火薬塔

カレル橋をらぶらぶらした後、旧市街広場からツェルトナー通りを火薬塔に向う。ガイドブックをみて百塔の街だけあって物騒な名前の塔まであるなと思った塔だが、17世紀に大砲の倉庫として使われていたので火薬塔と呼ばれるようになったらしい、塔は年月を経て黒くなっているが壁全体に装飾が施されているようだ。なんとなくカレル橋の塔と似ている感じがする。

ナ・プシーコピェ通り

火薬塔を右に折れるとナ・プシーコピェ通り、旧市街を囲んでいた市壁を撤去して濠を埋めて造った並木道で、ヴァーツラフ広場につながっている。
通りには銀行、ブティック、貴金属店、レストラン、ホテルなどが軒を連ねるプラハのメインストリートだ。ツェルトナー通り、ナ・プシーコピェ通りのボヘミヤングラスの店に立ち寄って箱型のグラスをさがすが、どうもボヘミヤングラスで箱型のものはないようだ。
仕方なく小さな花瓶を土産にする。

ヴァーツラフ広場

ナ・プシーコピェ通りを下っているとヴァーツラフ広場の北の角につきあたる。
ヴァーツラフ広場は幅が60m、長さが700mもある大きな広場で両側はショッピング街となっていてプラハのシャンゼリゼと言われる。ムーステク駅で地下鉄に乗り、次の駅で降りるとヴァーツラフ広場の南端で国立博物館が建っている。その前には聖ヴァーツラフの馬上像。

春江一也の「プラハの春」は現役外交官の小説ということで出版当時評判を呼んだが、現場で体験した外交官の小説だけあってドプチェク第一書記の党内での権力闘争、人間の顔をした社会主義を目指した民主化運動、これに危機感を募らせるブレジネフ、ウルブリフトなどの恫喝、必死に抵抗するドプチェク、ソ連軍戦車のプラハへの侵攻などプラハの春と挫折が臨場感溢れる筆致で描かれていて興奮したことなど思い出す。聖ヴァーツラフ像の前にはソ連軍の侵攻に抗議して焼身自殺したヤン・パラフのレリーフがある。

その後、1989年の12月、学生のデモへの弾圧を契機に激しい抗議のデモ、ストライキが続き、ついにハヴェルをプラハ城へという民衆の圧倒的支持を得てハヴェルが大統領に就任し、ビロード革命が成功する。ハヴェルが声明を発表したのもこの広場のビルのバルコニーからだった。
ツアー最後の夕食はビアハウス ウフレク。プラハで一番古いビアハウスで日本人ツアーの定番となっている処、自家製の黒ビールが美味しい。
食後、バスの車窓から眺めたライトアップされたプラハ城は昼間の顔と違って幻想的な感じである。

8日間の旅はあっと言う間に終わる。中欧は8月の末にはもう秋の気配が始まると言われるので、10月の旅はどうしても日照時間に制限されるが、消化不良だったプラハの美術館以外は、まず満足のいく旅であった。
今年のヨーロッパの旅はこの旅行で打ち止め、来年4月を待つことにする。