パレルモ~モンレアーレ

8時半にホテルを出発、シチリアの観光が始まる。
パレルモでの最初の観光予定はマルトラーナ教会であるが、ミサが行われていて入場できないとかで、順番を入れ代えてモンレアーレの大聖堂の見学を先にすることになる。でもって、パレルモの南西8kmにあるモンレアーレに向う。

車窓に新市街のビルを見ながらバスは走り始めているが、ガイドさんの話しではこの辺りのマンションは㎡当たり4,000ユーロするそうだ。
120㎡のマンションとなると8千万円以上になり結構高い買い物になる。

添乗員のパレルモについてのお話

パレルモはシチリアで1番大きい都市で現在の人口は約68万人。古来、地中海の十字路と呼ばれていた町で、BC8世紀にフェニキア人が町を作って以来、1860年にイタリアが統一、シチリアも統一イタリアに併合されるまで、カルタゴ、ローマ、ビザンチン、アラブ、ノルマン、フランス、スペインなどいろいろな支配者がやってきたので異文化が入り混じった町となった。

地理的には山に囲まれていて夏はとても蒸し暑く、平均気温は35度前後になる、一方、冬はアフリカから風が砂と共に流れてきて、日中気温は20度前後になり比較的温暖である。アーモンドがきれいな花を咲かせるのは2月で、日本の季節感とはずれがある。

シチリアのシンボルマークのトリナクリアのお話

トリナクリアは顔がメドゥーサで3本の足を持っている。3本の足は3角形の形をしたシチリアの3つ岬を表すとも、春、夏、冬の3つの季節を表すとも言われているそうだ。何故か秋がないが、シチリアの秋は短いからだそうだ。

トリナクリアは土産物の絵皿などに描かれているのでモンレアーレの参道でも見られるとのこと。(メドゥーサが何でシチリアのシンボルなの? →シラクーサのガイドさんの説明

バスがモンレアーレに近づいて、モンレアーレについてのお話

‘モンレ’は山、‘アーレ’は王なので、モンレアーレは‘王の山’という意味になる。モンレアーレが王国の中枢になったとき、モンレアーレ(王の山)と呼ぶようになったという。現在の人口は27千人、海抜300mの丘の上にあり、かってオレンジ畑やレモン畑が黄金に輝いていたと言われるコンカ・ドーロ(黄金の盆地)が麓に広がっている。

大聖堂の建立にあたっては逸話があり、王家の狩場のあったモンレアーレの山中でグリエルモ2世が狩りをした後、疲れてうとうとしていると夢に聖母が現れて黄金が隠された場所を示し、その黄金を使って聖堂を建て聖母マリアに献堂するように命じたと云うものである。祖父のルッジェーロ2世の時代にもパレルモの大司教との間に確執があったと言われているが、13才の時父を亡くしたグリエルモ2世を家庭教師として養育したパレルモの大司教が若いグリエルモ2世を教権に従わせようと画策していたという。

グリエルモ2世がパレルモのすぐ近くに大聖堂を建てたのはパレルモの大司教からの独立と王権の誇示の目的もあったようだ。このために聖母マリアにお出ましを願ったのかも知れない。

バスが駐車場に停まり、添乗員が大聖堂へは80~100段くらいの階段を上って行きますが、タクシーを利用する手もあります。私の記憶では、たしか1€だったと思いますと案内してくれるが、全員がガイドさんの後について歩く。

モンレアーレ観光

大聖堂の正面(ファサード)

土産物屋が並んでいる参道を7~8分歩いて土産物屋が途切れた右手、大きな椰子の木の植わった広場に面して大聖堂のファサードがある。キリスト教の教会堂なのでファサードは西向きになっており、後陣は東側にある。ファサードの両端に塔が立っているが右手の塔が4段なのに左側の塔は2段しかない、グリエルモ2世は36才の若さで亡くなったと言われているので、未完成のまま放置されたのだろうか。

ファサードの1階入口部分は半円のアーチが3つ並ぶ列柱様式になっているが、2階のアラブ風の尖塔アーチが交差する模様とは違っているし、全体に白っぽい感じである。後の時代に修復されたのか、ちょっと違和感がある。
全体として、大聖堂の外観はロマネスクの教会堂らしく素朴な感じである。

現在、このファサードは通常の入口としては使用されておらず、左手に回り、ヴィトリオ・エマヌエル広場に面した大聖堂脇に柱廊玄関がある。この広場の周りにはかっては王宮や司教館があったが、現在では1部が市役所などとなっている。

柱廊入口の右手には大聖堂を聖母マリアに捧げているグリエルモ2世像、左手には聖母マリア像が安置されている。

大聖堂に入る

大聖堂の中に入ると、少し薄暗いが、外観とは全く異なる豪華絢爛な世界で、黄金のモザイクが壁全体を埋め尽くし荘厳な感じである。

身廊の中ほどで、先ずはガイドさんの説明から、(ちょっぴり予習の成果も加えて)この大聖堂はシチリア・ノルマン王朝3代目のグリエルモ2世が1174年から建設したもので、そのプランはラテン十字のバジリカ式と言われ、幅が約40m、奥行きは102mあります。

身廊の両側にそれぞれ9本の柱が並び、身廊と左右の側廊を分ける形となっています。また、内陣の横には大きな翼廊を備えています。翼廊には王家の柩が置かれていますので、後で翼廊にも回ってみることにしています。

この大聖堂はロマネスクとビザンチンが合体したシチリア・ノルマン様式と言われています。柱の上の尖塔アーチやあちこちに見られるアラベスクなどイスラム建築の影響も色濃く別名アラブ・ノルマン様式とも言われています。

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