兵馬俑見学
今回の参加者は夫婦が3組と一人参加の自分を入れて7人、名古屋から2組に京都が1組で、こじんまりと和気あいあいのツアーになりそうだ。
ホテル出発は予定の8時より10分ほど早く、兵馬俑博物館に向かう。
ガイドさんは李強さん、40代のベテランである。(日本人では河野洋平に兵馬俑博物館のガイドをしたことが自慢で道中、何回も聞かされた)
バスが大通りに出ると、早速、ガイドさんの説明が始まる、高校世界史のうろ覚えを付け加えたりすると以下のようである・・・・・・

西安は中国のほぼ中央に位置する陝西省の省都で人口は大阪と同じくらいの8.5百万人ほど、それでも中国は人口が多いので21番目くらいなんだそうだ。
西安はその昔、長安と呼ばれていたが、この地に都を建設し長安と名付けたのはあの劉邦である。以後、何代もの王朝が長安を都としていたが隋朝の時代にそれまでの長安から南の郊外に新たに都城が造営された。それが今の長安で、東西10km、南北9km、山手線の内側の1.3倍もの広さがあった。シルクロードの出発点でもあり、唐の時代には人口100万人を擁する国際都市で、遣唐使などで日本との関係も深かった。
唐の末期には首都が洛陽に移され、以後、長安は一地方都市となり元に戻ることはなかった。現在の城壁は明代のもの、名称も西安となった。

次は兵馬俑博物館について・・・・・・
20世紀最大の考古学的発見と云われる兵馬俑の発見は全くの偶然によるものだった。1974年の3月、始皇帝陵から東に1.5km離れたところで村人が井戸を掘っていると土器の破片が見つかり、壺でもあるのかとさらに掘り返していると人間大の人形が出てきて、側に矢もあったと言われている。当初は誰も発見の価値が分からなかったが、その後、秦時代の陶俑(死者と共に埋葬された陶製の人形)であることが分かって国が関与、省が1年かけて発掘、東西230m、南北62mの坑に6000体もの兵馬俑が発見されることとなった。他にも2つの坑に2000体の兵馬俑が見つかっていて、発見順に1号坑、2号坑、3号坑と名付けられている。
兵馬俑ののすごいところは、兵の顔かたちが全部異なっているところです、じっくりと見て下さいと説明されている間に兵馬俑博物館に着く。

兵馬俑博物館1号坑

皆さんの後について入口を入ると、一瞬、息を呑む壮観な光景が目の前に広がってくる。一端、進軍すれば敵を蹴散らす勢いが見てとれる。
横に4体並んだ隊列が9坑、その両側を横2列の兵の坑が囲み、そして手前に横列68体の兵が3列並んでいる。
陣構えとみれば方形陣で、9列の隊列が主力軍、手前の3列が先鋒、横2列の右翼と左翼、最後尾にはしんがりの隊列がいる筈である。

先鋒は弩弓を持った軽装の歩兵、主力部隊は戦車と歩兵からなり、兵は鎧を纏い、刀や矛、戟などで武装していたそうだ。両翼のそれぞれ外側1列の兵は横を向いている、横からの敵の攻撃に備えているようだ。

ガイドさんが兵の顔かたちが全部違っていると言っていたのでよく見ると、青、壮、老、色々な年令の兵士がおり、面長や丸顔の兵士、大人しそうな顔、威厳に満ちた顔などさまざまである。また、髷や口髭など微妙に異なっていて、まるで写し取ったように細やかに表現されている。ガイドさんによれば一人ひとり違うのは、実際の兵士をモデルにしているからとのこと。
見渡したところ、3頭立ての戦車(木製のため朽ちて形はな)は2両くらいしか見当たらないが、ガイドさんによれば戦車部隊は2号坑に沢山いるそうだ。

右手に回り、兵馬俑を横から見る位置にくると、主力部隊の真ん中の5つの坑道は13~15列目くらいより後ろは潰れたままで兵馬俑が判然としないようだ。ざっと計算すれば、主体9列のうち真ん中5列が240体、他が480、両脇が140、先鋒は204体とすれば1000体ほどが展示されていることになるんだが????
言われている6000体と言うのは、縦230m、横62mある1号坑に配列されている兵馬俑の密度からして全部掘り出せば6000体になると言うことのようだ。

少し進んで壁のパネルを見ると色々な説明がしてある。坑道の深さは5mほどで、底は45cmくらいの厚さに土を打ち固めてその上にレンガを敷いていたとか、坑道の両方の壁に1.1~1.5m間隔に支柱が残っているが、この上に棚木を乗せていたとか説明がしてある。(この棚木の上に筵か何かを乗せ、その上に土を被せて兵馬俑坑を地下の世界にしていた)
また、兵馬俑は何百ものかけらを集めて修復したものだとの説明もある。
実際、作業をしている姿が見られ、また修復なった兵俑が200体ほど並べられていて、これまた見ものである。

さて、兵馬俑の作成作業工程は大きく分けると土の掘り出し、運搬、精製をする前工程、兵馬俑を塑像する主工程、乾燥の工程、窯で焼成する工程、さらに彩色の仕上げ工程に分けられると思うが、1号坑、2号坑と3号坑合わせて8000体と云われる兵馬俑は何人の人が何年掛けて作ったのだろう?
下手な考え事をしていると皆さんに遅れそうになったので、ホテルに帰って素人考えをしてみることにする。

(ホテルでの愚考)

一番肝心なのは兵馬俑の塑造であるが、頭、腕、胴体などを完全分業で作り、完成したパーツを接合する流れ作業工程にすれば効率がよいが、微妙なバランスの表現に欠ける。
ならば、5~10人のチームに分かれていたと考えるのはどうだろう、棟梁が威厳に満ちた将軍、百戦錬磨の指揮官や兵卒など表情豊かな顔を塑造し、その棟梁の統率の下に腕、胴体などがチームの中で分業で作られたとすればバランスのとれた兵馬俑が作れる筈である。
で、このようなチームが幾つあって、何年かけて全体で8000体とも云われる兵馬俑は作られたのだろうか?

始皇帝は即位して直ぐに陵墓の建設を始めたとされるが、具体的に始皇帝陵の建設構想が実行に移されたのは全国統一の後ではないだろうか、さらに50万人以上の囚人が動員され始皇帝陵建設が本格化するのはもう少し後の気がする。
で、陪葬品の1つである兵馬俑の塑造であるが、1チームで10日に1体、年間30~40体作るとすれば、100チームあれば、1年で3000体は作れるになる勘定になる。
塑造工程に1000人、そのたの工程に合わせて1000人、合計2000人が動員されたとすると3年間で兵馬俑は作られるという勘定になる。
ならば、始皇帝が死去した後、2世皇帝となった胡亥によって兵馬俑は作られた????

(兵馬俑博物館の売店で買った「夢幻の軍団」と云う兵馬俑の解説本を後で眺めていたら、秦代には作品に工匠の名前を付す制度があって兵馬俑にも棟梁の名前が刻されおり、87人が確認されているとあった。100チームあったと考えるのも、あながち全くの絵空事でもない気がする・・・・・・ )

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