パルミラ

7時50分にホテル出発、すぐにパルミラの遺跡が見えてくる。世界で最も美しい遺跡といわれるパルミラにはどんな物語があるのか、楽しみである。

記念門のそばでバスを降り、まず、ガイドさんの説明から、

沙漠の花嫁とも言われたパルミラはダマスカスから北東に約230km、ユーフラテス河と地中海を直線で結ぶシリア沙漠の中心に位置している。

地下水が湧き出て、ナツメ椰子の繁るオアシスの周りには古くからカナン系の遊牧民が住みついていたが、BC20世紀にはメソポタミアに進出するアモリ人の拠点になったり、BC10世紀頃にはアラム人がやってきた。アラブ系の人口比重が高くなってからもアラム語が使われ、アラム人の宗教や商業文化がパルミラに根付いていった。アレキサンダー大王の東征以降はギリシャやローマの影響を受けるようになり、アラム語でタデモル(椰子の町)と呼ばれていた町の名前もギリシャ語読みされてパルミラと呼ばれるようになった。

BC3世紀ころには、シルクロードの隊商交易が活発になり、アジアから絹や胡椒、香料がローマに、ローマからは葡萄酒やガラスなどが東方に運ばれ、パルミラは中継地として賑わい始める。そして、パルミラの繁栄が頂点を極めたのはAD3世紀であった。AD260年、ローマ軍がササン朝ペルシャに敗れると、パルミラ軍を率いたオダナイトがペルシャ軍を撃破、その功績によりオダナイトはローマ軍東方総督に任命されたりした。

AD267年、オダナイトが暗殺されると妻のゼノビアが実権を握った。

オリエントで最も高貴で美しいと言われたゼノビアはギリシャ語、アラム語、ラテン語などに通じ、哲学も語ったが、乗馬や狩猟も好んだと言われている。

ローマからの独立をもくろんだ彼女はエジプトに進撃、次いで小アジア(トルコ)の大部分を征服するなど破竹の勢で領土を拡大していった。

ゼノビアが、パルミラ帝国を宣言、女皇帝を自称するに及んで、ローマ帝国もパルミラ討伐の軍を発し、AD272年にゼノビア軍を粉砕した。ゼノビアの夢はわずか5年足らず、真夏の夢だったのだろうか。

ローマ軍は徹底的にパルミラを破壊し、駐屯基地にしてしまったので、隊商都市パルミラの賑わいが再び甦ることはなかった。

パルミラの遺跡は10平方キロメートルの広大なものだが、その中心地域は4つに分けられ、1つはベル神殿から記念門までの区域、2つ目が記念門から四面門の辺り、3番目は四面門からデクマノス(ローマ遺跡では東西の道路がデクマノスで南北がカルドだと聞いたことがある)がずっと奥のダマスカス門まで伸びる区域、最後がディオクレティアヌス城砦で、ローマ軍がゼノビアの宮殿を壊して、その上に築いた。

記念門

さて、パルミラ観光はまず記念門から、この門がパルミラの市街地への入口である。中央に大きなゲート、その両側に小さいゲートがある。中央のゲートは隊商がラクダに乗って通り、両脇のゲートを人間が通った。アーチを見上げると幾何学模様が残っており、当時は柱や桁も葡萄やアカンサスなどの植物や唐草模様の装飾が施され、隊商を歓迎する絢爛、豪華な門であったようだ。

フランス人が修復し、トリオムフェ(凱旋門)と言っていたらしいが、勝利の凱旋のために造られたわけではないので、一般に記念門と呼ばれている、と言っても特別何かを記念したものではない。ハドリアヌス門と呼ぶ人もいるが、ローマ帝国中を巡回した旅好きの皇帝ハドリアヌスがパルミラを訪れたのはAD129年、この門が造られる100年も前のことなのでハドリアヌスを称えたものだとも思えない。

‘Welcome to Palmyra’、財力豊かなパルミラが大切なお客への歓迎の意を表した迎賓門とみるのが一番自然のようだ。

列柱道路

記念門を潜ると、いよいよ列柱道路である。テレビや写真で何度か見た列柱は美しく整然とした感じであったが、近くで見ると、幅10mほどの道の両側に高さ10m、直径1mの柱が林立する様は圧倒的で威圧感がある。

列柱道路はベル神殿から始まり、記念門で少し方向を変えディオクレティアヌス城塞まで東西に伸びる約1.2kmの道路で、両脇には片方に350本ずつ合計750本の柱が並んでいた。道路は砂漠を横断するラクダの足を守るために舗装されなかったという。円柱のなかほどに出っ張りが残っているが、この上に軍人や貴族、隊商の有力者などの彫像が置かれていたそうで、ラクダに乗って通る隊商の目線に丁度合わせてあるという。列柱に沿って商店が軒を並べ、隊商の財布の紐を緩ませていたらしい。

現在、柱はシリア考古局の手によって80本ほどが修復、再建されている。

ナボ神殿

列柱道路を少し進むと左手にナボ神殿が見えてくる。パルミラの貴族エラベル家の寄付でAD2世紀頃に建設された。

ナボはハンムラビ王によってバビロニアの最高神にされたベル・マルドゥクの息子で書記の神、マルドゥクの持つ天命の書に人間の運命を記したという。

時代が下って新バビロニア時代には最高神となり、シリアでは特に広く崇められた神様らしい。

ヨーロッパ人は己の尺度で物を見るのでナボ神をギリシャ神話のアポロンと見做しているという。

ドーリア式の柱頭を持つ列柱廊が取り囲む敷地内に内陣があったと言われているが、残念ながら、現在、ナボ神殿は敷石とわずかな柱が残っているだけである。

ディオクレティアヌス浴場

列柱道路を挟んで向かいにあるのがディオクレティアヌス浴場。浴場と言っても冷、温浴場やプール、更衣室やジムナシオン(体操場)を備える横85m、縦51mの本格的なローマ浴場である。

入口の4本の柱を潜るとプール跡があるが意外と小さく‘ゼノビアがこんなところで泳いだの’と言った感じである。

列柱の裾には、浴場や住宅、店舗に給水した水道管が残っていて、山の麓の泉から水道管で水を引いてきたことがよく分かる。