昼食の後、ミケーネに向けて、ペロポネソス半島を横断する4時間ほどのバスの旅。
添乗員のお話が始まる、「トロイア戦争のギリシャ軍の総指揮官はミケーネの王アガメムノンでアトレウス家の嫡男でした。
トロイア戦争の発端は、ギリシャの絶世の美女と言われたヘレネがトロイの王子パリスに奪われたことに始まりますが、ヘレネはアガメムノンの弟メネラオスの妻でした。

ギリシャ軍、総勢10万がいざ出陣しようとすると風がぴたりと止み、船が出せません。アガメムノンは女神アルテミスの怒りにふれてしまったと思い、長女イフィゲニアを生贄としてアルテミスに捧げます。

彼の妻クリュタイムネストラは夫の非道な仕打ちを許すことが出来ず、復讐の時を待ちます。10年後、アガメムノンはトロイ戦争で勝利して、トロイの王女カッサンドラを伴い、ミケーネに凱旋帰国しました。
クリュタイムネストラは愛人となった従兄弟のアイギストスと謀り、夫が帰国したその日に風呂場で殺害してしまいます。愛娘の無念を晴らした訳ですが、悲劇はこの後も続きます。

アガメムノンの次女エレクトラは、父親が殺害されたことを知ると幼い弟のオレストスの身に危険が及ぶのを感じ、デルフィーに隠します。
オレストスが成長して、今度は姉弟が母親とその愛人を殺害してしまいます。エレクトラの悲劇として演劇でも有名です」
そういえば、アトレウスはペロプスの末裔であり悲劇を生む家系のようだ。

バスはアルゴスの平野を走る、ギリシャのおもな産業は農業と観光ですと添乗員が最初の日に説明していたが、ギリシャの地形は山がちなうえに土壌もやせ、オリーブやぶどうくらいしかとれないのではと思っていたが、アルゴスの平野は緑が濃く土壌は肥沃な感じで、穀類の生産も適しているようである。

アトレウスの宝庫

バスがミケーネに着いて、まず、道路脇にあるアトレウスの宝庫(陵墓)の観光。
40mほどの通路を入口に歩いていると、他の国のガイドか何かが、ヒステリックな大声を向けてきて、わが美人添乗員は当惑顔である。どうも自分達のグループが先に宝庫に入るのだと喚いているようだが、チケットの購入が遅れているらしい。優先権があるわけでもないのに変な人は何処にもいるもんだと思っていると、こちらのガイドさんがやって来て、ヒステリックおばさんを無視する。
アトレウスの宝庫は大型のトロス式墳墓で、紀元前1250年頃のものと言われ、中に入ると、円形の床面の直径は約15m、天井までの高さは14m弱、蜂の巣状に天井まで徐々に斜めになるように石材を積み上げたドームになっている。重力をうまく分散する構造になっていて、ヨーロッパの大聖堂でみるドームと原理的には同じものが2000年も前に造られていたとは驚きである。ただ、この宝庫は盗掘されていて、何も発見されなかったらしい。

ミケーネ遺跡

紀元前1600年から1100年頃にかけて繁栄したミケーネ文明最大の城塞宮殿跡である。ドイツの考古学者シュリーマンが1871年のトロイ遺跡に続いて1876年に発掘し、それまで神話の世界と考えられていたトロイ戦争が歴史であることを実証して世界を驚かせたところである。
なだらかな坂を上って行くと、20tはあろうかと思われる巨石を積み上げた門がある。

‘獅子の門’と言われ2頭のライオンが、3mあまりの門の上で向かい合っているレリーフである。ライオンの胴体から足にかけての滑らかなカーブと力強さの表現は当時の文明の高さを思わせる。この門を入ると、右側に直径30mあまりの円形墳墓Aがある、6つ竪穴墓があり、20体の遺体が発見され、そのうちのいくつかは黄金のマスクを着けていたそうだ。黄金のマスクのほかにもたくさんの装身具、刀や土器などが出土し、ホメロスに‘黄金に富めるミケーネ’と言わしめたものである。

シュリーマンは黄金のマスクをアガメムノンのマスクだと主張したが、アガメムノンは紀元前1200年頃の人で、300年ほど時代差があるらしい。
円形墳墓Aの後はフリータイムとなり、アクロポリスにのぼりメガロンと呼ばれる王の居室跡などを見る、全体的に崩壊が進んでいるので乏しい想像力では、アガメムノンが殺された当時を思い起こすのは難しい。

城塞跡の見物の前にミケーネ考古学博物館に入ったが、アガメムノンのマスクなど目ぼしいものはアテネにいっているので見るべきものに乏しい。

さて、ミケーネの観光を終えると、途中、コリントスの運河で写真休憩を挟み、一路アテネに向かう。
添乗員はアテネの渋滞を心配していたが、スムーズに市内に入る。夕食は中華料理である、ツアーの食事で日本食か中華が出るようになると旅もそろそろお仕舞いに近づく。
久しぶりのオリエンタルなので円卓の皿はきれいに空になる。