ホテル出発が10時なので、皆さん朝食の後、それぞれ海辺を散策して潮の香りを満喫されたようだ。

「今日の予定は世界遺産に指定されているアルコバサのサンタ・マリア修道院を1時間ほど見学、そのあと1時間走ってオビドス、オビドスは可愛い町なので昼食のあと、1時間半ほど自由散策の時間をとります。3時過ぎにオビドスを発って、リスボン到着は5時から5時半頃になるかと思います」と添乗員の説明を聞いている間に20分ほどでアルコバサに着く。

アルコバサのサンタ・マリア修道院

アルコバサはアルコ川とバサ川の合流点にあるのでアルコバサと呼ばれているのだそうで分かり易い。

ナザレからアルコバサのあたりは野菜や果物の産地である。気候が温暖なこともあるがこの地に長く君臨したキリスト教シトー派修道会によるところが大きいという。

1139年、オウリッケの戦いでイスラム軍に大勝、自らをポルトガル王と宣言したアフォンソ・エンリケスは教会・修道院の建設を決意したが、それは新しい王国での彼の権威を結集すること、イスラム教徒から奪った領土の支配をより安定させるための戦略でもあったという。

修道院はフランスのシトー派のクレヴォー修道院を手本にしたと言われているが、王がブルゴーニュ出身の貴族の息子であったことによるようだ。

聖ヴェネディクトの戒律を厳密に守るシトー派は清貧、質素を旨とし自給自足、農耕の技に優れていたと言われ、シトー会をこの地に招聘したのはイスラムとの戦いで荒廃していた国土の復興のためにはもってこいであったと思われる。

ゴシック様式の教会の主な部分は13世紀前半には完成したが、その後も増改築が続けられ、バロックで装飾されている現在の正面部分は18世紀になって付け加えられたものだそうだ。

教会の中に入ると、奥行き106mの身廊は高さ20m、幅が23mと狭いこともあって、ゴシックの‘あくまで高く’の柱の列に圧迫される思いである。シシトー会の静謐の精神に沿っているため壁や天井などに装飾がなく簡素なので、返って厳粛な気持ちにさせられる。

ヘデロとイネス

アプスの前には右にヘデロ王、左にイネス妃の精緻な彫刻の施された石棺が安置されている。添乗員のバスのなかでの話によると、ヘデロとイネスには次のような悲恋の恋い物語が伝えられているとのこと。

アフォソ4世の皇太子ペドロ(1320~1367)は政略結婚のためカスティーリア王国からコンスタンサを妃に迎えた。その時、妃の女官として付いて来たのがイネスで、ペドロは一目でイネスの美しさに魅入られ恋のとりこになってしまう。コンスタンサは政略上の大事な妃なので、王はペドロとイネスを引き離してしまうが、二人はこっそりと密会を続けていた。

コンスタンサ妃は3人の子供をもうけるが、結婚5年後に亡くなり、ペドロとイネスはやっと晴れて幸せになれると思っていたが、カスティーリアが怖い王の重臣達はイネスを謀殺してしまう。
やがて父王が亡くなり、王となったペドロはイネス殺害の首謀者達を拷問にかけ処刑した。

ここまではよくある話しであるが、ペドロの怨念はさらにイネスが妃であったことを周知させるため、遺骨を集め、繊細な彫刻をほどこした石棺をつくり亡がらを納め、さらに王妃の衣装を着せて戴冠式を行い、重臣達には亡がらの前に跪かせ、その手に接吻させたと言う。(いくらなんでも、集めた骨に衣装を着せた戴冠式とか亡がらへ接吻させるなどは、後世の人が面白おかしく作ったストーリーのような気がするがどうなんだろう)

ガイドさんによれば、ペドロの石棺は6頭のライオンに支えられ、側面の彫刻は聖バーソロミューの生涯を描いているそうだ。
左手に移って、イネスの石棺を支えているのはイネスの殺害した重臣の不気味な面体で、側面の彫刻にはキリストの生涯が描かれているとのこと。

2つの石棺は最後の審判を受けるためにペドロとイネスが起き上がった時、向かい合えるように配置されていると言う。

王達の広間

身廊の入口の近くの脇から王達の広間という部屋に入る。

この部屋は18世紀に付け加えられたもので、部屋の中ぐらいの高さの壁に安置されている粘土細工像は初代のアフォンソ1世からジョーゼ1世までの歴代の王達なのだそうだ。

もう1つ、この部屋の壁にはアズレージョが飾られていて、そこには修道士達が修道院を建設する様子やシトー派の修道士が寄贈された土地を開墾し農地にするため測量している様子などが描かれている。アフォンソ・エンリケス王が農耕技術にすぐれたシトー会を招いたいきさつを物語っていて興味深い。