エド・ディルを征服したので、次は犠牲祭壇をめざす。
上りはドンキーの背中で景色を見る余裕があまりなかったので、下りは景色を楽しみながらゆっくりと降りる。岩山の間にローマ市街や王家の墓を遥かに見渡せる絶景ポイントもあって、登山者の喜びはこんな処にあるのかなと勝手に想像する。

途中、ライオン・トリクリニウム(案内板にはBicliniumとある)に寄り道する。墳墓ではなくて、中に3つベンチ(tri)があって誰かが死んだ時、飲み食いをしたところらしい。入口の両脇にライオンのレリーフがあるのでライオン・トリクリニウムと呼ばれているようだ。案内板にはLion Bicliniumと書いてあってベンチは2つ(bi)あったと書いてあるがどうなんだろう。

また、案内板によるとファサードはトリグリフとメトープで装飾され、その端にはメドゥサの首があると書かれているが、入口の梁にメドゥサの首らしきものが見て取れるが、風化が激しいこともあって、何の事かよく分からない。

フォーラムまで降りてきて、列柱道路を戻るのも芸がないのでガイドさんお勧めのビザンチン教会のモザイクを見に行くことにする。
山腹の途中に翼を持ったライオンの神殿と呼ばれる跡がある。神殿の柱に翼を持ったライオンが彫刻されていたことから、そう名付けられたそうだが、破壊が激しくて修復中のようだ。

ここからローマ市街を眺めると列柱道路の上方にこれも修復中の大神殿がある。大神殿がナバテア人の主神ドゥシャラ神を祀ったものなら、対面する此方は配偶神のアル・ウッザー女神の神殿となるのだが?・・・・

翼を持ったライオンの神殿から少し歩くとビザンチン教会に着く。この教会だけがペトラで唯一屋根付きである、と言ってもテント張りなのだが。
教会はAD450年頃に建てられ、南側の柱のところの季節のモザイクは当時のものらしい。その後2度、増改築がされ壁や北の通路などにモザイクもが加えられたようだ。AD600年頃には火事や地震で破壊され、モザイクも埋もれてしまったらしい。

モザイクは修復されていて、葡萄やワイン、鹿や、牛、馬、羊やハイエナなど動物が生き生きと描かれていて、見ているだけでけっこう楽しい。

さて、ペトラ見物の最後は犠牲祭壇、アタフ・リッジ山の頂上にある。
登り口はローマ劇場とアウター・シークの間にあって、ちょっと分かり難いがガイドさんに教えて貰っているのですぐに見つかる。
犠牲祭壇への階段はエド・ディルよりちょっと少ないらしいが、こちらは険しくて段差もきつい、崩れかけた階段や岩に浅いへこみを付けただけの階段、すぐ横が断崖になっている岩の道もある。

膝ががくがく言っているし、足を滑らせたら断崖の底に落ちて見つからないのではと心配になってくる。無理をしないことに決めて何回か休んでいると、疲れた東洋の爺さんが気にかかるのか、追い越していく人や降りてくる人が声をかけてくれる。また、疲れもあって、階段ですれ違う時も気軽に声が出る。イタリアやフランスなどヨーロッパの人が多いが、二人連れの若い女性はオーストラリアとフィンランドから来ているそうで、ツアーでヘルシンキに行ったと話すと、サンキューとにっこり。

ずい分登って、そろそろ頂上に近づいたと思って声を掛けてみると、Long Wayだと言われがっかりする。そんなこんなで1時間あまり登ってやっとオベリスクが見えて、頂上にたどり着く。

犠牲祭壇に着くと、岩を削って平らにし、さらに50センチくらい掘り下げ、プールのようになっている15m×7mくらいの祭壇の前庭らしきものが、まず、目に入る。 真ん中に低い台には何かが置かれていたらしい。

この前庭の左手に祭壇が2つあって、手前の祭壇に上がってみると丸い水盤のように彫られたものがあり、そこから溝が下の方に伸びている。殺された動物の血を流す祭壇のようだ。右手の祭壇が主祭壇で生贄を捧げたところらしい。

何でこんな所まで登って生贄の儀式をするの、という思いだがナバテア人は高所を聖なるものと考えていたようだ。犠牲祭壇の奥は岩が連なっていて、その先にペトラの全景やワディ・ムサの町まで見渡せるView Point がある。岩の先端に行けばペトラの全景がうまくカメラに納まりそうだが、無理はしない。

岩肌に寝そべって目を閉じていると、何故かアステカの生贄のことが思い出される。ナバテア人の生贄は動物だけだったのだろうか。
犠牲祭壇を降りてシークを入口に戻るが、少しの上り傾斜がきつい。足が重くなって棒のようだ、休みやすみ、また休みながら馬乗り場にたどり着く。

ここで値段交渉、USドルでいくらかと聞くと、ベドウィンは3$だとふっかけてくる。ワンダラーだと言うと、馬だから高いんでドンキーだと2$だと値段を下げてくる。

相場が分かっているし、買い手市場なので、この場合は要らないと突っぱねるのが値段交渉のコツ、乗らないふりをして歩き始めると、追っかけてきて、渋々1$でもいいと言う。

朝、貰った観光案内をレストランに置き忘れてしまったのでビジター・センターに寄って窓口で頼むと、今度はあっさりと渡してくれ、中国人かと聞いてくる。日本人だと言うと、中国語が読めるかと聞いてきて、薬ビンのようなものを差し出してくる。そもそも英語で説明する能力がないので手に取るのを遠慮申し上げた。 実は、観光案内のペトラの地図をHPに使う積もりなので、どうしても手に入れたかったのだが、置き忘れた観光案内は次に日に北九州市から参加の奥さんに忘れ物ですよと手渡して貰った。感謝々。

ビジター・センターからホテルまでのタクシー交渉はベドウィンと同じ要領、ガイドさんから聞いていたUS2ドルでまとまる。

部屋に戻ってしばらく横になってから、ガイドさんに電話して、無事ホテルに帰っていることを伝え、添乗員に代わって貰う。(携帯は海外ローミングの出来るドコモのL600iにしている)

添乗員からホテルに着くのが遅れるので先に食事をして下さいと言われ、一人で食事をしながら周りをみると、5~6組のヨーロッパのツアーの中で飲物をとっているのは1組だけである。US6$のビールなどを、何時も優雅に飲んでいるのは日本のツアーだけのようだ。

後で、添乗員から聞いたところでは、ワディ・ラムに行く途中、バスがパンクして時間を取られ予定が大幅に遅れたらしい。日本では考えられないことが中東では起こるようだ。添乗員の話をもう一つ、皆さん、フリータイムに三々五々、シークの出口からペトラの入口まで馬に乗って帰り、料金として1YD(ヨルダンディナーレ)を払うと、2や3YDを要求されてトラブッタらしい。行きが1YDだったので、帰りも同額と思うのが日本人なら当然だが、交渉事なので日本人の常識は通用しなかったようだ。