チェコについてのおさらい

プラハに首都をおくチェコはボヘミヤとモラヴィア地方からなっており、ボヘミヤの起源は紀元前に遡りケルト人のボイイ族のラテン名ボイオヘムームに由来するらしい。

5~6世紀の民族大移動の時期にボヘミヤ・モラヴィアの地に定住したスラブ人がチェコ人の先祖と言われている。
モラヴィア王国の後を受けて、9世紀にプシェミスル家がハラッチャニの丘にプラハ城を創設してから町の発展が始まり、10世紀の初めにはヴァーツラフ1世がボヘミヤ王国を築くにいたる。
繁栄を続けていたボヘミヤ王国もオタカル2世がハプスブルグに敗れプシェミスル家は断絶、この機に乗じてルクセンブルグ家のヨハンがボヘミヤ王となる。後を継いだ息子のカレル1世は1355年、神聖ローマ帝国の皇帝(カール4世)になり、プラハは帝国の首都になる。

この時期には手狭になった市街の南に新市街が形成され、プラハ大学の創設、カレル橋が架けられるなど大いに発展し、現在のプラハの基盤が形作られた。15世紀のフス戦争、続く30年戦争などにより、チェコの王位はハンガリーや最終的にはハプスブルグ家に移り、第1次世界大戦まで400年に亘りハプスブルグ家の支配が続くことになる。

さて、プラハ城の観光、ガイドが待ち合わせ場所を間違えて小一時間遅れたスタートとなる。
プラハ城には3つの中庭があり、正門を入った処が第1の中庭、正面に第2の中庭に通じるマーチャシュ門、右側の宮殿が大統領府。チェコの国旗が翻っており大統領が国内にいることを示しているとガイドの説明がある。
第2の中庭から第3の中庭へ出ると、中庭が狭いこともあり突然大聖堂が覆いかぶさってくる感じで圧倒される。

聖ヴィート大聖堂

ゴッシック様式の大聖堂で、2つの尖塔の高さは82メートルあり、中ほどはさらに高い97メートルの鐘楼が建っている。
もともとあった石造りの円形教会堂が11世紀の初めにロマネスク様式教会堂に改装され、1344年にプラハが大司教管区に格上げされたのを機会にカレル1世の命によりゴシック様式の大聖堂への改築が着工されたが、資金不足やフス戦争などにより何度も中断し、600年かって20世紀に現在の姿になったもの。

この西のファサード入口から中に入る、身廊の奥行は124m、天井の高さが33m。見上げると身廊と側廊を分ける2列の列柱から柱がいくつも分岐し、さらに枝分かれして天井に広がっていて美しい、天まで届くことを願ったゴシック様式の網目状ヴォールトという建築手法で建築されているとのこと。

入口付近には大きなステンド・グラス窓が並んでいる。
チェコのアール・ヌーボ様式のステンド・グラスで、3番目がムシャの絵。バラの絵などカメラのシャッターを押していると、係りの人が撮影禁止のジェスチャー。ステンド・グラスは空気の汚れなどに影響されないので撮影はご自由にと何処かで説明されたことがあるが、処によっていろいろのようだ。

奥に進み王家の霊廟、主祭壇、カレル橋から投げ捨てられて殉教した聖ヤン・ネポムツキーの墓などを見て回る。反対側の側廊に聖ヴァーツラフの礼拝堂があり金とガーネットで作られた壁に囲まれた豪華な部屋を小さな窓から順番に覘く。
王冠のレプリカなど置いてあり、本物はさらに奥の部屋に保管されていて滅多に公開されないそうだ。礼拝堂の横から地下に降りてカレル4世の棺などを安置している納骨所をみる。