ウシュアイア観光

船舶博物館の奥が元監獄の獄舎に繋がっている。パンフレットによれば中央の集会所から5棟の獄舎が星型に伸びており、1階、2階合わせて380の部屋があった。

当初は木造であったが、1902年から18年かけて今の石造の獄舎が建設されたという。いずれにしても、1896年から半世紀に亘って凶悪犯や政治犯を震え上がらせた監獄であった。極寒の地だけに、網走番外地より数倍も過酷であったものと思われる。

現在、5棟の獄舎のうちの1棟が監獄博物館として展示されており、目の前には通路の両側に間口2m、奥行き2.5m、ほどの狭い監房がずらっと並んでいる。

ガイドさんの後についてぞろぞろ歩いていくと、ベッドにうずくまるように座ってじっと一点を見つめている囚人、また、学者であろうか、背筋を伸ばして静かに読書をしている囚人など、マネキンで当時を再現している監房がある。空の房もあるが、かえって不気味な感じがする。さらに進んで行くと、囚人たちが鉄道を建設したりしている様子を写真で展示した房もあり、樵列車といわれた列車の機関車の模型も展示されている。

囚人たち

カルロス・ガルデル

緑に塗られた奥の壁に人物が描かれた房がある。一見、何なのという感じだが、よく見ると、緑の顔に唇が赤く塗られて魅惑的である。えらいド派手な部屋やな、と思っていると、ガイドさんが、タンゴ歌手のカルロス・ガルデルの部屋ですと説明してくれた。なるほど横の壁には観光客用にカルロス・ガルデルの写真が貼ってある。

ガルデルの前にガルデルなく、ガルデルの後にガルデルなし、とまで言われたタンゴの神様である。音楽音痴の自分でも‘帰郷’や‘わが悲しみの夜’など耳にしたことがある。彼はパリやニューヨークなど演奏旅行で世界を駆け巡り、映画俳優としても人気を高めていたが、47才のときに飛行機事故で亡くなってしまった。

なんで、ガルデルがウスアイアの監獄と関係があるのと思っていたら、写真の横に説明がった。それによると、彼の出自はウルグアイなのかアルゼンチンなのかはっきり分からないらしい。被告としてガルデルの名前が裁判記録に残ってもいるらしいが、警察の犯罪記録からは消されていたと言う。どうも警察と繋がりがあり、犯罪組織とも関係があったらしい。

名前も幾つか持っていたようなので、彼がウスアイアの監獄にいたという直接の証拠はないらしいが、ウスアイアの監獄からブエノスアイレスに移送される途中、病気になった人に仲間が手紙を書いているが、そのなかにカルロス・ガルデルの名前もあったと言うことである。

カイエタノ・ゴディーノ

1912年、ブエノスアイレスを震撼させる連続殺人事件が発生した。1月には少年が死体で発見され、3月は少女がドレスに火をつけられ焼死、11月には少年が首にロープを巻かれて窒息死、12月には3才の男の子が誘拐され小屋で殺された。また、建物に火をつけることに異常に興味を持ったのか、ブエノスアイレスのあちこちの街角で放火した。

逮捕された16才の殺人鬼、ゴディーノが語ったところにとれば、幼児を殴り倒して溝に突き落とすなど虐待を始めたのは7才の頃からで、最初の殺人は9才の時であった。虐待、誘拐、殺人や殺人未遂など彼の毒牙にかかったのは10人にも及び、なかには17ヶ月の赤ん坊もいたそうだ。

チビで耳が大きかったので‘大耳のちび’と呼ばれていたが、監獄での生活には更正の態度がみられたらしい。

ある房では、若い女が表紙になっているカレンダーが壁に貼ってあり、よくみると顔の周りには囚人たちのサインがある。このうちの1人だろうか、‘彼女はノスタルジアーを思いおこさせた。皆の寄せ書きのサインは、ここでは何もすることがないことを証明している、1956年6月19日、6ヶ月の厳しい予防拘禁されたウアスアイアの刑務所にて’と書き記している。

ウスアイアの刑務所は1947年に閉鎖されているはずだが、カレンダーの日付をみると1956年になっている。最後の政治犯がウスアイアに1955年に移送されたらしいので、関連があるのかもしれない。

脱獄

監獄といえば脱獄がつきものであるが、このウスアイアの監獄でも多くの囚人が脱獄を試みたそうだ。しかし彼らはうまく隠れ場所を見つけられず、たいていは2日か3日たつと、少しの食べ物や上着を求めて刑務所に戻ったらしい。

そんな中で、シモン・ロドウィツキイーというロシア人は最も衝撃的な脱獄をくわだてたと言われている。彼は看守の服を盗んで23日間逃亡し、チリのプンタ・アレナスまであと僅か数キロまで行ったところで捕まったのだそうだ。

ブルース・チャトウインの‘パタゴニア’のなかに、このロドウィツキイーの脱獄の手口が詳しく語られていて面白い。