ベル神殿の見物の後、昨日泊ったわれらのホテルに戻って昼食。イランでは外国人といえどもアルコール類は一切禁止であったが、シリアでは外国人の観光客を相手にするホテルでは自由に飲めるようだ。地ビールはUS4$、下戸には味は分からないので、とにかく冷えていればご馳走である。

食後、次の観光地、クラック・デ・シュバリエに向けて出発。3時間弱、沙漠の道をひた走る。途中、シリア第3の都市ホムスの郊外にはシリア最大の石油精製所が煙をあげているのが見える。

シリアは産油量が減ってきているらしいが、この所の高騰で潤っているのかもしれない。ブッシュのテロ支援国家の指定で天然ガス油田の開発は遅れがちらしい。トイレ休憩のあと3時半過ぎにクラック・デ・シュバリエに到着する。

クラック・デ・シュバリエ

ヨーロッパでクラック・デ・シュバリエとして知られているこの城塞は‘クルド人の城’あるいは‘騎士の城’と言われ、ホムスから60km、シリア海岸からはわずか30kmの標高750mの切り立った小山の上に建っている。広さは約3万㎡。

もともと、ホムスの君主が砦を築きクルド人守備兵を置いてトリポリ、ホムス、ハマ方面からやって来る敵の防御にあたらせていたという。

聖地エルサレムを奪回するために遠征した十字軍が、シリアの地中海への出口を押さえる位置にあるこの砦を占領した、1110年であった。

十字軍は砦を2重構造に改築し、4000人の守備兵が駐屯できる強固な城塞にしたそうだ。城は13の監視塔を持つ外壁と、濠を巡らせ城の中の城と言われる内城からなっていて、濠は貯水の役割ももち、5年間の包囲に耐えられる食料、水を備えていたという。この城塞がマムルーク朝のスルタン、バイバルスの手に落ちたのは十字軍の遠征も終わっていた1271年のことであった。

東側の入口を入り、途中、食料貯蔵庫や厩、侵入してきた敵兵にオリーブの熱湯を浴びせる油落しなどを見ながら通路を進んでいくと、外壁と内城を繋ぐ橋に出てくる。

ここから、濠や外壁、内城の塔などが眺められ、ま近に見ると、それはいかにも堅固で巨大な重量感があり、攻略するのは至難の技と実感する。アラブの英雄サラディンも騎士の城を一目みて通り過ぎたと言われている。

内城の入口の上には2頭のライオンの浮き彫りがあるが、説明がないとライオンと判別し難いほど傷みがひどくなっている。400頭を収容出来た厩(馬を繋ぐでっぱりが残っている)を通って城内に入る。

小麦、ワイン、 オリーブなどの食料倉庫、キッチン、オーブン、テーブルの足だけが残っている兵士のダイニングルーム、など見て回る。

礼拝堂はモスクに変えられ、説教台やメヘラブが作られているが、壁の一部に

十字軍時代のフレスコ画が残っていたり、騎士の集会場とされた部屋や廊下はゴッシック様式の作りであったり、ヨーロッパとアラブの建築様式が入り混じったりしている感じである。

このあと君主の寝室という塔の屋上に上って、遠くレバノンの山々の風景を眺めてクラック・デ・シュバリエの観光は終わり。

ハマ

クラック・デ・シュバリエからハマへは1時間余り。

途中、雨が降り出してくる。ダマスカスやパルミラでは晴れていたので忘れていたが、実は出発が近づいてシリアの天候を調べた時、ハマやアレッポには曇りや雨マークが続き、旅行に雨はいやだなと思ったりしてカッパを1枚用意している。雨はバスがハマに着く頃にはあがったので、どうやら地中海性気候の雨はじとじと降る雨ではなさそうである。

ハマと言えば水車、ローマ時代の2~3世紀ころに始まり、アイユーブ朝の時に 修復され、その後修理を重ねながら現在も回り続けているそうだ。

添乗員の話では、オロンテス川の水量が少なく、同僚がしばらく前に来た時には水車は止まっていたとかで、心配ですとのことであったが、バスを降りると目の前に直径20mの水車が回っているのが目に入ってくる。水車をカメラにおさめてハマの観光は終わり。

ハマからアレッポまで2時間ほど、8時過ぎにアレッポのホテルに到着する。

パルミラのホテルを出発したのが8時前だったので今日の観光は12時間強、強行軍である。

今回の旅行社は初めの利用であるが、添乗員がモーニングコールや朝食時間などのスケジュールを複写式のメモ用紙に書いて渡してくれ、また部屋の前まで来て水回りなど不具合がないか、いちいち確認してくれる。

いつもの旅行社の添乗員とは少し心がけが違うようだ。たしか北欧旅行の時、添乗員が同じように小まめに働いていたが、その時以来である。