パレルモ~アグリジェント

11時半過ぎにパレルモを出発、アグリジェントに向かう。アグリジェントまでは約130km、シチリア西部を北から南に縦断する格好である。

しばらくすると、バスははるか遠くまで見渡せる高原を走る、この辺は小麦などの穀類の生産には適さないのか牧草地帯のようだ。高い山は見当たらないが小川には水流があるので農業に適さないということではないようだ。

パレルモ~アグリジェント間にはコルレオーネやシネマパラダイス撮影の舞台となったパラッツオ・アドリアーノ村がある筈だが、ちょっとルートが違うらしい。

アグリジェントの歴史

半分うとうとしながら、‘シチリアの考古学’でアグリジェントの歴史の予習をちょっとだけ、アグリジェントはローマ時代のアグリゲントゥムからきているそうで、ギリシャ時代にはアクラガスと呼ばれたそうだ。

70kmほど東にロードス島やクレタ島の殖民都市ゲラがあり、その住民とまた新たにロードスなどから送られてきた人々によってBC580年頃にアグリジェントは建設されたという。有能な僭主(ポリスの民主制や貴族の寡頭政治に対して、武力を背景に軍に擁立されて成り上がった独裁者を僭主と言う。

日本の下克上や戦国時代を思えばよさそうだ)が相次いで現れ、領土を拡大し経済も豊かにして行き、BC480年には僭主テロンがシラクーサのゲロンと共にヒメラの戦いでカルタゴを破り、莫大な戦利品を手にした。

栄華を誇ったアグリジェントの市民について、同時代のアグリジェントの偉大な哲学者で科学者でもあったエンペラドクレは‘彼らはまるで永久に生きるかのように豪華な家や神殿を建設し、明日死ぬかのように贅沢な食事をしている’と皮肉っていたそうだ。当時のアグリジェントの人口は20万とも30万とも言われている。

その後のアグリジェントは苛酷な運命を迎えることになり、BC408年にはカルタゴ軍に包囲され破壊される。BC340年頃に再建されシラクーサに対抗していたが、ポエニ戦争が勃発、町はローマによって破壊、略奪され、ローマの穀物倉庫にされてしまう。

バスがアグリジェントに近づく頃には雨雲がたれこめ、クスクスのスープ(期待していたが塩っ辛くて口をつけただけ)の昼食が終わる頃には土砂降りになってきた。実は出発が近づいて天気予報を調べたら、シチリアの南部は毎日雨マークが並んでいたので、ツアーデスクに確認したらこの時期は季節の変わり目なので雨がよく降るんですと言われ、慌ててレインコートを買い足している。

アグリジェント観光

神殿の谷

バスが神殿の谷に近づくと小高い岩山の上に神殿が見えてくる。神殿の谷と呼ばれているが谷間に神殿があるのではなく、古代のアグリジェントは13kmの城壁に囲まれ、かって、アクロポリスだった丘の上の旧市街から見ると南の低い斜面に神殿が並んでいるので神殿の谷と名付けられたらしい。

神殿の谷の裏手というか、東の端でガイドさんと落ち合って神殿の谷の見学が始まる。自動改札口を通る頃には、ラッキーと言うか雨は傘が要らないほど小降りになっている。

ヘラ神殿

樹齢1000年というオリーブの巨木を横に見ながら階段を上って行くと、神殿は北側の柱が13本ほぼ完全な姿を保ち、他は途中でちょん切れたりしていていかにも神殿の遺跡と言った感じである。カルタゴに焼かれ地震で崩壊していたがローマ時代に元の石材を使って積み直して修復したものだと言う。

ガイドさんによると、この神殿はBC450年頃に建てられたドリス式の神殿でゼウスの正妻のヘラに捧げられたものだそうだ。幅が20m、長さは40mあり、正面6本、側面13本の円柱で囲まれ、内陣にはヘラ女神が安置されていたらしい。

ギリシャ神殿なので正面は東に向いており、正面の前方には大きな祭壇が残っている。この祭壇で牛や羊を焼いてヘラ神に捧げたのだそうだ。

ついでにと言ってガイドさんが図解入りの解説書を広げて、神殿の造り方の講義を始める、

円柱は石切り場で、一定のサイズの円筒状に鑿で掘り下げた後、円筒の周りに穴をあけ木の楔を打ち込み水を流し込んで膨張力を利用して切断したのだそうだ。

エジプトのオベリスクの切り出しでも同じような話であった。

コロとテコの人海戦術で石材が神殿敷地に運ばれてくると、大きなクレーンで5~6tの重さを吊り上げたという。現代と違うのはモーターと人力の差だけで、車輪を漕いでロープを巻き、滑車で石材を吊り上げる仕組みになっていた。

詳細な設計図に従って工事は進められ、石材には符号が付けられどこの箇所に取り付けるか分かるようになっていたらしい。日本の大工さんが家を建てるのと同じやり方で興味深い

円柱は円筒(ドラムと言う)を4つ重ねて建てるが、ドラムとドラムの接合にはかすがいを入れ揺れても倒れないようにしてあるとのこと。また、運搬や吊り上げがし易いように石材にはくぼみが付けられたり穴があけられていたそうだ。