8時半にホテルを出発、ポルトガルの観光が始まる。
リスボンのガイドさんは日本人の中年女性で、ポルトガル人のアシシタントがついている。

先ずは観光スケジュールの説明があり、外観のみの下車観光となっている教会なども特別の行事がない時は中に入ることが出来るので、タイミングを計りながら案内してくれるそうで楽しみだ。

バスが走り始めてしばらくすると、右手に茶色の大きな建物が見えてくる。ガイドさんによれば、19世紀に造られたリスボンでは1箇所だけの闘牛場で、老朽化していたので7年掛けて修復、地下にパーキング、映画館、ショッピンセンターなども出来て昨年から再開しているそうだ。

闘牛のシーズンはもう終わっていて、来年のイースターまで冬は休み、その間はコンサートやサーカス、ショウなどに使用されるとのこと。ポルトガルの闘牛はスペインなどと違って、観客の前で牛を殺すことはしないと聞いたことがあるが、ポルトガル人の国民性なのだろうか。

ピンクのスペイン大使館、18世紀の水道橋や森林公園などを車窓に見ながらバスはベレン地区へと進んで行く。ベレン地区はリスボン市の1番西でテージョ川沿いにある。リスボンと言えば港町のイメージがあるがリスボン市内から見えるのは川であって海は見えない。ベレン地区のあたりの川幅が1番狭くて2300m、リスボンの中心地ではその2倍もありヨーロッパで1番広い川幅なんだそうだ。

ガイドさんの次の話はポルトガル人の暮らしぶりについて、ポルトガル人は車好きで、他のヨーロッパ国と同じようにガソリンは高くリッター当たり日本円で200円もしているが、二人に一台の保有割合になっているそうだ。運転マナーはヨーロッパでも良くないほうで事故率が高いらしい。ただ、信号のない横断歩道などでは歩行者優先で車の方が必ず停まってくれるそうだ。

ポルトガル人の給料は11万円ほどだが、ポルトガル人は学校を出る前から住む家のことを考えていて、小さい家でも早めに買い、何年か経つと大きい家に買い換えていくのだそうだ。ポルトガルでは住宅価格は下落しないらしい。

そして、セカンドハウスを海辺に持つようになり、週末などは海辺でゆっくり過ごすという。なんとも羨ましい暮らしぶりだが、一人当たりGDPで比較するとポルトガルは日本の半分以下の筈なんだが、どうなんだろう。

ベレンの塔

30分ほどでベレン地区に着き、先ずはベレンの塔の観光から、ベレンの塔は1515年から21年かけて造られた船の出入りを監視する塔であったが、時は大航海時代、王が遠くアジアに向かう船出を見送り、また帰還した船乗りを迎えるところでもあった。

塔は当初は川の中の島にあったが、1755年のリスボン大地震で川の流れが変わり、川岸に接岸するような現在の姿になったらしい。テージョ川に突き出ている2階のテラス下の窓には大砲が構え、1階は潮の満ち引きを利用した水牢であった、19世紀まで使われていたという。

ベレンの塔はその調和のとれた美しい姿と外壁に施されたマヌエル様式の彫刻から世界遺産にも登録され、テージョ川に浮かぶ蝶とかドレスの裾を広げた貴婦人などと称されているらしいが、ドレスの裾を広げた貴婦人と言われても美術音痴にはもう一つピンとこない。

発見のモニュメント

発見のモニュメントはベレンの塔から5~6分の距離。

世界地図

発見のモニュメントの手前の広場に世界地図が描かれていて、大航海時代にポルトガル人が何年にどの辺りに到達したかが分かるようになっている。

ガイドさんによればアフリカのギニア、アンゴラ、モザンビークなどはみなポルトガルの植民地であった。アジアへの航路を開くきっかけを作ったのはバルトロメウ・ディアスで、1488年、ディアスはアフリカの南端に到達したが暴風に遭って引き返している。彼自身はこのアフリカの南端を嵐の岬と言ったが、当時の王ジョアン2世はここまで来たので東回りでインドに行けると確信して喜望峰と名付けたのだそうだ。

バスコダ・ガマは1498年、東回りでインドのカリカットに到達した。この時はわずかな量の香辛料しか手に入らなかったが、持ち帰った香辛料は何十倍もの高値で捌けた。これがポルトガルが香料貿易を独占、計り知れない富をポルトガルにもたらす端緒になった。

日本史ではポルトガル人が最初の日本に着いたのは鉄砲伝来の1543年とされているが1541年に豊後に数名のポルトガル人が着いていたらしい。

発見のモニュメント

エンリケ王子(1394~1460)の500回忌にあたる1960年に王子やその他航海士の偉業を称えて造られたもので、高さ52m、帆船をモチーフにしている。

エンリケ王子はエンリケ航海王子と呼ばれ、大航海時代の初期に西アフリカで活躍、航海術、造船の研究をしてポルトガルの大航海時代基盤を作った人だが、ジョアン1世の3男なので国王にはなっていないという。

モニュメントには30人ほどの航海士など大航海時代に活躍した人達が並んでいる。左側には航海士や当時の王、宣教師などが並び、右側には画家や詩人、エンリケ王子の母親など。エンリケ王子だけは左右どちらからも見られるようになっている。

で、左側の群像を見る。1番前、帽子を被り手に船を持ってエンリケ王子が立っている。王子が手にしている模型は3本マストのカラベラ船で、エンリケ王子が発明したといわれている。アフリカを南下した当時に活躍した小型船で逆風でも前進出来るバジリ航法をとったそうだ。

2番目、跪いているのがアフォンソ5世、その後にバスコダ・ガマがいて、続いて1500年にブラジルに行ったカブラル、さらにその後ろで手にワッカの様なものを持っているのがマゼランだそうだ。

マゼランの世界一周は宿敵スペインに名を成さしめることになったが、彼はもともとポルトガルの北のカブローザ地方の出身のポルトガル人である。彼はポルトガル王に西回り航路を最初に提案したのだが拒否されてスペイン王に話を持っていったという。マゼランの世界一周と言われるが、彼自身はフィリッピンで殺され、帰ってきたのはスペイン人のエルカーノのという人だったそうだ。500回忌ということでマゼランもこの群像に加えられたのだろうか。

後から2番目、跪いて手を合わせているのがフランシスコ・ザビエルである。彼はジョアン3世(1502~1557年)の援助でアジアの布教に出かけたという。

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