午後4時前に中国東方航空で関西空港を出発、乗り継ぎの上海浦東空港に5時20分に着く。ここで5時間ほど乗り継ぎ待ちである。
このツアーは往復とも上海での乗り継ぎ待ちが5時間、入国時のホテルチェックインが午前5時、出国時のチェックアウトが午前1時などと超過酷スケジュールなのである。だもんで、今回の参加者は6人と寂しい。
上海空港ではお茶をしたり、免税店をぶらぶらしても時間はたっぷりあるので、インドの歴史など予習をして時間をつぶす。
で、ムガル帝国の歴史を簡単に纏めてみる。
年代 | 出来事など |
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BC2300頃 | ハラッパ、モヘンジョ・ダロなどインダス文明 |
1500頃 | インド・ヨロッパ系のアーリア人が移住してきた、同時期イラン高原にも進出した |
800頃 | バラモン教が始まる |
560頃 | 仏陀、マハヴィーラーが生まれ、仏教、ジャイナ教が始まる |
518 | アケメネス朝ペルシャのダレイオス1世軍、インダス河流域に侵入 |
327~325頃 | アレクサンダー大王のインド遠征 |
268 | アショカ王即位、全インド統一 |
AD320頃 | バラモン教からヒンドゥー教へ変化 |
1206 | 中央アジアのトルコ系王朝が相次いで来襲、ついにはアイバクが奴隷王朝を興し、イスラムによる支配が始まる。この後、デリー・ムスリム王朝は第5代王朝のロディー朝まで続く |
1510 | ポルトガルによるゴアの占領 |
1526 | ティムールの王子バーブル、11才で父のあとを継ぐ。中央アジアを放浪の末、インドを目指す。デリーの北、パーニパットの戦いでバーブル軍2万5千はロディー軍10万を倒し、デリーとアグラを占領、ムガル帝国を1526年に興す。1527年、インド軍(ラージプート)連合軍10万を破り、ヒンドゥスタン平原に勢力を拡大する |
1530 | バーブル48才で死亡、第2代皇帝フマユーン即位。 1540年、アフガン族を率いたスール朝のシェール・シャーに破れ、サファヴィー朝のシャー・タフマースプの庇護を求めペルシャに亡命する。その後サファヴィー朝の支援を受けて再起、1555年にデリーを奪還するが、翌年、プラナー・キラーの図書館の階段から落ちて死亡 |
1556 | 第3代皇帝アクバル帝、13才で即位。パーニパットの戦いでスール朝の残党を倒し、ムガル帝国の基礎を固める。都をアグラに遷都、ラージプートのアンベール王女を后にするなどヒンドゥー教徒との協調政策をとる。 息子の誕生を予言した聖者に感謝し、壮大な都城(ファテープル・シィークリ)を造り、1571年に遷都するが、14年後には廃棄する。ラージプート諸族の協力でデカン高原など南インドに進出 |
1600 | イギリスが東インド会社設立 |
1605 | 第4代皇帝ジャハンギール即位。 細密画などに才能を示す教養人だが、軍事・政治の能力がなくデカン高原などを失う、後年にはペルシャ人美妃ヌール・ジャハーンに国政を委ねる |
1627 | 第5代皇帝シャー・ジャハーン即位。 生来の武人、デカン高原遠征に同行していた最愛の妃ムムターズが1631年に産褥死する。彼女の死を悼んでタージマハルを20年かけて建設。また、1638年から10年かけてジャハナバードを建設、デリーに遷都する |
1653 | タージマハル完成 |
1658 | 第6代皇帝アウラングゼープ即位。 帝位継承争いを勝ち抜き、シャー・ジャハーンをアグラ城に幽閉する。 版図は最大となるが、イスラムへの回帰策をとったため、反乱が激しくなり帝国の衰退が始まる |
1739 | シャー・ナーデル、デリーに侵攻 |
1757 | イギリスの本格的に植民地化が始まる。 |
1857 | セポイの乱 |
1858 | ムガル帝国滅亡、イギリスによる直接支配が始まる |
ムガル帝国の‘ムガル’はモンゴルのアラビア語訛り。ムガル帝国の創始者バーブルは母方の血筋がモンゴル系であったが、自身はモンゴル人を軽蔑し、モンゴルと呼ばれるのを嫌っていたという。