青龍寺
西安市内に戻り、陝西省美術博物館に立ち寄る。
何億円もする書が常設展示されているそうだが、素通りして玉作品が展示されている小部屋に案内される。玉作品5点、二十数万と吹っ掛けられたが、部屋に掛けられていた掛け軸もつけると言われ、山水画と梅の2幅が気に入ったので清水の舞台から飛び降りた。国の機関なので税関検査はなく自宅に直接届けるとのこと。

この後青龍寺に向かう。
若い時読んだ「空海の風景」は殆んど覚えていないが、空海は戦略家だなあと強烈に思ったことを記憶している。
空海は中国語に堪能な上に、すぐれた文章家であり書家でもあった。渡航の船が流されて田舎の港に漂着した時、遣唐使の正使がいくら嘆願書を出しても地方役人に相手にして貰えないので最後に空海に嘆願書を書かせたら、たちどころに扱いが変わり長安への道中の便宜も計って貰ったと言われている。
空海の渡航の目的は密教を日本に持って帰ることであったが、当時、長安で密教の最高峰は青龍寺で、恵果?という阿闍梨のもとに1000人の弟子がいたと言われている。
空海がいくら才能豊かであっても、すぐに青龍寺に弟子入りしたら高弟になるには5年、10年はかかる。

そんなことを見越してか空海は長安に入ってから西明寺に住み、密教の原語であるサンスクリット語を学んだり、空海の嘆願書のことなどの評判や文章家、書家としての才能を見聞きした宮廷の官吏たちの求めに応じて交流していた。
そんな評判が恵果?の耳に入らないわけはなく、空海が入唐して何か月か経って青龍寺を訪れたとき、恵果?は待ち人来ると歓喜したそうだ。
実が熟すを待ち、乞われてことを運ぶ、空海の戦略であったと強烈な印象が残っている。
実際、恵果は半年足らずのうちに空海に密教の2つ系統をすべて伝授し、阿闍梨を授けた。

青龍寺の山門を入る。
空海記念碑と恵果・空海記念堂、それにわずかな緑があるだけの寂しい境内である。
青龍寺のリーフレットによると、空海が唐を去った40年後のAD845年には廃仏運動が起こり、その後起伏はあったがAD1086以後荒廃し、ついに廃墟となって地上から消えてしまった。
日中国交回復後、青龍寺跡地に四国4県の日中友好協会の支援で空海記念碑、恵果・空海記念堂が建立され、庭園が寄贈されたとある。

実際、密教が途絶えて1000年以上も経てば密教の深遠な宇宙の真理などの思想は霧散霧消して跡形もなくなってしまい、日本から逆輸入しなくてはならない状態だろうが、その日本の真言宗も頼りないらしい。

入口の傍の記念碑には1996年に中国国務院が長安遺跡の青龍寺遺跡を全国重要文化物に指定したとある。長安時代の瓦の欠片などが発掘された処に青龍寺が再建されていると云うことのようだ。

境内にはわれわれ以外は人影もなく静かだと云えば静かだが、日本人の観光客が頼りのようで心もとない。
庭を少し眺めた後、社務所で「0番札所」のご朱印紙を貰う。

本日の観光はこれで終わり、大阪の御堂筋よりちょっと立派な西安のメインストリートの歩道を歩いて鐘楼の傍の特発長で餃子の夕食を食す。
日本と違って、蒸籠で蒸し上げた蒸し餃子で、 豚肉、鶏肉、貝、白菜、青菜などを細かに包んでいる。結構美味しく頂いた。