干しダラのオムレツの昼食の後、2時過ぎにコインブラを出発してポルトに向かう。ポルトまでは2時間ほどのドライブだが、途中、1時間くらい走って、アヴェイロという町に立ち寄り、ポルトのホテルに着くのは5時半くらいになる予定。

アズレージョ

添乗員によると、アズレージョと言う焼きものはポルトガルではよく目にするタイルだそうだ。

石や木で出来ている建物は古くなると人の手垢で汚くなったりするが、タイルだと濡れた布で拭けば綺麗になるのでいつまでも美しく保てるメリットがあり、教会、民家、どの町どの村でも必ず目につくのが、それを飾る美しいタイル、アズレージョだという。ポルトガルの旅はアズレージョの旅だとも言われるそうだ。

アズレージョの歴史はアラブに始まり、ポルトガルにはスペインを経由して入ってきたが、ポルトガル人がアズレージョの魅力に触発されたのは大航海時代の幕開けとなったセウタ攻略直後の1415年頃だと言う。

アラブの職人とアンダルシアから運ばれたタイルによる見事なアラベスク模様はシントラの王宮で見ることが出来き、ポルトガルで1番古いアズレージョなんだそうだ。

アズレージョという言葉はアラビア語のアズローチャ(磨き上げられた小石)という意味でモザイクに使われる小石に由来すると言われ、また青を意味するアズールにも通じらしい。

アズレージョがポルトガル人の手で作られるようになったのは16世紀の終わり頃になってからで、建物の外装や庭園などに一般に使われていたが、18世紀の後半、アントニオ・オリベーラという人がドイツ陶芸を取り入れてアズレージョを職人の世界からアートの世界に広げていったそうだ。

こうして、ポルトガルでは商店の看板替わりの壁の素朴なものから芸術性豊かなタイルまで多種多様なアズレージョを楽しむことが出来るようになったらしい。

アヴェイロ観光

アヴェイロの観光は鉄道のアヴェイロ駅から、駅の乗降客よりバスでアヴェイロ駅を見に来る観光客の方が多いと言われるそうだが、見どころは駅舎の周囲を埋め尽くしたアズレージョである。

描かれているのはアヴェイロ近郊のブサコの王宮、フェイラのサンタ・マリア城、運河沿いの家並みなどの風景や海藻取りや漁民の出漁風景、葡萄の収穫など庶民の生活の様子などで、こじんまりとした白い3階建の駅舎そのものが一つの作品のように感じられる。

中央運河

アヴェイロ駅の見物を終え、バスは町の中心の中央運河に向かう。
さて、アヴェイロ、地理的にはコインブラの北西約60km、コスタ・デ・プラッタ(銀の海岸)のほぼ北端に位置し、リア(潟)が河口から内陸に大きく食い込み、町の中央を運河が横切る色彩豊かな水の都である。

添乗員によれば、アヴェイロはローマ時代から豊かな漁業と牧畜の町であったが、1575年の大暴風雨で水路が塞がれ、町はさびれてしまったそうだ。

町を寒村の貶めた暴風雨だが、1808年に町を襲った大暴風雨は塞っていた水路を開ける皮肉な結果をもたらし、町は再び活気を取り戻したのだそうだ。

中央運河沿いの町の中心、レプブリカ広場の近くでフリータイムになる。ポルトに向けて4時20分前にアヴェイロを出発する。

ポルトについてのミニ知識

ポルトはリスボンに次ぐポルトガル第2の都市で人口約26万人、この国の商工業の中心で、スペインを源流とするドウロ川が大西洋に注ぐ河口の近くの丘に広がる坂の町である。

ローマ時代にはカレと呼ばれ、「カレの港」を意味する「ポルトゥ・カレ」がポルトガルの国名のもととなっている。イベリア半島のレコンキスタは北部から始まり、フランス、ブルゴーニュの貴族アンリは戦いに勝利した報酬としてカスティーリア王の娘テレサを娶るが、王妃によってアンリはポルトゥ・カレ伯爵となることが出来たという。アンリの子がアフォンソ・エンリケスでポルトやコインブラを足場にレコンキスタを進め、カスティーリアから独立、初代のポガル国王アフォンソ1世となる。

ポルトっ子はトリペイロ(モツを食べる人)とも呼ばれているが、リスボンがスペイン軍に包囲された時、援軍に食料を供給したり、北アフリカのセウタ攻略に向かう兵士のために肉をすべて供出し、自分達は残った臓物を食べたと言われ、それが今ではポルトの名物料理となっている、牛の臓物と豆を白ワインで煮込んだモツ煮「トリッパ・ア・モーダ」なんだそうだ。

ポルトの宿は町の中心、歩行者天国に面している。観光客を乗せたバスをみるとごった返している歩行者が道を空けてくれるが、ホテルから駐車場に移動するバスの運転手が心配だ。