ホテルで食事の後、エスファハンのオプショナル観光として、ライトアップされたイマーム広場、ズールハネという棍棒を持って舞う踊りやエスファハンの夜景を見たが、5000円の料金にしては、拍子抜けの感じであった。皆さんの評判もかんばしくないようだ。

エスファハンの観光は今日と明日の2日間で、日程表が送られてきた時驚いたが、明日のエスファハン出発は22時となっている。たっぷり観光時間を取ったのか、飛行機が取れなかったよく分からない。
今日の予定はイマーム広場以外のエスファハン市内観光である。

今日のガイドさんの話はサファヴィー朝の始まりから、
サファヴィー教という一つ団体が政治力をつけ、エスマイールがアゼルバイジャンのタブリーズを攻め落とし都にしたのが16世紀の初頭で、サファヴィー朝はここから始まっているとのこと。その後、都はガズヴィンに移ったりしたが、アッパーズ1世がエスファハンに都を造営した。当時、16世紀末、北方ではロシアが強力になってくる、西にはオスマントルコ、南にはヨーロッパが入ってきていたので、アッパーズ1世はイランの真ん中のエスファファンに都を定めたと言われている。
(サファヴィー朝についてもう少し詳しい話は → Safaviyan)

アッパーズ1世はイランでは人気のある王様で、ペルシャ湾にバンダル・アッパーズという港町があるが、アッパーズ1世がイギリスと組んで、それまで住んでいたポルトガル人を追い出したことに因んで、バンダルギャンブルと言われていた町をバンダル・アッパーズ(アッパーズの港)と言うようになったとガイドさん。

ついでに、ガイドさんの話をもう1つ、エスファハンはヨーロッパ人がイスファハンと発音したので、現在ではイランの中でも混同されているが、ペルシャ語からすればエスファハンが正しいのだそうだ。(もともとはアスパハンだがアラブにはPがないのでFになり、エスファハンとなるようだ)

シェイキング・メナーレ

さて、今日の最初の観光はシェイキング・メナーレ、揺れるメナーレを持つ聖アブドッラーの廟である。サファヴィー朝時代に建てられたもので、ドームを入るとアブドッラーの棺が置かれて、その周囲にもたくさん墓がある。イランでは聖人のまわりに墓を作るのが好まれたようだが、裕福な人々の話である。

ガイドさんによると、15年前頃までは一般の人もメナーレに上ることが出来、片方のメナーレを揺するともう一方のメナーレが揺れるのを体験できたが、今は係の人がメナーレに入り、揺するようになったとのこと。

メナーレが揺れるまで少し時間があり、詰め合って、ベンチに座れるスペースを作ってくれた学生達と少し話しをする。イランの人たちは人なつっこくて日本人には特に好意を持っているようだ、高校生かと思ったら大学で建築をやっているそうで、夏休みの最後をエスファハンの観光旅行で楽しんでいると言う。ナショナル製のビデオカメラを持っているので裕福な出のようだ、キャノンのデジカメを見せると日本製は品質がよいのでイランでも評判がよいと言う。メールやインターネットの話などカタコト英語でしばらく楽しみ、イランの印象はどうかと聞かれ、イラン人はフレンドリーで明るいし、女性に美人が多いと答えてやると、仲間の女の子は嬉しそうだった。

10時になり、係員が右のメナーレに入り揺すると、左のメナーレにぶら下げられている鈴らしきものが揺れ始めて左のメナーレが揺れているのが分かる。建物全体も少し揺れるようだ。

シェイキング・メナーレの観光を終え、近くの小高い丘の上にある廃墟が見える道路脇で写真タイム、名前はなくエスファハン神殿と言えば分かるそうだ。ササン朝時代のゾロアスター教寺院の廃墟で、丘の上にあるのでエスファハンに出入りする時、目印になると言う。