始皇帝陵
昼食の後、午後の見物に向かう。先ずはガイドさんの説明から;
始皇帝陵は麗山と云う山の北側の麓にあり、北方に進んで行くと渭水と云う大きな河に突き当ります。渭水はずっと下ったところで黄河に合流するのだそうだ。逆に70~80kmも遡れば秦の都の咸陽があるとのこと。

兵馬俑坑などを含めた始皇帝陵園は56万平方キロと云う広大なもので、そのうち始皇帝陵は内外2つの壁に囲まれていて、内側の城壁内は内城、外側の城壁内は外城と言い、外城は東西が940m、南北2165m、内城は東西580m、南北1355mの広さである。
始皇帝の墳丘は内城のやや南寄にあり、寝殿や休息所などの建築物の遺構ほかに陪葬墓や陪葬坑などが発見されている。陪葬坑は180くらい発見されているそうで、今日はそのうち2つの陪葬坑を見ることになっている。
入場券の裏側に始皇帝陵の簡単なマップが載っているので参考にして下さい、など説明を聞いているうちに始皇帝陵園の駐車場に着く。

K9901陪葬坑(百戯俑坑)

入口の説明によれば、この陪葬坑は始皇帝陵墓の東南の外城と内城の間で
1999年3月に発見され、面積は800㎡、11の等身大の俑、青銅の鼎、戦車や武器、馬具に飾りなどが発見された。人物は上半身裸で腰巻を
覆っている。宮廷で演じる曲芸師や角力とりなどとみられそうだ。

入口をすこし進むと、ガラスケースの中に2体の人物俑が展示されている。
1体は180cmを超える偉丈夫、左手を上げ、右手は肘を曲げている(手首が復元されていないので帯を掴んでいるのか判然としない)、もう1体は腰のあたりで腕を組んでいる(右手で左手首を掴んでいるようだ)
2体とも均整のとれた素晴らしい体格をしているのでどんな芸も出来そうだ。
この坑からはでっぷりと腹の出た角力とりを思わせる人物俑も発掘されたらしいが、始皇帝は咸陽の宮殿で日夜催した宴を死後の世界でも続けようとしたものと思われる。
K9901坑の発掘現場に進んで、ガイドさんの説明によると、百戯俑坑は現在も発掘が続けられていて新たに20体の俑が発見されているが、破損がひどいそうだ。

K0006号坑(文官俑坑)

この文官俑坑が発見されたのは百戯俑坑の翌年で共に比較的新しい。発見されたのは墳丘の東南50mのところで、発掘では8体の文官俑と4体の御者俑が見つかったそうだ。
この文官俑坑は陪葬坑の中で珍しく焼き討ちに遭っていないので発掘現場はすっきりとしており、なだらかなスロープを降りたところの房に文官俑と御者俑それぞれ2体展示されていて木製の馬車は朽ちてしまって形がない。
文官は裾の長い上衣を着て頭に長冠をつけ、両手を袖に入れている。長冠を被っているので高級官吏だそうだ。
中国の人が両手を袖に入れ頭を下げて挨拶するのを見るが、両手を袖に入れる風習はこの時代からあったのだろうか?
奥の房には馬の遺骸が散乱している、20頭ほどの馬を生きたまま埋めたらしい。

始皇帝陵墳丘

始皇帝陵は広大な広さなので陵内の移動はゴルフカートのような電気自動車で巡る。始皇帝陵の最後の見物は始皇帝陵墳丘、ちょっと乱暴気味の運転だと思っているうちに始皇帝陵墳丘の正面に着く。

始皇帝が13才で即位してすぐに造営に着手したとされる始皇帝陵の中心は
自身が死後の世界で暮らす地下宮殿である。
最近の調査で宮殿は深さが30m、面積は東西170m、南北145mと言われており、防水工事も施されているそうだ。
柩は内部を銅張にし、外には漆を塗り、翡翠、真珠、玉などで飾り付けてあり、文官や女官の控室や財宝などの副葬品を置く部屋もあり、水銀を満たした河や海も作られているそうな!

この地下宮殿を覆っているのが墳丘である。墳丘の現在の大きさは東西345m、南北350m、高さは76mだそうだ。2000年の風雨の浸食によって今の姿になっているので、当時は現在よりかなり大きなものであったと思われる。現在のものでも体積は300万立方メートル、10tダンプで50万台分になる。
始皇帝が天下を統一した後、始皇帝陵の造営が急ピッチで進められ、多い時には70万もの人が動員されたらしいが、ダンプやショベルカーのない世界では、もっこを担いで土砂を運ぶ過酷な現場は想像を絶する。

始皇帝墳丘の碑の前で皆さん思い思いに写真を撮った後、駐車場に向かう。駐車場へは徒歩である。