アグリジェント~シラクーサ

シラクーサの歴史など

9時前にホテルを出発、ヘラ神殿に車窓からお別れをして次の観光地シラクーサに向かう。シラクーサまで3時間半、シラクーサ観光の後、さらに2時間ほどかけてタオルミーナまで移動することになっている。ヨーロッパのツアーは何処に行っても長時間の移動がつきもだが、今回もその例に漏れないようだ。

たっぷり時間があるのでちょっと長めの添乗員のお話。
先ずはシラクーサの歴史から

コリントのギリシャ人が本土から岬のように突き出たオルティージャ島にやって来て殖民都市をつくったのはBC734年頃のことであった。(コリント人はデルフィーの神託を仰いでシラクーサを選んだ筈だが、巫女が何を囁き神官はどんな神託を授けたのか知りたいものだ)

シラクーサは大発展を遂げ、シチリアのギリシャ殖民都市では最強の都市になっていくが、その過程で強力な僭主が現れ、独裁的な権力を握り良きにつけ悪しきにつけ歴史に名を残している。

BC480年には僭主ゲロンがアグリジェントのテロンと共にヒメラの戦いでカルタゴを破ったのが有名で、ゲロンは莫大な賠償金をもとにアテナ神殿を建設した。

BC415年にはアテネがペロポネソス戦争の最中にも拘らず、2万5千人の軍勢でシラクーサを攻めるという事態が発生する。最初はアテネ軍が優勢であったがスパルタが参戦すると形勢は逆転、アテネ軍はすぐに撤退すればよかったのに月食が起き、不吉だとして撤退を伸ばしために壊滅的な敗北を喫してしまう。

生き残った兵士7,000人は洞窟に閉じ込められ飢えと病気で死に絶えたそうだ。その洞窟は見学予定の天国の石切り場の洞窟とは違うとのこと。

BC4世紀には勢力を盛り返してきたカルタゴに僭主ディオニシュオスなどが対抗、BC3世紀のヒエロン2世の時代にはシラクーサは第2次の黄金期を迎え、母市コリントスを凌ぎアテネに匹敵する大都市になっていた。現在のシラクーサの人口は約12万人であるが、当時は4倍以上の50万人に達していたと言う。浮力の原理を発見したあの有名なアルキメデスはこの時代のシラクーサ人である。

ヒエロン2世の死後、第2次ポエニ戦争ではシラクーサはカルタゴに味方し、アルキメデスが、梃子の原理を応用した石投機や船首を吊り上げて転覆させるクレーン、遠方から船を発火させる巨大な集光レンズでなどを作り、ローマ軍を苦しめたと言われている。

添乗員の次のお話は太宰治の小説‘走れメロス’、シラクーサが舞台となっているそうだ。‘走れメロス’は高校に入ったころ読んだ気がするが、その舞台に現実に立つと思うと何とも不思議な感じである。

物語はシラクーサ近郊の村人、メロスが妹の結婚式のための買い物にシラクーサに来て見ると町の人々が皆沈んだ顔をしている。理由を聞いてみると、ディオニシュオス王が暴君で家族や無実の人まで殺していると言う。

メロスは王を除かねばならぬと宮殿に向かうが、すぐに捕らえられ死刑が言い渡される。ただ、妹の結婚式のために3日だけ猶予が与えられるが友人を人質に差し出すことが条件であった。

無事に結婚式を済ませたメロスは濁流となった川を渡ったり、山賊に襲われたりしながらも、友人の処刑直前に疲れ果てた様子で帰ってくる。

これを見ていた王は真実があることを悟り、人を疑うことを止めたというお話である。

メロスは架空の人だが、ディオニシュオス王は実在していた人物である。

僭主は分を超えて成り上がった者だけに、市民の評判を大切にして善政を行ったと言われている。ディオニシュオス王は果たして暴君であったのか、それとも濡れ衣を着せられたのだろうか。