ホテルを8時に出発、ラムセス駅に向かう。
カイロも朝の通勤ラッシュは渋滞がひどいが余裕をもって駅に到着して、少し時間待ちとなる。時刻掲示板を見るとアラビア文字で発車時刻などが書いてある、アラビア数字があるのだから算用数字で書いたらようさそうに思うが、これがエジプトの文化なのだろうか。
ま、最初の日にバスの中でアラビア文字を勉強したのでなんとか9時発と読める。

列車は煤けた感じで、座席も1等車にしては少し年季が入り過ぎているが
順調に走って2時間半ほどでアレキサンドリアのマスル駅に着く。エジプト
の鉄道はアバウトで遅れることが多いので、今日のように順調なことは珍しいのだそうだ。

アレキサンドリアはBC330年代にマケドニア出身のアレキサンダー大王によって建設された町で、大王の死後プトレマイオス朝時代には首都がここにおかれて地中海世界の中心として栄え、プトレマイオス12世の娘がクレオパトラである。

カタコンベ

カタコンベは2世紀頃に造られたローマ人の墓地で、もともとは貴族階級の墓地であったが、その後3世紀には一般の共同墓地となったようだ。
井戸のような入口から螺旋状になっている階段を降りると円形のホールがあり、そこから墓所に行く通路がのびている。

さらに降りたところに主墓所があり、入口の上には、帯状に並んだヘビの下にお馴染みの太陽円盤が刻まれたレリーフがあり、入口の左右には上下エジプトの冠を載せた2匹へびが描かれているが、サッカラやルクソールで見るコブラではなくグレコ・ローマン風にアレンジされたものだ。

共同墓地と言われるのは横穴がたくさん掘ってあり、その穴にミイラを埋葬していたとのこと。また、このカタコンベはローマを逃れたキリスト教徒が隠れ礼拝をおこなっていたことでも知られている。

ポンペイの柱

小高い丘の上に柱が1本とスフインクス像があるだけの、現在は何にもない遺跡だが、プトレマイオス朝時代にはセラピス神殿が建てられていて、神殿に付属する図書館の柱が400本あったとのこと。4世紀末にキリスト教徒が異教の神殿と付属図書館を打ちこわし、現在この柱が1本残っているのだそうだ。

グレコ・ローマン博物館

地中海沿岸らしく、メインディッシュが焼き魚の昼食を終えて午後はグレコ・ローマン博物館の見学となる。
この博物館は1892年に創設され、プトレマイオス朝の紀元前3世紀から紀元後7世紀にいたるグレコ・ローマン時代、ビザンツ時代の7万点あまりの遺物を所蔵している。エジプトで写真撮影が許される数少ないところだ。

展示室は27室あり、中庭を取り囲むように配置されている。
6号室にはアピス神を表す玄武岩の牡牛像、アレキサンダー大王の胸像など、12号室にはローマ皇帝オレリウスの軍服姿の立像や、高さ30センチほどのクレオパトラのマスク像がある、絶世の美女であったのかどうかはこの像では判断が出来ないが、頭脳明晰、気力に優れたギリシャ女性だったらしい。

ガイドさんによれば、もっと大きいクレオパトラ像が発見されているが、一般に公開されるのはまだ先のことらしい。続いて小さ目のヴィーナス像(頭部が欠けている)、踊り子を見つめる男の群などが描いているモザイク、石棺、ヘラクレスの立像などを見て回る。

で、博物館の見学が終わるとアレキサンドリア観光も終わりになる。ツアーは点と点を結ぶ観光となるのでカタコンベ、ポンペイの柱、グレコ・ローマン博物館を見るだけではエジプト第2の都市、アレキサンドリアがどっちに向いているのかも分からない。ツアー観光は効率はよいが消化不良も残る。

さて、帰りの列車の中、やっと添乗員が許可を出してくれて離団書を提出する。
ガイドさんはタクシーの運転手に渡しなさいと言って、第1ターミナル、第1出発ゲートとアラビア語で行き先を書いたメモを渡してくれる。なんとか粘り勝ちの感じだが、添乗員の心配事が一つ増えたことは間違いない。