部では3mと細くなっているが、重量感のある堂々とした建造物である。

ミナーレという名前がついているが、アザーンのためではなく、トルコ系ムスリムで奴隷出身の将軍アイバクがラージプトを倒しデリーを征服した記念として建設した‘勝利の塔’である。初めて支配することになったヒンドゥーの地でイスラムの優位を誇示するねらいがあったようだ。
クトゥブというのはアイバクがクトゥブ・アッディーン(宗教の軸)と自称していたことからきている。もっとも、1193年に建て始めて土台部分を造ったところでアイバクは亡くなったので、後継者が引き継いで、完成させたという。

近づいてみると、赤砂岩が張り付けられた表面は、縦に半円形と3角形のリブが交互に繰り返さされ、横にコーランの文字が幾重にも帯状に刻まれていて、無骨だが逞しさが感じられる。
ガイドさんによれば、ごつごつした装飾になっているのは現地のインド人を建築工事に使ったためで、塔の入口も西ではなく北向になっているとのこと。

頂上に上がるには379段の階段を登らなければならないが、20年くらい前、 遠足に来ていた学生が将棋倒しになり60人が亡くなったので、現在は中に入れないそうだ。

クトゥブ・ミナーレのすぐ傍にあるのがインド最古のモスク、クッワトゥル・イスラム・モスク。ヒンドゥー教やジャーナ教の寺院を破壊した石材で建てられたので、イスラム教では禁止されている模様があちこちの柱の裏側には残ったままとなっている。

モスクの中庭に立っている7mほどの鉄柱は、ガイドさんによれば、4世紀ころ
に造られたもので、サンスクリット語の碑文にチャンドラ王のことが書かれているとそうだ。下部に錆びがみられるが、それにしても1600年もの間錆びなかった純度100%に近い鉄を造る技術があったとは驚きだが、どうなんだろう。

クトゥブ・ミナーレよりもっと大きい塔を造ろうとして、途中で放棄された残骸を眺めてクトゥブ・ミナーレの見物はおわり、次の観光、フマユーン廟へ。

フマユーン廟

ムガル帝国の第2代皇帝であったフマユーンが眠る墓廟。
フマユーンは父、バーブルが在位わずか4年で死去したために23才で即位したが、弟達が何度も反抗を繰り返しても、これを赦してしまうこころ優しいところがあった。
治世10年目の1540年、後にスール朝を興すアフガン系将軍、シェール・シャーに破れ、サファヴィー朝の庇護を求めてペルシャに亡命する。
この亡命にはペルシャ出身の重臣、バイラム・ハーンの画策があったといわれる。
その後、フマユーンはシャー・タフマースプから1万5千騎の助力を得て、デリーとアグラを奪還する。しかし、その翌年の1556年、プラナ・キラーの図書館の階段から転げ落ちて頭を打ち、それが原因で死んでしまう。
フマユーンの后の一人、ハージ・ベグムは非運のうちに亡くなった帝を悼んで壮麗な廟をヤムナー河の近くに建てることにした、フマユーン廟である。

さて、フマユーン廟の見物は、バスの中でガイドさんの説明を聞いた後、フリータイムである。
3つ目の門を潜ると、赤砂岩の建物の上に白大理石の葱ドームを頂く墓廟が正面に見える。タージ・マハルに比べるとフマユーン廟は素朴であるが落ち着いた感じである。
四分庭園と左右対称の墓廟、2重となっている葱ドーム、建物の4面のエイワンなどペルシャ様式で造られたこのフマユーン廟はタージ・マハルなど後のムガル墓廟のもとになっているという。

中央の墓室にフマユーンの石棺が置かれ、周囲の部屋、外の基壇にもたくさんの石棺が置かれている。廟の説明板によれば100以上の棺があり 、ムガルの寄宿舎と言われているとのこと。

ラージ・カート

日程表にラージ・カートの観光が入っているので、ラージ・カートにも行かなくてはいけませんとガイドさんが言って、急いで向かったところがラージ・カート。

1948年1月30日、ガンジーはヒンドゥー原理主義青年にピストル3発を撃ち込まれ暗殺された。翌日、ヒンドゥー教の作法に従いガンジーの遺体は白檀の木を組み上げた上に置かれて火葬にされ、遺灰はヤムナ川やガンジス川などインド各地の川に流された。
その火葬に付された場所がラージ・カートで大理石の記念碑が置かれている。
記念碑に近づいて見る為には裸足にならなくてならないとかで、記念碑を見下ろすように作られた周回の遊歩道から眺めて、ラージ・カート観光はおわり。

この後、オールドデリーのバザールの雑踏、シャージャハーンのラール・キラーの城壁やニューデリの大使館通り、大統領官邸、インド門、プラナ・キラーなどを車窓観光、紅茶の店、中華料理の晩御飯のあとホテルに。
1時半のホテル出発となっているので、少し眠ったと思ったら10時にモーニングコールが鳴って起される。このホテルは最初の日はモーニングコールをすっぽかし、今度は3時間も早く鳴らして呉れる、名前だけは立派だが一体どうなっていんるだろう。

午前2時半、デリー・インディラ・ガンディー空港は昼間のようにごった返し、上海行きの中国東方航空も満席のようだ。アジアの両巨人がごとごとと足音をきしませて驀進し始めていることがよく分かる。

で、インド5日間の旅はおわり。岡山から参加されたご夫婦、温和なご主人は姉妹都市の名誉大使をされ、奥様は観光ガイドのボランティアで活躍されている由、川西のご家族は娘さんと一緒に世界中を旅行されている旅なれた一家でした。お客さんの不満を体験しておきたいとバスの一番後ろの席にも座った快活な添乗員さん。皆さんに感謝、感謝。