ホテルに戻って暫し休憩。

12時過ぎに出発。しばらく走って結婚式場併設の食堂で昼食、丁度結婚式を挙げる2人と親族が集まり写真を撮っているところである。われらの仲間もカメラを向けたり、中に入って一緒に写真に収まったりしている。地元の人たちは人懐っこいのか、外国人が珍しいのか歓迎されているようである。

食堂を出発して15~16分走ったころ、ガイドの携帯に電話が入った。先ほどの食堂からで、バッグの忘れ物があると言う知らせである。でしゃばりで皆さんからちょっと疎ましがられていたバァーさんが‘私です’と手をあげた。何でも財布やパスポートが入っているらしくて、食堂の人が連絡してくれていなければ、後で大騒ぎになっていた筈である。スリランカの人の親切さに感謝、感謝。

そんなこんなで予定より40分ほど遅れ、16時40分にゴールの要塞の前に到着する。戦争記念碑の後ろには左手にメインゲート、右手を見ると塁壁の上に時計塔が見える。

(ゴールに最初に砦を築いたのはポルトガルであった。ヴァスコダ・ガマがインドのカリカットに上陸したのが1498年、イスラム勢力などを排除して香辛料貿易を独占しようとしていた。ゴールにやって来たのは16世紀初め、コーティ王国の内紛につけ込んだりして次第に支配を確立して行き、中央高地のキャンディ王国を除き植民地とした。ゴール要塞は最初はやしの木や泥を固めたものであったが、次第に見張り塔や塁壁を造ったりして要塞を増強した。

遅れてアジアにやって来たオランダはインドネシアを拠点にオランダ東インド会社を設立、ポルトガルの植民地を奪取して香辛料貿易を独占していった。17世紀の中ごろにはキャンディ王国と組んでポルトガルをセイロンから駆逐した。ゴールの旧市街地を囲む塁壁や3つの稜堡(Bastion)、兵器庫、砲塔、教会など現在残っている要塞はほぼオランダが築いたものである。

イギリスは海上帝国として支配圏を広げていたが、オランダ本国がフランス革命の余波で混乱したりしたのに乗じて海外のオランダの植民地を攻撃、18世紀末にはセイロンも陥落させた。)

オランダ東インド会社のエムブレム

さて、メインゲートから少し進み、黄色い建物に沿った道で車を降りる。少し歩いて建物の真ん中辺りに来ると門がある、オールドゲートである。ゲートの上にはVOCのマークを両脇のライオンが支え、天辺にはニワトリがいるオランダ東インド会社の紋章である。東インド会社は貿易と侵略の両方を担う会社であった。

反対側にはイギリス東インド会社のエムブレムがあるとのこと。なお、この、黄色い大きな建物は植民地時代には倉庫であったが現在は海事博物館となっているそうだ。

ゴール地方裁判所

元に戻って突き当りの小さな建物は地方検事局、右手が地方裁判所である。裁判所前広場には枝を張った大きな木があり、木陰を提供してくれそうだ。奥には如何にも年代を経た感じの屋根瓦の家が何軒か並んでいる。裁判関係のオフイスが入っているのだろうか。

旧市街の街並み

裁判所前広場を右手奥に進むと旧市街に入る。
ゴールの旧市街はヨーロッパ人によって造られたアジアの要塞都市のなかでヨーロッパの建築様式とアジアの伝統がうまく融合した最も良い例だと言うことで世界遺産に登録されたのだそうだ。

小さな通路を挟んで両側にコロニアルな建物が並んでおりアンティークの土産物屋やコーヒー店などがあるようだ。少し進むとHistorical Mansion Museumの看板が見える。邸宅と云うにはちょっと大げさな感じだが、そうだったのかも知れない。アンティークの皿とか装飾品など展示されているらしいがわれらは中に入る時間がない。