バスがアンマンに近づくと、例によって添乗員のヨルダンについてのお話が始まる、
国の名前はヨルダン・ハシミテ王国(ハシミテはムハマンド曽祖父ハシムの子孫の意味)、立憲君主制で現在の元首はアブドゥラー2世国王。
面積は8万9千k㎡、日本の約4分の1、国土の80%は砂漠や荒れ地が占めている。

人口は600万人で、パレスチナ系の住民が7割以上を占めているうえに、最近はイラクからの難民が70万人も押し寄せ、首都アンマンは200万人に急膨張している。公用語はアラビア語、英語が比較的通じる。宗教はイスラム教が93%、残りがキリスト教4%など。ヨルダンには石油資源がなく農業に適した土地も少ないので、産油国への出稼ぎが多い。

ヨルダンの歴史は古く、ヨルダン川流域には石器時代の50万年前に遊牧生活をする人類がいたと言われ、BC1万年頃にはヨルダン渓谷で世界最古の農業が行われていた。

BC1000年ころにはエドム人やアモリ人などの王国があり、BC4世紀にはナバテア人がペトラを都にしてヨルダンに王国を築いていた。しかし、AD2世紀にはナバタイ王国はローマの支配下にはいる。7世紀になるとイスラム軍が侵入、ダマスカスにウマイヤ王朝ができるとヨルダンは徐々にイスラム化されていく。

その後、オスマン・トルコの支配、イギリスの委任統治の後、1946年に独立し、ヨルダン・ハシミテ王国が誕生する。

第3次中東戦争でヨルダン川西岸とエルサレムをイスラエルに占領されるが、1994年にイスラエルと平和協定を結びイスラエルとの長い戦争に終止符をうつ。

ホテル出発は少し遅めの9時半、ダウンタウンに向かう。
アンマンは古くはフィラデルフィアと呼ばれていたが、エジプトのプトレマイオス2世がBC3世紀にアンマンを占領した時、自分の名前のヒラデルポスに因んでフィラデルフィアと名付けたと言われている。

さて、今日は金曜日、休日である。ダウンタウンはすでに雑踏となっており、最初の観光予定のアル・フセイニ・モスクの付近で駐車できるか心配であったが、なんとかドライバーさんが写真タイムを確保してくれる。

アル・フセイニ・モスクはアブドゥラ1世が古いモスクの上に1924年に建立したモスクでアンマンでは1番格式の高いジャーメモスクなのだそうだ。時間が早いのか、中に信者はいないようだ。異教徒は中に入れないらしい。

次の観光がローマ劇場とオデオン。 ローマ劇場は自然の傾斜を生かして造られたAD2世紀のもの、7千人を収容すると言い、オルケストラに動物を生贄にした祭壇が残っている。町の真ん中にある劇場だがボスラのローマ劇場を見た後なのでもう一つ感激がない。

アクロポリス(アンマン城砦)

ガイドさんによれば、アクロポリスにはBC9世紀にはアンモン人の神殿があり、その後ギリシャ、ローマ、ビザンチン、イスラムが入ってきたので、それぞれの時代の遺跡が残っているとのこと。

ジャバル・アル・カラーという小高い丘の頂上付近でバスを降りると、左手に柱が3本だけ残っている遺跡がある。ローマ時代のヘラクレス神殿で、AD2世紀、フィラデルフィアの黄金期に造られたものだそうだ。神殿には高さ9mのヘラクレス像が祀ってあったとかで、その指の部分がアンマン国立博物館の入口にある。

このヘラクレス神殿からアンマン市街を眺めると、丘の斜面にへばりつくように立ち並んだ家々はスラムのように見え、難民が流入するヨルダンの断面を見る思いである。

道路を隔てて右手にはビザンチン時代の教会跡、ウマイヤ朝時代の宮殿などがあるが、発掘、復元の途上なのか今一つといった感じである。

アンマン考古学博物館

アクロポリス観光の最後がアンマン考古学博物館、この博物館は写真撮影OKである。ガイドさんはフリータイムにしますと宣言する、博物館見学はガイドの腕の見せ所だが、このおっさん、職場放棄?、それはないでしょうと言うことで、主なものを説明して貰う。博物館の1番重要な展示品はと聞くとやっぱり死海文書だそうだ。

人体塑像

1983年~1985年にアンマン郊外のエイン・ガザルで30体ほど発見されもので、BC6500頃の世界で最初の人体像といわれている。

葦の骨組みの上に漆喰で固めた塑像で、体には色付けのあとがあり、目は白い漆喰が使われ、縁取りと瞳には瀝青が使われているらしい。高さは60cm~1mほど。カップル像は夫婦とみられ、ユーモラスである。床下に丁寧に埋められていたようで先祖を崇めていたものと言われている。 カップル像は2004年に東京に出張したそうだ。

アタルガティス女神像

肥沃を司るシリアの植物の女神、ヨルダン南部のヒルベット・タンヌールのナバテア人神殿で発見された。AD100年くらいと考えられている。

一見、ちょっと不気味だが、よく見ると葡萄や椰子などたくさんの植物から女神が現れようとしているところのようだ。アタルガティス女神はハダト神の配偶神だと、何処かで読んだ気がする。

円筒型土棺

BC1000~540年頃の土棺、キャップのような蓋には人物像が描かれているものもある。土棺の横に付いているつまみはロープを掛けて運ぶためのもの。

この他埋葬に関連したものには、エリコの共同墓地の復元模型、壷に入れて埋葬されていた幼児の骨格、頭蓋骨の塑像など。

死海文書

死海文書は右奥の部屋に展示されている。1947年に死海北西岸のカムラン洞窟で羊飼いによって初めて発見され、その後次々と発見が続いた。
ガイドさんによれば、羊皮紙の断片にヘブライ語で旧約聖書が書き写されているとのこと、銅板の巻物は聖書とは関係のない財宝や武器のリストらしい。

死海文書は850巻以上、旧約聖書のほぼ全編の写本や関連文書からなり、写本が書かれたAD1~2世紀の政治的、宗教的背景をも知ることが出来る貴重なものとか、死海文書の殆どはイスラエルの博物館が所蔵しているという。

この他、城壁をかたどった冠を戴いているアンマンの守護神テュケの頭部像、ニンファエム頭部像、アポロン像、などなど、消化不良気味だったアクロポリスの見物も最後の博物館で満腹になる。